被爆者遺骨の第一発見者になった話
昭和50年ごろ長崎の浦上川下大橋の付近に原爆でなくなられた方々の遺骨が多量に放置されているのを発見してしまいました。その後遺骨は長崎市により収集されて供養されました。
終戦は昭和20年なので30年間そのままだったわけです。
当時私は小学生で授業で浦上川に黒曜石の破片があると習ったので、見に行ったのですが、1cmぐらいの破片しか見つからずにもっと大きいものはないかと探し回っていたところ遺骨を発見したわけです。
浦上川は今はコンクリートの護岸が出来ていますが当時は石積みの護岸で川底は自然のままで流れが緩く曲がったとことには幅10mぐらいの川砂の岸がありました。そのなかに黒曜石も遺骨も埋まっていました。埋まっていると言ってもごく浅いところでうすく砂をどかすとすぐに発見できる状態でした。
遺骨は背骨や頭蓋骨といった主要な部分は終戦当時に回収されていたらしく存在しませんでしたが、小さい部分はやむなく放置されたのだとおもいます。その中でもっとも大きいものは大人の腕のほねと子供のもものほねでした。その他には指や手のひらの骨がありました。
当時は牛や豚の骨の不法投棄があり海や川には骨が落ちていたのですが、見つけた人はそれだと思ってきにしなかったので30年間放置されていたのかもしれません。縦横の比率から私はなぜかすぐに人の骨であることが解りました。当時被爆者の遺骨だとは思わず紀元前の骨だと思ってしまいました。黒曜石と一緒にあったわけなので。
骨は多量にあったのですが記念に一番大きいものをもって帰ろうと探し大人の腕とおもわれる骨をもって帰りました。骨の中には端っこが不自然に割れているものが1/2ぐらい混じっていましたが、それが成長線というものであり14歳未満程度の子供のものであるこということは後になって知りました。
家の近所でいつも子供が集まって遊んでいる橋の上で見せびらかしていると、大学の医者を名乗る人が「犬がくわえとったんね」とか聞いてくるので見つけた場所を詳しく教えて、どうしても渡してくれというものなので渡して家に帰りました。
私が関わったのはここまでです。その後半年ぐらいして大がかりな捜索が行われてその場所の近くには祈念のプレートも掲げられました。その2年後ぐらいには長崎大水害がおき川砂の形は大きく変わってしまったので、もしかしたら収集する最後のチャンスだったのかもしれません。
さらに数年後には川は護岸工事が行われ川砂は長崎県内の各地の公園に運ばれたようです。
多くの人が知っているかもしれないことでもそれが何であるかに気づいた人が第一発見者になるのなら私も第一発見者なのではないかとおもって書きました。
2015-08-06追記
大学の医者を名乗る人は法医学者と言っていたような記憶があります。それを聞いた当時「方位学者?=風水占い師?」と思ったのを覚えています。いまに思えば犬がくわえていたのとか言っていたので殺人事件を疑ってきちんと捜索した結果、被爆者の遺骨であるという結論できちんと供養が出来たのではないかと思います。
川砂が公園に運ばれたって話は勘違いかもしれません。
2015-09-08追記
長崎大水害は昭和57年7月23日のことなので7年後のことでした。