江向

水とともに暮らしてきた城下町・萩の教育と近代化の歴史

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萩城下町が形成された三角州の中心部から南に位置する江向は、海抜が低く湿地が多いため、江戸時代、北は水田・蓮田が遊水池として活用され、南は中下級の武家地となっていました。橋本川と松本川に挟まれた城下町は水害が多く、新堀川や藍場川(大溝)を開削して水はけをよくするとともに、水運や生活用水などにも利用してきました。

標高の高い三角州北側の地(砂丘)に武家屋敷や町家・寺町が造られた一方、三角州中央の広大な低湿地(後背湿地)には藩校明倫館が移転され、藩の教育の中心として機能しました。明治以降は低湿地に学校や役所などが集中することで近代化の波が吸収され、結果的に城下町の姿を保存することにもつながりました。現在、穏やかな住宅地を形成する地区内には、松下村塾の門下生で日本の造船業の近代化に努めた渡辺蒿蔵の晩年の旧宅や、日本画家としてフランスのアール・ヌーヴォーに影響を与え、長門峡や須佐湾をはじめとする山口県内の景勝地の保護や整備に尽力した高島北海の旧宅跡も伝えられています。

水とともに暮らしてきた萩城下の景観や遺構、教育の普及と近代科学の発展に尽くした人々やその遺跡を江向のおたからとして推薦します。