「明日が来るのが怖い」
と、早く眠りたいあなたのとなりでついつい本音を吐いてしまったが、しかたないよ時間は止められないんだからとありきたりなことを言ってあなたは眠りの国へ消えてしまった。
眠りの国へ入ると私たちの実体(というのが何を差すかには昨今議論の余地がある)は融合してしまうので、文字どおり消えたなと思った。
わたくしは完全なる闇とはどれくらい官能的であるか、或いはなぜそれが本能的恐怖と関連するかしないかを考えながら、完全なる闇を得ることのない、都会の小さなアパートで、天井を見つめる。
子供の頃はこの中途半端な闇の中に、様々な物語や花畑や巨大な海亀や、洞穴やそんなものを描いては眠れぬ夜を過ごした。
眠りばなのひと時に関して言えば、今は一分一秒でも早く床について眠りの国へ旅立つのが楽しみである。引きずり込まれるように眠りに落ちる。
今だってそうだ。もう体や意識の半分ずつは、眠りの国へ行きそうだ。しかし、わたくしは猛然とそれに抵抗し、眠りの快楽へ続く大きな穴の手前で踏ん張っている。
眠ったら明日が来てしまう!
眠らなくても明日は来るのだから、意味をなさない抵抗である。
しかし眠ったら確実に次の瞬間には明日の朝だ。
もちろん、これは二度と目覚めない可能性を全く無視したいささか楽観的かつ根拠のない「確実」ではあるが、
「次の瞬間、朝になる」わたくしはそれがとてもこわい。
まだ、今日の仕事がすべて終わっていないのに・・・。
己ののろまさや愚鈍を罵ることをやめる決心は、おいしいけれど身体に良くない食べ物をあきらめるのと同じくらいの勇気がいる。
そして、今日できたことをひとつひとつ思い出して納得しようとする。
今日に悔いなしと思い「たい」。そうすれば時間がたつのも怖くない「だろう」。
ところが、なにをしてみても時間が過ぎていくことを感じると、恐ろしい。
先ほど口に出して言ってみて、改めてその言葉に驚愕した。
時の流れをこれほどまでに恐怖していた事が我ながら意外だと恐怖の片隅で思う。
恐ろしくなって思考が止まってしまっても、時の方は止まってはくれない。
しっかりしなくちゃと思うとさらに怖くなる。しっかりできなかった時は?
という可能性に気づいてさらに怯える。
そして、しかし、眠気とはどんな隙間からも入り込む魔法の煙。わたくしは電灯を消すようにふと眠りに落ちた。
もちろん、次の瞬間には朝だった。
あなたはたいていわたくしより先に目覚めて本などを読んでいる。
わたくしは寝床の中で目をぱちぱちと瞬き、ふたたび悟る。
恐れていた明日はまた明日に繰り越される。
今日を始めるとき、わたくしはいつも迂闊なのだ。今日だって時間は止まってはくれないのに、それを忘れている。そのくせ時間がないとか、忙しいとかいって、ほんとうに大事なことを丁寧しないでいる。それでゴメンゴメンと謝ったり、仕方ないじゃないかと怒ってみたりする。それで明日が怖くなるんじゃないのか。
と、そんなことを自問自答しながら仕事に出かけたら、近所の柿の木に小さな実がついていた。
確かにその柿は春に薄い黄色の蝋のような四角の花をつけていた。
それがいまやおもちゃみたいな小さな柿の実に変わっていた。
冬には丸坊主だった木には濃い緑の大きな葉が茂り、小さな柿の実をいくつもかくしている。
彼らは毎日毎日、時間に身を委ねて花の後の豆粒みたいなものを大きくしていったのだな。と感心する。
小さいけれど美しい柿の形をしている。ため息がでるくらいよくできた赤ん坊の小さな手みたいに。
柿の木は夜眠るのだろうか。
それとも眠っていないときがはたしてあるのだろうか。
時の流れは何事かを変化させてゆく。
生死の境なく、わたくしたちは時の流れの中に浮かび逃れられない変化を続ける。
心の中に残る後悔や、やり残した仕事は変化し続けるわたくしを構成するプロセスのかけらであり、
いわばそれは枯れ落ちた花弁に過ぎないとしたらどうだろう。
眠っている間の何もないような時間に、その落ちた花の後何かが実を結び膨らんでいると考えることはできるだろうか。
道端の柿の木からそんなことを教わったその日は、もう数カ月も昔のこと。
青い柿の実は順当に大きく育っている。
今日、どうしてもこのことを書きたくなってわたくしは夜中に書き始めた。
明日が来ることをそれほど恐れなくなっている。
わたくしの中の何かが変化したから?
こんな風に、すぐに訳をしりたくなるのは悪い癖だ。
それよりも原則としてわたくしは毎朝生まれ変わることにしよう。
そして、時の実が完熟するのを気長に待つといのはどうだろう。
(おわり)
(C)Yamashita Tsukiko