太古の死生観
古事記や日本書紀に登場する人はたいへん長生きです。ためしに歴代天皇の年齢で検索してみると西暦399年崩御の仁徳天皇以前は100歳以上生きている方が多く、それ以降はごく普通の年齢でなくなっています。
一方、日本への仏教伝来は正式には西暦552年と言うことになっていますが、それはあくまで正式に教典が日本に贈られた年であって、仏教の教えは西暦400年頃から渡来人によって徐々に伝わり始めていたと言うことになっているようです。
寿命が普通に考えられる長さになった年と、実質的な仏教伝来の年が重なります。
私たちは当然のごとく死亡した日が寿命の終わりの日だと思っています。死んだ後は天国なり地獄なり現世とは異なるところへ行ってしばらくしたら生まれ変わってくるというのが仏教の教えであって、仏教を信じていても信じなくとも、あるいはキリスト教であっても死んだら現世から消えてなくなると言うことになっています。
しかし、これはどう考えるかの問題であって、死んだらすぐに生き写しのごとく別の肉体に入ってしまう乗り移り現象が時々あるという考え方が仮にあったらどういうことになるのでしょうか?人の死に目にはまれにしか遭遇しないので、その真相を調べることは難しくなります。政治的に重要な立場にある人がこれを利用すると嘘とは言えなくなってしまいます。
このような乗り移り現象が途絶えたときが寿命というとらえ方であれば長寿の説明が出来ます。そして仏教伝来とともに寿命のとらえ方が変わったのではないかとおもいます。人々が何気なく信じている死生観は文章化されずにその結果の寿命の数値のみ残っているのでおかしなことになってしまっているのかもしれません。
歴代天皇の寿命が普通の数値になるのは西暦405年の履中天皇からみたいですが、この西暦399年から405年の間に中枢に実質的に仏教が伝来したのかもしれません。
同じようなことがキリスト教にもあるようで旧約聖書では寿命が長いのに新約聖書では普通の寿命になっているという現象がるようです。これはエジプトの宗教の影響があったのではないかと思います。
チベットでは死ぬと現世とは異なるところへ行って、そののち生まれ変わるという立場をとっているけれども同一人物が統制するという立場でもあるのでダライラマとパンチェンラマが交互に生まれ変わって政治をしていることになっていますが、同一人物が政治を続けるという点で太古の考え方が少し残っているのかもしれません。