「泳ぎつかれた犬の話-4」
今日の赤いお星様は右手の海の下に消えてしまった。
傾いたお月様とたくさんの星たちが、天のドウムに貼りついて
どこまでも広がる海(のようなもの)の上、
チビの犬を一匹、甲羅に乗せた老亀を見下ろして静かに光を放っていた。
左手の海の彼方もまだ厚い夜の帳に包まれたままだった。
自らのひと吠えで、フイゴで吹かれた炎のように蘇った犬は、
誰に知らせるでもない警戒の鳴き声を立てながら、そこら中を毬のように走り回っていたが、しばらくすると、得も言われぬ倦怠感に襲われその場に立ち止まった。
亀の翁は相変わらずおもしろそうに犬を見つめている。
その瞳は不思議な光を放つ深緑の石のようだった。
大きな顔は、くしゃくしゃで恐ろしかったけれど、
その甲羅の上はあれほど夢見た懐かしい大地に似ていて、
踏みしめた四つ足の感触が安らぎをもたらした。
もう危険を感じていなかった。
しかし、この身体の重さはなんだろう?
犬は二倍にも三倍にも感じられる自分の重さに戸惑った。
突然泳ぐことから開放されたことよりも、
突然他の生き物に出会ったことよりも。
「あの、たすけてくれて、ありがとう」
ようやく犬は言った。
そして嬉しくてか哀しくてか、また泣いた。
「おや? 泣いているぞ。そうかこれが「海のわけ」か。
それにしても、ずいぶんたくさん泣いたな。あとどれくらい泣くんだろう?
ふぁっふぁっふぁ。」
ぷしゅ~っと鼻息を一吹きすると、老亀は長い首をぐるぐるまわした。
しばらくして泣き止んだ犬は情けない顔で話した。
「おじさんは、誰ですか?僕はずっとずっと独りぼっちでさみしかったんです。」
「はてな?わしはだれじゃろう?わしを知るものがいるだろうか?
しかし、便宜上わしはご覧の通りの老いた亀じゃ。」
「僕、お星様が浮かんできたのかと思いました。そういう夢を見ていたんです。
おじさんはお星様ではありませんか。」
「星とな? 海に落ちたあの流れ星か。
あの星を落としたのがおまえさんだったとは、関係性の力学とは不思議なものだな。」
「僕が落としたんじゃないですよ。お星様は空から自然に落ちてきたんです。」
「僕はお星様にも浮力があるんじゃないかなって思って見てたのに、
もう浮かんでこなかった。
「とっても悲しかったんです。僕は浮かんでいるのにどうしてお星様は浮かんでこなかったんだろう。」
「星は涙より重かったのだな。」
「僕は僕の涙より軽いの?」
「さあね、浮いているなら軽いのだろう。
さっきは沈んだのだから重いのだろう。」
「亀さんも僕の涙より軽いの?」
「さあ、わしは浮くことも沈むこともできるのだ。」
犬は黒い目をシバシバと瞬いた。
「ぼくさ、なんだかとっても身体が重いんだ・・・。」
そう言いながら、抗えない疲れによって犬は甲羅の上に四つ足を投げ出して腹這いになると、身体の重さと共にぐっすり眠り込んでしまった。
ふと目を覚ますと、どこからか生暖かい風が吹いてきた。
老亀は何も答えずに眼を瞑り、あの不思議な響きのする歌を歌っていたが、
その音は天のドウムに満ちていく小さな泡の粒のようだった。
犬は毛に触れては弾ける心地よい音に耳を澄ました。
誰にもわからない一曲を歌い終えた亀の翁が言った。
「そのように見えることがほんとうなのかどうなのか。」
「僕はほんとうにいつだって浮いてるよ。亀さんだってほんとうに浮いている。でも星は沈んだままだった。ほんとうだよ。」
亀は聞いているのか聞いていないのか、そっぽを向いて何も答えない。
犬は少しの間考え込んでいたが、もじもじと口を開いた。
「亀さん、あのね、お願いがあるんだけど。
・・・僕、ちょっとでいいから亀さんの背中でジャンプしていいかしら?」
亀は犬の方に向き直り、楽しそうな緑の目玉をキラキラさせながら笑った。
「ふぁっふぁっふぁっふぁ。よかろう。おまえさんが背中で跳ねようが寝そべろうがわしにはたいした違いはない。」
亀の笑い声に吹き飛ばされそうになった犬は、
ハアハアと舌を出すと耳と尻尾ををピンと立てて一声嬉しそうに吠えた。
そして亀の甲羅を力強く蹴って飛び跳ねた。
亀はゆったりと水面を上下しながら、トランポリンのように犬を放り投げてやった。
それは大地とは違っていた。しかし水とも違っていた。
「亀さんは、地面と、違うん、だね。」
「わしは、亀だから、のう。」
毬になって弾む犬は夢中になって、そのうち頭のなかが空っぽになった。
足が亀の甲羅を蹴る感触に感覚は奪われていった。
「わしも、同じなのだ。」
「?」
「おまえさん、が、わしの背で、上に、飛び跳ねる、ように、
わしも、おまえさんの、足下で、下に、飛び跳ね、て、いる、の、だ。」
「そうか!だから地面と違うんだね。」
とうとう犬は飛ぶのをやめて、息を切らしてゴロンと横になった。
そして疲れ果ててもやもやの頭でやっとこさ言った。
「亀さん、ありがとう・・・。」
くう、くう、くう
犬の寝息が明け方間近の夜空にそっと広がった。
荒くなった息を整えていた亀の翁は、そのまま眼を瞑り、
そのうちあの低い不思議な響きのする声でハミングを始めた。
星星が今夜の最後のきらめきを放つ頃
犬の寝息と亀のハミングだけが波と空の間に残った。
1999/04/20
山下月子