「泳ぎつかれた犬の話-3」
海に星が一つ落ちた後も、空には無数の星が点々と光っていた。
その一つ一つを眺めながら、かつて陸の生き物であった犬は暫し時を忘れた。
考えることは山ほどあった。
けれど、時々こうして頭の中を空っぽにして、特別に一つだけ選んだ星を、
見失わないようにいつまでも見ている。
そんな時、もくもく際限なく湧き上がる入道雲みたいな考え事も、
つらつらと右へ左へ、繋ぎ目から繋ぎ目へと伝ってはまた消えていく思い出も、
折りたたまれて、どこか暗いところにきちんとしまわれているようだった。
天球の右っ端の少しだけ上にかかっている、赤っぽい中くらいの星を
犬は今日のお星様と決めた。
「いつかここに落ちたお星様は、海の底でどっしりしてるのかな。」
星を見つめながら、いつのまにか考え事が頭の中に浮かんでくると、
赤いお星様はたくさんの似たような光を放つ仲間たちの中に隠れてしまった。
「あ、隠れちゃったな。」
そして犬は、また今日のお星様を探すのだ。
今日のお星様はあんまり長く空にいないだろうな。
もう少ししたら、水平線の向こうに沈んでしまうだろうな。
星たちや、お日様や、お月様はぐるぐる海の上を回っているんだから。
今度は眠くなって瞼が自然に落ちてきて、
ふと気付くと、今日の赤いお星様はまた無数の星星のなかに隠れてしまった。
そんな遊びをしながら、犬は波に揺られて眠りについた。
深い眠りが長く続くと、体勢を崩して沈みそうになることがあった。
でも、もはや眠ったまま寝返りを打つかのように、
自然に体勢を整えることができるようになっていた。
泣き虫の犬は、泣きながらもなんとか海の上で生きようとしていたので、
身体は次第に水中で必要なことを習得していったのだろう。
さて、今夜の犬は昨日より疲れていた。
一日に何度も雨が降ったのだ。
ばしゃばしゃと強い雨が降ると、水が冷たくなって、目に雨が入ったりして、
泳ぐのも浮いているのも一苦労だった。
この海は、犬の涙でできた海みたいなものだったはずなのに、
このごろはちぎれた海草とか、浮遊する大きな昆布などが流れてくることがあった。
だから、それを捕まえて、頭の上に傘のように乗せたりした。
いずれにしても、雨の中で水面に浮かび続けるのは大変だった。
それで、今夜の眠りはいつもより深かった。
犬は目を瞑ったままじっと動かなくなった。
ふにゃっと折れ曲がって水面に出ていた四本足は、
力が抜けたまま縮こまっていた。頭だけが波間で船をこいでいた。
ぐうぐうぐう
小さな寝息が大きくなって、こぐ船のリズムも大きくなってきた。
よっぽど疲れていたのだろう。
それに、夜の海は、昼の冷たい雨とは裏腹に、なんだかとても暖かかった。
ぐう、ぐう、ぐう・・・
犬の頭はさらに大きく前後に揺れた。
そして、徐々にあお向けになってきた。
いつもなら、そこらへんで得意の水中寝返りを打って、
また安全な体勢ですやすや眠るのところだが、
どうしたことか、犬は寝返りを打つのも忘れて船をこぎつづけた。
ぐう、ぐう、・・ぐう
最後のひとこぎで頭はバランスの臨界点を越えた。
つまり、犬の頭は後ろから水の中に沈んだのだった。
頭がおもりになって、犬の身体は逆さまに水の中に沈んでしまったのだった。
かつて、「自分はこのままおぼれて死ぬんだ」と観念したときでも、
不意に水中に沈むと、本能の力でがむしゃらに水をかいて水中へ頭を出したのに。
それなのに、犬は水中に沈んでも眠り込んだまま目を覚まさない。
水平線のすぐ近くで、今日の赤いお星様がキラと光ったようだった。
犬は何も感じなかった。
「しかたないかなあ・・・」
水の中から聞えたせいか、うすくぐもった低い声だった。
何重にも重なって、すべての波長に共鳴するような深みのあるその声は、
そこらへんの水中にくまなく響いたようだった。
(それとも、ほんとうは響いていなかったのか。)
あたりは依然として静けさに包まれていた。
そして、次の瞬間、犬が沈んで目標物一つなく平らになった海面に、
すうっと音もなく、眠った犬の身体が浮かびあがった。
その下に丸い山の形のシルエットがゆっくりと浮かび、
半円になるより前でつと止った。
その山の直径は犬の身体の五倍くらいの大きさだった。
山の頂でまだ眠っている犬と水面の間は、
犬の体長の二倍くらいの高さがあった。
頂から流れ落ちた最後の水が四方の山すそで海面に出会い、
静かにしぶきを上げた。
犬はその音を合図にやっと目を覚ました。
犬はのそのそと目をこすって寝ぼけてあたりを見回したが、
身体が重くて起きることができなかった。
重くて重くてまるで自分は石にでもなってしまったのかと疑った。
首も手足も胴体もしっぽも、ぐにゃぐにゃの重い石のようだった。
しばらく身動きないまま、山の上であお向けになって星を見詰めていた。
なんか変だよな。なんかとっても変だよな。
すると、下から声がした。
「犬っていうのは順応性の高い動物なのだな。
それとも、それが個体に宿る生命力というものだろうか。」
声は海面をさざめかせたが、
やはりほんとうに聞えているのかいないのかわからないような
不思議な響きだった。
犬の全身の毛は逆立った。
「だ、だ、誰なの?」
震える犬は重い身体をやっとの思いで持ち上げて、
四つん這いになって吠えた。
ワン!
吠えるなんて、
吠えるなんて、
一体何十年、いや、何百年ぶりだろう。
犬は、何か押さえ切れない力強い勢いが体中に満ち満ちて行くのを感じた。
しっぽはピンと空を指していた。
濡れた身体を脱水機のごとく震わせて、
犬は水滴を四方八方にはじいた。
「なるほど、海に順応しても、やはりまだ犬らしい・・・。」
その時初めて、犬は自分が水中にいないことに気付いた。
自分は今、四つんばいになって、立っている!
立ってるよ!
ワン!ワン!ワン!ワオーン!!!
大きな水音がして、
犬の立っている山の向こう側から、
大きなつるつるの頭がにょきっと顔を出した。
犬はまた恐怖に脅え、牙をむいた。
そうしながら、はるかかなたの昔に忘れ去った記憶が、
これほど生き生きと身体の中によみがえったことに驚いていた。
山の向こうから伸びた首長の頭は、くるりと犬の方へ顔を向けると言った。
「ふぁっふぁっふぁっふぁっふぁ」
「おまえさんの乗ってる山は、わしの甲羅じゃ」
震える犬は、事態を把握するまでにしばらくかかった。
言葉を失って、唖然となっている犬が次に口を開くまで、
その巨大な老亀は、いつまでもじっと待っていた。
皺くちゃだらけの顔の中、
半分瞑ったような、しかしさも楽し気な二つの目を瞬いて。
1999/03/11
山下月子