「泳ぎつかれた犬の話」
犬は泳ぎつかれていた。
からだが冷たくなって骨がぎしぎししていた。
鼻は塩水でひりひりして、
こんな海のまんなかじゃ、鼻を効かせる甲斐もないんだけど、
とにかく具合が悪かった。
沈んじゃおうかな・・・もう、泳げないもん
犬は泣いて泣いて、犬のくせにもう何年も泣いていた。
気がついたら涙は海になっていた。
いくらなんでも・・・
こんなにたくさん泣けるわけないよな
自分だけの涙じゃないよな
数年前に犬はそう考えた
でも、見渡す限り、嗅ぎ渡す限り、他に何にもいなかった
涙を流すようなものは他に何にもなかった
もしかしたら、「渡す限り」のそのまた向こうに同じように泣いてる犬が
いるのかもしれない
そういう犬が無数にいて、みんな泣いてるのかもしれない
隣り合ってる宇宙は光の速度だって何十光年も離れてるんだもの
個体の生命は一つの宇宙ですってどこかで聞いたことがあるもの
自分が一つの宇宙だったら、隣の犬は相当遠くにいるはずだもの
でも、犬の涙が海になる話はきいたことがない
天と地を分かつた時、神は雨を降らし海は創造されたのだ
クラゲナスタダヨヘル頃、オノコロジマの誕生で海と陸ができたのだ
いや、地球が火の玉だった頃、噴煙が大気を形成し、
太陽熱で温まった水の分子が結合して地表に雨となって降りそそぎ、
降りそそいだ雨は低きを求め海に至った・・・。
涙の塩分は海にはちょっと少なすぎだ
こういうのは海っていわないかもな
「海みたいなもの」なのかもな
魚だって泳いじゃいないし・・・
その瞬間、犬は足に触れるものを感じて背筋がひやっとした。
波の間の平らなところから、犬は水中をうかがった。
魚がいた。底知れぬ深さのずっと上の方で
銀のスプーンみたいに光る魚がたくさん群れをなしていた。
ふうん。
犬は今まで気付かなかった光景に我をわすれて水中を覗きこんだ。
はっきりは見えないけれど、魚の向こうに海の深さが感じられた。
水が暗くなるのを見ていたら、
じっと見つめていないとそれが動いていることに気がつかないくらい大きな
黒い影がゆったりと滑るように通り過ぎていった。
ぞくっとしたけれど、どうでもいいやと思った。
海(みたいなもの)の中で、犬は疲れていた。
疲れると気を紛らわすために思い出に浸った。
ある日、夕日の落ちる少し前、
犬は線路を走っていた。
夕日はくねくね曲がる線路の先の山の向こうに落ちるところだった
走って走って走って、線路というものを味わった
それは眼を細めてしまうくらいに美しくカーブしていた
それはそのまま地球の形をなぞっていた
汽車は来ない
地表に這う線路は犬だけのものだった。
あの思いきり地を蹴って走る感覚。
犬は全身の力を足の裏に集めて、地球を蹴る。
その重さに地球は答えて、犬を空中へほおり投げる。
次の足も次の足も次の足も、順番に地球を蹴る。
もっと早く、もっと高く。カーブを走るんだ。
弾んで走る犬はちっさなゴム毬のようだった。
ゴム毬を弾ませるのは大きな地球だった。
ミクロとマクロの二つの毬は無心に戯れているようだった。
ああ、あの地面もどこかで海につづいていたのかなあ・・。
「どうしたの?」
突然話しかけられて、
うっとりと思い出に浸っていた犬は慌てて塩水を飲んでしまった
高い岩山に生息する山羊はもう一度言った
「ねえ、どうしたのさ」
ゴボゴボ体勢をたてなおして犬は言った
「どうしたって、泣いてたんだよ」
「なんで泣いてんの?なにかあったの?」
「なんにもないから泣いてるんだよ。ずっと前から同じだよ」
「なあんだ。そうかあ。」
「そうかあ、じゃないよ。沈みそうなんだ。もう泳ぐのやめようか
ってくらい・・・」
犬は涙に喉を詰まらせた。今になって泳ぐのがこんなに苦しい
なんて信じられなかった。
「泳ぐから疲れるんだよ。泳ぐの止めてさあ、浮力を使って浮いてみなよ」
山羊は岩山にぽつんと暮らしている割に浮力なんてことを言う。
「泳ぐの止めたら沈んじゃうよ。山羊ともバイバイだよ。」
「大丈夫だよ。浮力があるから。」
「・・・ねえ、なんで泣いてるの?」
「独りぼっちだからさみしいんだよ」
「ふうん。山羊も独りぼっちだよ。山羊は羊みたいに群れを形成しないからね」
「そう・・・。でもこんな広いところで独りぼっちで浮いてるのはさみしいもん
だよ」
「山羊もそうだよ。山腹に独りぼっちで生きてるよ」
「それはそうだけど・・・。」
山羊はその岩だらけの山腹で犬を考えた。
犬はなんで海なんかにいるのかな・・・。
犬って家畜のはずだけどな・・・。
「浮力があるから大丈夫だよ。泳がないで浮かんでいなよ。
そのうち木切れとか、船とかくるからさ。」
「そうだけど・・・」
何かが流れてくることは今までにもあった。
そのたびに犬は救い上げられたり、つかまったりして九死に一生を
得たのだった。
しかし結局のところ犬は今、こうして独りぼっちで泳いでいる。
「独りぼっちでも仕方ないけど、一度拾ったら捨てないで欲しいよな」
犬はつぶやいた。捨て犬になったときのことを思い出したのだ。
拾ってくれた人はたくさんいたが、犬を置き去りにした人もたくさんいた。
独りぼっちになって泣いているうちに、いつしかこんな風に泳いでいる自分を
発見したのだった。
「そういえばさ・・・」と犬は言った。
タイタニックっていう無沈客船があったんだ。
犬だけど、幸運にも豪華客船に乗ることを許されたんだ。
無沈なんだ!
