Tsukiko Yamashita 物に寄せて-1
君の家はモノが多すぎるというので、そんなことわかっているけれども、なかなか捨てられないのよと言いながら、けれども壊れてしまったから捨てる以外にない電話機を持って佇んでいると、その人は私の気持を知ってか知らずか、捨てる前に思い出を形にして残せばいいよと囁いてわたくしを抱いたのである。
勿論、わたくしはその後まもなくその人に捨てられてしまったらしく、傷が少しと酔いの感覚を残してその人は去った。「傷」と「感覚」が「形」とは思えないけれども、わたくしのおなかの中に生命の脈動はなく、もし脈動があったとしてそれが「形」であるかといえば語弊があるわけで、いずれにしろわたくしはやはりありていに捨てられてしまったのだと古めかしい言い方で、ほんとうはそれを待っていた自分のちゃらんぽらんな気持を誤魔化すのである。
さて、わたくしは日課のように電話機を眺める。(それはそのまま何日も台所のゴミ箱の近くに放置されていたのであるが)次のゴミの日にはさようならであるその電話機の、古くなったプラスチックの受話器や埃のたまった番号ボタンなどをしみじみ眺めていると、やはり捨てるのに忍びないと感じる。
だから、誰かが言ったように思い出を形に残すことにして、あなたに向けて書くわと一人ぼっちでつぶやいて、わたくしはこうしてペンをとったのである。
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あなた(電話機)は、わたくしが大好きだったお隣のお姉さんからの頂き物でした。
お姉さんは一人暮らしを始めるわたくしのために、お姉さんのところでしばらく働いていたあなたを下さったのです。
わたくしがポンと突然家を出ることになったので、多分両親はとまどったことでしょう。けれども、その頃のわたくしはどうしてもひとりになりたくて、ちょうどお部屋も見つかって、意気揚々と家をでました。
それで、いざお家に暮すともなれば、電気だ、ガスだ、電話だっていろんなものが必要になることを一つ一つ学びながら、わたくしのはじめのお城を作っていったのでした。電話回線というのがそのときに必要で、それを父が一本くれました。父の名義の電話回線だったから、その後どこへ引っ越す時にも父の名前を電話局に伝えなければならなかったのですが、だからあなたは父とわたくしを繋ぐものでもあったのだと今思います。
あなたが去った後、新しい電話機が設置され、その電話機も父の名義の回線に繋がっています。そして、あなたがわたくしと父やその他の誰かを繋ぐお役目を終えることを、なぜかとても切なく感じています。なぜならあなたは、わたくしが初めてつくった自分の小さなお城から、いろいろな人に向かって線を繋いで、もうかれこれ何十年もわたくしの話を聞いてきてくれたからです。
あなたはかつての恋人とわたくしの会話を繋いでくれました。彼の耳よりも先にあなたに、わたくしの言葉は届いていました。
大家さんとの事務的な話や、嫉妬に狂った女性からの長い長い罵詈雑言や、家族との短い会話。
わたくしが親密に話したことは全て、あなたを通じて世界の誰かの耳に届いたわけです。
あなたのすばらしいところは、どれほど人を傷つける棘のある言葉であろうとも、どれほど人をとろかす甘い囁きであろうとも、ただそのままに通り過ぎさせるという神様のような態度です。何も偽らず捻じ曲げず。唯一つ、電話の音声として、声にフィルターをかけるだけで。
あなたを耳に押し当てて、長いこと黙ったり、涙でほほをぬらしたりしながら、あなたが伝えてくれる声がわたくしの心を切り裂いた夜を思い出します。あなたはわたくしの体温を受け取って、同じくらい暖かくぬくもっていました。あなたがうんともすんとも言わずただ黒く黙っているのを飽きもせず眺めていた日日、あなたは冷たくて、よそよそしいプラスチックの塊のように見えました。暗い気持で夜遅く帰宅して、電気をつける前の真っ暗な部屋に、あなたの留守番メッセージのランプがチカチカしていたその輝きったらありませんでした。思い出すと、その時の心のときめきまでが蘇るようです。
あなたと共に暮らした日日は間違いなく、必死に幸せを求めては傷つき、誰かと仲睦まじくしては、仲たがいし、仕事に夢中になっては、疲れて帰宅し、そして一人ぼっちの時間をこころから楽しみ、悲しみや寂しさや、窓から入る陽の光までも味わった、わたくしの若いひと時なのです。過ぎていった季節なのです。さよならを言う前に、あなたとの思い出をもう一度振り返ろうとして、きらきらしたあの日日を懐かしく思い出すことが出来ました。去ってゆくあなたのお陰です。
あなたに触れるたびに、こんな風にあなたに感謝できたらよかったのに。投げつけたり、乱暴に扱ったりしないで、もっと大事にしていたらよかったのに。そう思うと少し残念です。あなたに魂があるとしたら、どうぞ新しい電話に来てください。そしてまたわたくしの言葉を聞いてほしい。そう言って、わたくしはあなたを捨ててしまう切なさと罪悪感をまた誤魔化そうとしていることに気づきました。キューティーハニーが持っていた空中元素固定装置があればいいのに。そうしたら、あなたを壊れていない新しい何かに変身させられるのにと、ぼやいてみてもしかたがありません。
このお話を読むたびに、あなたのことを思い出します。あなたが持ち主としてのわたくしの行いをすべて受け入れて許してくれるなら、わたくしは神様に許されたように感じます。どうかあなたはステキな何かに生まれ変わってください。そして、その時、もしわたくしが生きていたなら、もしかしてあのお姉さんが生きていたなら、またどこかでお会いしましょう。
黒いプラスチックの電話さん、さようなら。今までありがとう。
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2008年2月 山下月子
(c)Tsukiko Yamashita 2008