紫煙
※喫煙描写あり
紫煙
低く、獣の唸るような、声を聞いた。
薄く開いていたドアに手をかけたジャンが目にしたのは、
俯いて、小さく震えているグレイの背中。
そして、いつもと変わらない、静かな声でグレイの名を呼び、
彼の肩に触れるクローディアの姿だった。
ああ____
声には出さず、ジャンは小さく息を吐き、そしてそのまま宿の廊下を引き返し歩き始めた。
メルビルの今夜の夜風は、甘い草の匂いを孕んでいた。
想像していたよりも風は暖かく、ジャンは夜空を仰いだ。ジャケットの胸ポケットを探り、煙草入れを取り出す。
火を灯そうと俯いたジャンは、風の匂いとは異質の、しかし甘く深い匂いを感じて顔を上げた。
「やあ」
少し離れた場所から、大柄な女性がひらひらと片手を振っていた。シフだった。
甘い匂いの正体は、どうやらシフが持っている煙草のようだ。
「こんばんは」
ジャンもシフのそばに腰掛けた。
「珍しい香りの煙草ですね。シフさんの故郷のものですか?」
「そうだよ。このへんで売ってる煙草はずいぶん軽くて吸った気がしないね。
あんたが持ってるのは帝国の煙草かい?」
「そうです、バファルでは煙草は帝国の専売で売られてますけど、私は軍に属してますので、これは支給品です。」
「そうかい。」
シフは少し可笑しそうに言うと、手にした煙草を深く吸い込んだ。煙草の火が明るく燃え、シフの長い睫毛が照らされた。
ジャンも煙草に火をつけ、煙を腑に落とす。シフの煙草の香りが、また辺りにたちこめた。
「あんたも煙草を吸うとは知らなかったね」
「私もそう思っていたところです。私は、ホラ、グレイの奴が煙草が嫌いで____」
そこまで言いかけて、ジャンは言葉を続けられなくなった。先刻見た光景が思い出される。
ジャンのその様子を、シフは不思議そうな顔で眺めていたが、数秒ののち、ああ、と小さく息を吐いた。
ジャンはすこし笑った。彼にシフが尋ねた。
「ねえ、ジャン、あんたは・・・クローディアのこと、知っていたんだろう?」
「・・・そうです。」
「それでグレイにクローディアを紹介して、護衛を頼んだ」
「はい。」
「・・・・・・」
会話が途切れる。煙が揺れる。
「・・・シフさん」
「なんだい」
「・・・誰も私を責めませんね・・・」
「そりゃそうだろう。あんた悪いことしてないじゃないか」
「いや、そうは・・・」
思えなかった。
彼らの運命が動き出したのは、間違いなく自分がきっかけのひとつであったはずだ。
だとしたら、彼を泣かせたのは____
「・・・私が・・・」
「心配しすぎだよ。」
シフは小さくなった煙草の火を、ぐるりと地面に押し付けた。
ジャンはそれをぼんやりと眺める。
「いや、心配だよね。わるいことじゃない。
あたしも同じだ。あの子が心配だから、ここまでついてきたんだ。」
「・・・アルベルトですか・・・。」
「あたしが心配したからってどうなるわけでもないだろうね。」
「シフさんがいて、アルベルトも心強かったでしょう。」
「・・・どうなんだろうね。」
シフは新しい、火のついていない煙草を唇にあてた。
ジャンは黙ったまま火を差し出した。
宿の部屋に戻ったジャンは、ベッドで眠っているアルベルトを覗きこんだ。
目を閉じているアルベルトは、まるみのある頬の線が目立ち、小さな子どもにみえた。
グレイのベッドは空のままだった。
あの子が心配なんだ、と、シフは言っていた。
アルベルトは、静かに、深く、眠っていた。
<了>
きっと、大丈夫。
迷いの森とつながったお話でした。