前号の続きということで、「人生の店仕舞い」の時期や趣に近いとされている句をめぐって、また妄想をはたらかせてみると、
美しき骨壷牡丹化(かは)られている(荻原井泉水)
季語無用論を主張し、十七音の定型にとらわれぬいわゆる自由律俳句を提唱した作者(1884~1976年)によれば、「俳句は印象の詩」であり、「印象より出発して象徴に向かう。俳句は象徴の詩である」ともいう。そうならば、この作者の辞世の句といわれている詩は何を象徴しているのだろうか。病床の床の間にでも用意して飾っていた骨壷から、妖艶な牡丹に転生するロマンの世界でも夢見て旅立とうとしていたとでも想像してみたらどうであろう。
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(与謝蕪村)
この著名な句に近代の象徴詩と通ずる詩風を感じ取った詩人萩原朔太郎(1886~1942年)によれば、俳句の本義は抒情詩にあり、表現様式の違いはあれ、芭蕉と同じく蕪村の句もその例外ではないという。芭蕉を「主観(情)的」「人生派」、蕪村を「客観(写生主義)的」「情景派」とみる定評では蕪村は理解できず、およそ「主観のない芸術」など存在しないし、単なる「叙景派の詩」など実在しないとも述べている。では、蕪村にとってこの「主観」の実体は何だったのだろう。朔太郎によれば、それは「蕪村の魂が詠嘆し憧憬し永久に思慕したイデア(美の観念)」、すなわち蕪村の魂の故郷に対する「郷愁」であり、「子守唄の哀切な思慕」である(「郷愁の詩人与謝蕪村」)。そう考えると、この「しら梅」は蕪村が憧憬した心のノスタルジア、永遠に女性的なるもの、朔太郎の言を借りれば、はるか遠い遠い昔に耳にしたであろう子守唄を口ずさむ「慈母の懐(ふところ)」の象徴なのかもしれない。白々とした黎明時の末期の目には、哀れや安らぎの象徴としての美的形象が映じていたことであろう。
紫陽花や水辺の夕餉早きかな(水原秋桜子)
作者(1892~1981年)は「ホトトギス」の「客観写生」に飽き足らず、主観と叙情の詩趣を重視したといわれているが、それからすると、このいわゆる辞世の句はいかにも生活の中の明朗で健康的なロマンを詠い上げたものといえるであろう。川岸に広がる田園風景で永遠に繰り返される人間の日常の営みを、人々の求めてやまない炉辺の幸福を色彩豊かに芸術化し美化しょうとしたのかもしれない。