神官の祈り
いつか言っていた「エグい話」。
※Rー18"G"に抵触する表現を含みます
神官の祈り
「神官様、光の術をどうかお授けください。」
「お父さんのケガの痛いのを、治してあげたいの…。」
若い母親、それから幼い男の子の声が、エロール神殿に静かに響いた。
神官はひとつ頷くと、錫杖を持ち替え、空中に文様を描く。
詠唱する声は、低く、冷たく、美しい。
神官の身体から、白く淡い光がにじむ。
光は暗く高い天井をも照らし、そこに繊細な彫刻が施されていることを浮かび上がらせた。
神官は、錫杖を若い母親の額にそっと押し当てる。
光がそこから流れ込む。
「これでおわりです。術は、治りを早め、傷の痛みを除くことはできます。しかし、身体の負荷を全て癒せるものではありません。
無理をせず、ゆっくりと養生なさってください。」
「…わかりました。ありがとうございました。授けられたこの術、大切にいたします。」
その声に、神官はまたひとつ頷いた。
がらん、と、金属音が神殿に響く。
「失礼」
神官は、取り落とした錫杖を拾う。
神官の左腕は、背の高いその身体に不釣合いな、奇妙に細いものだった。
錫杖をふたたび左手に持ち直す。その腕は、わずかに震えている。
錫杖を軽く握るのが精一杯の握力しかないのが見て取れた。
「…神官様も、ケガをしているの?」
男の子が尋ねた。
母親は顔色を変え、男の子をたしなめようとした。
神官は小さく頭を振って、母親を制止した。
「…痛い?」
「大丈夫だ」
神官の口調は、先刻までの重々しいものとは違い、子供に語りかけるそれの優しい声色だった。
母親は、神官の言い方になにか引っかかるものを感じた。
けれども表情を変えることなく、そのまま息子と神官との会話を見守った。
「昔、ひどい怪我をしたんだ。わたしはその頃、とても剣を扱うのが上手かった。
術や薬を使い、しばらく休めることで、怪我をする前と同じく剣を振るうことができた。
けれどわたしは、そのあとも、剣を振るって、戦い続ける必要があったんだ。
この腕にも、とても無理をさせてしまったのだと思う。
戦いが終わったあと、しばらくして、ほとんど動かなくなってしまったんだ。」
男の子は神官の左腕をじっとみつめながら、真剣な表情でその言葉に耳を傾けている。
神官はすこし顔をあげると、神殿をぐるりと見回した。
「この神殿にも、モンスターが溢れたことがあったんだ。
むかし、メルビルの街は襲撃された。
これからも、そういったことがないとは限らない。
この街の人々、それから女王陛下を護るためにも、わたしは強くありたかった。
腕が動かないことで、できないことはたしかに増えた。けれども、それでも、なにができるか、とてもたくさん考えた。
残されたものはたくさんあった。
剣を握ることはできなくなってしまったけれど、術をとても練習した。
軽い小型剣だったら、王宮の親衛隊たちよりも今でも余程上手く扱える自信がある。
なにができるか、考えて・・・
そうして今、ここでエロール神と女王陛下にお仕えしている。」
男の子は目を丸くして、神官の顔を見上げる。
神官の、色素の薄い瞳が、優しく男の子をみつめていた。
「怪我が治ったからといって、無理をしてはいけないよ。おとうさんにも、用心して大事にするよう伝えるんだ。」
男の子は、神妙な顔で頷いた。
* * *
神官は、自室の窓から夜景をみつめた。
メルビルの夜景が、とても好きだった。
就寝前の祈りを捧げる。
この祈りは、どこへ届くのか。
自分は、なにに祈っているのか。
本当は、それを知っている。
けれども、祈らないわけにはいかなかった。
祈りたかった。
目を閉じると、血の色を思い出す。
まぶたに焼き付いた光景があった。
倒れた彼女の、紙よりも白い顔色を。
彼女の腿を伝う、血の色を。
立ちすくんで動くことができなかった自分を。
あの頃。
手を伸ばせば触れられる距離に、彼女がいるのが嬉しかった。
彼女の支えになりたかった。
彼女を、求めていた。
触れたくて。
縋り付いて。
彼女が帰るべき場所を、知っていた。
それでも、その感情を押しとどめることなど、できなかった。
それがなにをもたらすのか、もちろん、知っていた。
そしてそれはやってきた。想像していたものと、全く違ったかたちだった。
それぞれ互いに求め合っていた結果のものだった。
長く辛い旅の無理が祟ったせいもあるのも明らかだった。
旅をやめることなど、できるはずがなかった。
いまでも。
いまでも、そばにいたい。
神官は、自分の左腕をそっと撫でる。
触れられた感覚は、ひどく遠くに感じられた。
腕が動かなくなったのは、彼女が本来いるべき場所に帰り、しばらくしてからのことだった。
途方に暮れていた頃、自分の経験を、立場を見抜かれて、神官として推挙されたのは僥倖だと思った。
窓から望めるメルビルの夜景。その中央で、仄かに灯りに照らされた宮殿が聳え立つ。
自分はこれからも、祈りを捧げ続ける。
彼女を、この街を、護り続ける。
数日前に彼女がこの部屋に忘れていったショールを手に取り、頬に当てると、神官はもういちど目を閉じた。
【了】
How long have we been rowing the boat since that time?
We saw a heaven and we saw a hell.
When the red tide comes in at the full, we will remember a thing that we have lost.
Row and row. Row and row. Don't look back. Row.