「泳ぎつかれた犬の話-2」
犬はぽっかりと海に浮かんでいた。
空にはまん丸のお月様がやっぱりぽっかり浮かんでいた。
仰向けになって浮かぶことを憶えてからというもの、
犬は夜になるとこうして浮かびながら一人すやすや眠るのだった。
昼間も泳ぐのに疲れると、水中ででんぐり返しをして
仰向けに浮かんで休息をとった。
浮かぶことを知らずにひたすらに泳いでいる時よりらくだった。
「ぼくはらくをすることを知ったよ。」
犬はお月様につぶやいた。
「このまま泳いだり浮かんだりしてればいいのさ。」
しかし、犬はまたしても死にそうだと思っていた。
依然として独りぼっちは変わらなかった。
今度は退屈で退屈で死にそうだと思った。
泳ぎつかれて溺れて死ぬのは想像に固くないが、
退屈で死ぬのは想像がつかなかった。
涙が海になるくらいたくさん泣いて、
その海で溺れるくらい泳いで、
泳ぎつかれて溺れそうになって、
息もできず苦しい思いをして、
もう死んじゃうかなって思った時に犬は偶然
自分が浮かぶことを知った。
泳がなくても、浮かんでいれば楽ちんなんだと知った。
何にもしなければぷかぷか浮かんでいられて、
どこかへ進みたいなら、泳げばいいと気がついた。
泳いだり浮いたりして一体なんになるんだろう。
誰かに会えるわけじゃなし、どこかに島影が見えるわけじゃなし、
このまま永遠に泳ぐか浮かぶかの繰り返しなのかな・・・
そう思うと犬は死にそうになりながら必死で泳いでいた頃が懐かしくさえ思えた。
「浮力があるから大丈夫だよ」
と、昔昔山羊は言った。
その時は浮力がなんだかわからなかった。
でも、こうしてぷかぷか浮いている自分にはきっと浮力があるんだろうと犬は思う。
「一生懸命泳いでばかりいるときはさ、そのことに気がつかなかったんだ。」
ある時、また山羊に話し掛けられた犬はそう言った。
「うん。」
山羊は言葉少なに答えた。
「山羊がせっかく教えてくれたのに、僕、無視しちゃってごめんよ。」
「うん。」
山羊はまたそんなふうに答えた。
「ねえ、どうしたの?なんかあったの?」
犬は不思議に思って聞いてみた。
「ううん。」
山羊はやっぱり言葉少なに言った。
どうしたんだろうな・・・。と犬は思ったけれど、山羊は時々こんな風にそっけないから、まあ、いいやと黙った。
「なんで山には浮力がないんだろう・・・・。」
山羊は小さな声でつぶやいた。そして黙ってしまった。
犬はお月様がゆらゆら揺れるのを眺めながらそのことを思い出していた。
お月様は浮かんでる。
「お月様にも浮力があるんですか?」
「お星様にも浮力があるんですか?」
一つの星が犬の涙みたいにつうと流れて消えた。
「流れ星には浮力はないんですか?」
流れてここに落っこちたら、流れ星は浮かぶのかなあ。
答えが聞こえないので犬は黙った。
知ってるよ。僕は。
お月様は宇宙空間にいるんだよ。
宇宙空間には空気がないんだ。
空気がないとさ、音は聞こえないのさ。
するとまた一つお星様が光った。
光ったお星様はつうと流れたように見えた。
犬に見つめられて星は少し光が強くなったみたいだった。
そして、また少し、今度は光が大きくなったみたいだった。
そして、またもう少し大きくなった。
そしてまた少し。
「!」
「?」
「!!!」
犬の目もどんどん大きくなった。
だってその星はどんどん大きくなって、光が強くなって、
もうお月様の半分くらいの大きさになったんだから。
聞いたこともない威力のある音が空全体から降って来るかのように辺一帯を取り巻いた。
水面はいつもとは違う様子で小さくさざめいている。
音はどんどん大きくなって世界はその音だけになった。
犬は仰向けのままあんぐり口を開け、
目はこれ以上丸くなれないくらいに丸く見開いたまま、
耳は聞えているのか聞えていないのか確かでないまま、
事の成り行きを見守っていた。
流れ星は流れて落ちるところだった。
途中で消えなかったのは、
ずんずん大きくなってきたのは、
この海に向かって落ちてくるからだった。
海の上は轟音で氷ついたようだった。
その氷を同じ轟きが細かく震わせていた。
ひゅーぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ
燃える毬形の火の玉は長い尾を引いて向かってくると、
爆発音と共に犬のよっぽど向こうの左のほうの海面に墜落した。
ぼおぉぉん
火の玉をくわえ込んだ海面は大きくへこんだ。
その付近一体が、一瞬、巨大なお盆の形になった。
そして、持ちあがったお盆のふちは、一呼吸置いて揺ったりと中心のへこみに向かって波頭を崩した。波頭は中心で合わさると更に巨大な頂となって海の上に聳え立った。魔法が解けたように、その聳える尖がりは水面めがけて崩れ去った。
そしてまた巨大なお盆の形に海はへこんだ。
何度かそのように大きな揺り返しの末、お盆は次第に小さくなり、
どれくらいかのちに、海面はもとの静けさを取り戻した。
犬は・・・、
犬はその一大スペクタクルの唯一の目撃者であった。
彼は波に揉まれながらも、なんとか海面に浮かび上がり、
遠くで海が尖がった山のように盛り上がったかとおもうと、
次には崩れ去る様子を
こちらへ押し寄せてくる荒ぶる余波の中で、
目を開いてみていた。
犬の頭にあることは一つだった。
「お星様には浮力はあるんだろうか?」
あるなら、きっとあのお星様は最後に浮かんでくるよな。
犬はよっぽど死にそうな危機に面していたのに、
そのことしか考えていなかった。
そして、すべての劇が終わった時、
海が星を飲み込んで、
腹いっぱいになって眠りにつこうとしている時、
「星に浮力はないんだ」という彼なりの結論に達した。
「宇宙空間では浮いてるのに、なんで海では沈んじゃうんだよ。」
「つまんない・・・。」
犬は悲しくなってまた少し泣いた。
お月様は何もしらないふりをして少し傾いて浮かんでいた。
次の朝が来た。
犬は相変わらず浮かんでいた。
浮かびながら、今は死にそうじゃなかった。
犬は考えていた。
「浮力ってなんなのかな。」
犬は考え込んでいた。
昔昔、そのまた昔、犬がまだ地上にいた頃、
彼は走るのが好きだった。
大地を蹴って、はずんで走るのが好きだった。
蹴った大地が自分をほおり投げるのが好きだった。
どんなに力強く蹴っても、
どんなに高く飛びあがっても、
犬は大地に降りてきたのだった。
そしてまた蹴る。
そしてまた蹴る。
あの感触を思い出していた。
それは、犬が時々思い出す懐かしい感触だった。
「水のなかはふにゃふにゃなんだよ。」
犬は大地が懐かしかった。
自分を弾ませてくれる力強い大地。
犬と大地の戯れは、小さな犬の頭のなかの甘美なイメージとなって刻印されていた。
ぼくがはずんだのは浮力のせいじゃない。
地面がなくなって、水のなかにいるからさ、
こんな風に浮かんでるんだ。
きっとさ、浮力は水のなかにあるんだよ。
山羊のいる山のなかにはないんだよ。
きっとさ、山羊が山を蹴ったらさ、
山羊もぼくみたいに弾むんだろうな。
お月様はもういなかった。
一面水色のそらには、雲一つなかった。
見えないけれど、風だけが犬の側をいくたびか通り過ぎて行った。
泳ぐのはさ、走るのに似てるよね。
だって僕の足は水を蹴るんだもの。
でも海は僕を弾ませてくれない。
地面みたいに僕に答えてくれない。
地面の声は聞こえなかったよ。
だけど、僕は地面とお話したんだ。
僕が「えいっ」って言うと、地面は「やあっ」って答えたんだ。
僕が「えいっ」って言うと、水はね、答えてくれないよ。
犬が初めに泣き出した時、地面はなんて答えたのだろう。
犬の涙が海に変わるまで、地面はなにも答えなかったんじゃないだろうか。
犬は答えるものがないままに泣きつづけた。
そして地面は涙をたくさん染みこんで、こらえきれずに海になった。
犬は泣かないで走っていればよかったのだろうか。
泣かないで「えいっ」って地面を蹴ってればよかったんだろうか。
そうしたら、地面は悲しい犬と話しつづけてくれたんだろうか。
塩辛い水は犬を浮かばせながら、何も言わなかった。
海に浮かぶ犬は、沈んでしまった星の行方を考えた。
星は沈んでどこにいっちゃったのかな。
星は僕が海に浮かんでいるように、
お空に浮かんでいたのにな。
1999/03/09
山下月子