もう泳がなくていいんだ!
そのときのアンビリーバブルな幸福感は今でも覚えてる。
「でも、沈んだものな・・・。大船に乗って沈没するのと、
小船で波間にただようのとどっちがいいのかなあ」
山羊はしばし考えた
「大船も沈むときがあるし、小船でもどこまでもただよっていられることも
あるんだね。」
小船でただよう心細さを犬は思い出していた。
記憶を追っていると足の動きは緩慢になった。
「ああ、沈みそう。もう泳げないもん。沈んじゃおうかな」
「浮力をつかいなよ。ただ浮かんでればいいんだよ。」
山羊はどうして犬がそうしないのか理解できなかった。
「山羊も危険なところにいるんだよ。絶壁だもん。崖っぷちだもん。」
「あ、そういえば山羊は高所恐怖症だったね。
それなのに、そんな高いところに生息するなんて、神のミワザは不思議だね。」
「うん。だから余計なとこ見ないんだ。いつも足元だけをしっかり見てるん
だ。」
そうかあ、と犬は思った。山羊が慎重な性格だっていうのも、
神のミワザなのかなと思った。それなら犬はどうなんだろう?
「こっちは海ン中だからさ、足元を考えると怖いよ。
泣くたびに足元が深くなっていくんだ。それで怖くてまた泣いちゃうんだよ。」
「わあ、それは怖いね。ホントに怖いね。」
山羊は犬の足の下の途方もない深さを高さにおきかえてみて身震いした。
そして、
「じゃあね。」
と言って黙ってしまった。
「じゃあね。」犬は言った。山羊はいつもこんな風だなと思った。
さらにからだは冷たくなり、前足後足の感覚がなくなっていた。
もう泳いでいるのか漂っているのかわからない。
朦朧とする意識のなかで、犬はなんとか思い出に浸ろうと考えた。
どうせ浸るなら思い出の方がいいだろう。
思い出に浸りながら、塩水に浸って、知らないうちに沈んでしまうかもしれな
い。
それもいいかもしれない。
だってどんなに泳いでもどこへも行くところがないんだもの。
すると、ふいに、今度は誰かが後ろから犬の頭をぐいと水面に押し付けた。
ごぼごぼごぼ
犬はまた慌てて手足をかいて四苦八苦した。
本能の赴くままに体勢を整えると頭が重くていたかった。
頭に何か突き刺さっているみたいだった。
「くう」
鳴いたのはさすらいの渡り鳥だった。
「くう」
渡り鳥は犬の頭をこれ幸いと体のいい止まり木にして
きょろきょろあたりを見渡した。
「くう、くう、くう」
あろうことか犬の頭の上で羽づくろいをはじめた渡り鳥。
さして重くはなかったが、犬は瀕死を忘れて腹を立てた。
渡り鳥の言葉をマスターしなかったことが悔やまれた。
犬人生最後の後悔かもしれなかった。
「御犬様の頭上で羽づくろいとは失敬な!その足をどけたまえ!」
と叱ってやりたかったのに。
こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際なんだぞ。沈んだらどうするんだ!
瀕死の犬はヤケクソになっていた。
いっそのこと渡り鳥をくわえて道づれに沈んでやろうかと思った。
世渡りに長けた渡り鳥はしかし
犬がそう思った瞬間にはもう、思いきり止まり木を蹴って飛び立ってしまった。
思いきり蹴られた犬の頭は勢いよく弧を描いて水中に沈んだ。
頭と入れ違いにしっぽはしぶきを上げて跳ね上がり、
空中を切ると鞭のごとく水面を叩き、チャプンと音をたてて沈んだ。
ごぼごぼごぼごぼごぼごぼ
目の前が空気の泡でいっぱいになった。
耳のなかは泡立て器でかきまわされたみたいにうるさかった。
犬人生の一場面一場面が頭の中でくるくると回った・・・。
その頭を囲むように身体はくるんと丸まった。
丸まって毬になった犬は勢いを減じながらゆっくりと水中で回転した。
そして、半回転した犬の頭は、
ぷかっと水面に浮上したのだった。
空気が口から鼻から勢いよく流れ込む。そして、
「!!!」犬は気づいた。
全身の力が抜けていた。
「浮力・・・」
びしょぬれの犬は、あお向けになってぷかぷか浮かびながら、
深く深く、涙の海よりも深く思った。
その頭上、遥か彼方の天空で
渡り鳥が小さな黒い沁みとなって消えた。
山下月子1999/2/4