Tsukiko Yamashita 「六文そば」
お昼は食べたいがあんまり時間がなかったので、今まで行ったことのない駅前の立ち食いそば屋に行くことにした。
「ヤヤッ!駅のソバのソバやや!」とか言ってニヤニヤしながら近づくと、おばあさんをつれたおばちゃんがそば屋を覗いて去って行った。
わたくしもその狭い店を覗いてみたところ、どうやら席が1つだけしか空いていないのであった。おじさんやサラリーマンたちが背中を丸めて蕎麦や丼を食べている。
わたくしはこれ幸いと店に入るとわたくしのために用意されたその席に座った。
そば屋はこれまたおばあさん一人ととおばちゃん一人のペアで賄っているようだった。
座るのに技術を要する背の高い止まり木の椅子が五つと、これまたおでこを壁にぶつけないために技術を要する細い(狭いというより細い)カウンターが二つある。椅子に腰掛けると膝がカウンターに当たる上、器が遠くなる。そうかといって腰をひっかけるにはちょいと椅子が高すぎる。結果として腰掛けてお椀を手に持つのが良策とわかった。
ふむふむ、なかなか面白い場所だ。
冷やしタヌキとおいなりさんで400円。料金と品物は同時に交換なのか、と財布を覗くと小銭は300円しかない。オシイッ!と呟き一万円を出すと案の定、細かいのはないかと聞かれ恐縮する。
そしてすぐさま、お釣りとお蕎麦とおいなりがカウンターに並ぶ。
いただきます
こういうところで来る日も来る日も、たくさんたくさん蕎麦を茹で、たくさんたくさんおいなりを作り、たくさんたくさん天ぷらを揚げる仕事について考えた。
わたくしがこの仕事をするとしたら、いかに大勢のお客さんにこの店でわたくしが作ったもんを食べてもらいたいかに尽きるだろう。それは決して単価が安いからという理由でばかりではなく・・・。
これは誰かの血となり肉となることと、ある日ある時の満腹感に毎日関与する仕事である。
蕎麦は神様が作り、蕎麦を作る農家の人が育て、工場の人が粉にして、蕎麦工場で打たれて刻まれ、この店に運ばれた。
というところまではわたくしの関与するところではない。
また、ふらっと訪れる知らないお客さんたちは、どこかで誰かと誰かの間にどんな事情でか知らぬが生を受け、その年まで紆余曲折を経てこの店に今日くる。今朝なにを食べたかも知らないし、なぜここへ来たか、どんな栄養状態かはわたくしの関与するところではやはりない。
だがしかしっ!
ここへきて、この店でわたくしという存在が関与することとなり、わたくしが茹でたり、よそったりした蕎麦を見も知らぬお客さんは食し、間違いなくそのからだにこの蕎麦はなんらかの影響を及ぼす。
蕎麦にかぎったことではない。ネギも、おいなりに入ってる米もゴマも、天ぷらの具だってそうである。
いま目の前のお客さんと、いままで様々な場所で育ち加工され、ここに集まってきたものたちが、わたくしの労力を介しひとつになるのである!なんという時空を超えた壮大でリアリティのあるドラマであることかっ!
ハァハァ
なんて息を荒くしたわけではないが、立ち食いそば屋となった場合の己の野望がしばし口許を弛めニヤニヤしながら蕎麦を食べる怪しい女ひとり連れであったことは間違いない。
ああ、わたくしはこの創造力を愛す。
そんなことを思いつつ、近頃、残留農薬の残った米、というニュースを見た。
(c)Tsukiko Yamashita