オアシス

『朝市、夕市、気持ちイー』

田中義一(瀋陽薬科大学)

そして、中国、瀋陽は2度目であるが、以前、市内中心部より北部に住んでいた私は、今回、その雰囲気も異なる南部に来たため、生活のリズムを掴むのに苦労した。その一つに買い物が有る。2度目だからと、生活必需品は、以前と同じように気軽に手に入るだろうと思い、空港での超過料金も恐れ、衣類なども余り準備しなかったのだが、それを、どこで、どのように調達しようかと狼狽させられる事となった。そうこうしている内に、春日元校長さんより、薬大近辺で、朝市、夕市が有る、との情報を仕入れ、恐る恐る、それを垣間見る事になった。ドヒャアー、すごい人集り。薬大西門から出ると直ぐのその場所は、その朝、日中の何の変哲もない場から、とんでもない場所に変身していた。まだ、何が、どのくらいするか分からずのまま、「卵10個!」と中国語で話す。早速、袋に入った卵を計量し、「6块5!」と来た。「してヤッタリ!」と、生唾を飲み込む。家楽福では、同量で13元もしたのだ。その時、店の方から「ナーリーレン?」と聞かれたが、「リーベンレン!」と答えると、隣の中国人のご婦人が、「オホホホー」と笑いこけたっけ。以前の瀋陽在住時の買い物の時でも、同様なやり取りをした時には、お店の方々が爆笑した物だった。こればかりは、変わっていなかった。やはり、リーベンレンは珍しいのでしょう。その後、私は、チンジャオロースの材料を買い漁ろうと、胸をはずませるのだった。必要な衣類も、ここで仕入れた。カリフーで見た衣類等の価格に失望していた矢先、その安さは福音だった。

夕 市

朝のスムーズな お通じは、その日を快適にする。汚い話だが、特に、キャベツの食後は粘つかず、すんなりと下りてくる。痔の持病を持つ私には、それは緩衝材である。だが、それでも午後に、ほとんど授業が無く部屋に篭っていると少しきつい。これは、体を動かさず、それがために腸の中がこなれないからだ、とは家庭医学辞典にも書いてある。そして、そのため、午後の落ち着いた時刻に薬大の東側を散歩すると、いつもの夕市にさしかかる。朝とは違った雰囲気だ。丁度、太平洋と日本海の雰囲気の違い程のものが有る。ある日、日もとっくに暮れて帰り、そして帰り支度もしているお店も有る中で、「これ、多少銭?」と聞くと、やり取りの中で、また、ここでも、「ナーリーレン?シエンマ工作?」と問いかけてくる。「リーベンレン!薬大の日本語教師よ。」と答えると、少し笑みが浮ぶ。“何でも食べたくなるほどに陳列されている肉屋のおじさん!また、来るよ”と心に念じて、そこでの買出しの後をする事となった。

冬将軍到来の準備のため、そして直前の価格上昇を恐れ、アノラックの買占めをしたのも、この夕市である。69元の安さだった。以前500元で買い、日本にも持ち帰ってホッカホッカしたため、おふくろにも喜ばれたものであるが。あっ、卵がない。よし、行こう。その後、20個余りで10元と来る。また、ほっとした物を感じ、心の安らぎを覚えて帰路につく。瀋陽に初雪が降った。その夜、何かの肉の煮込みを作ろうと、また夕方、暗がりの中を出かけ、目に止まった店で鶏肉を注文すると、「よっ、先生!」と声を掛けてくれる。あのおっさんだった。店の格好が変わっていたので、分からなかった。「その春雨と一緒に煮込むといいよ!」とアドバイスをしてくれる。良くもまあ、覚えてくれた物よ……。

これらの市には、ただ、“狩猟”のためにのみ通うのではない。日々の授業の準備や教室内での学生の皆さんからの見えない圧力、その他の物憂い倦怠感等が貯まると、自然、足はそちらへ向く。

そこばかりでなく、気の赴くままに歩いていると、時には青年公園にたどり着き、河川の釣り人に見ほれながら、河のほとりでマージャンに興じる方々をも見入る。ついでに、そこで、中国語をリスニングの練習のために盗み聞こうともする。あ~あ、さっぱりわからない……。そこは、緑の木々もあり、ちょっとした子供用の遊園地も有り、一瞬、一般家庭の雰囲気にも浸る。私は、以後、数年で還暦を迎える。しかし、普通ならばいるはずの孫もいないせいか、さっぱり老人になった気がしない。体力の衰えも、まだ感じていない。が、血管細胞の老化現象だけは、じわりじわりと感じさせられている。ボケが始るのだろうか。油断は出来ぬ。この際、ボケ防止法の一つを話して置こう。つまり、人がたくさんいる所に、足しげく行く事なのである。これは自説ではなく、ちゃんとしたボケ防止法の医学説として確立している。混んだバスに乗るのも、その一種。さらには、遠くから想う片思いならぬ、心ときめく恋、とは某先生がおっしゃる学説。~ってな訳で、私は、時には年甲斐もなく、瀋陽の町の雑踏を右往左往するのである。そして、日本では見られないお顔が見られるのである。お心当たりがお有りの方、この予防法はいかが?

インターネット難民

粟野藍(朝鮮族第二中学)

私はアナログ人間である。学術的にはまだ証明されてはいないが、機械音痴は遺伝する。これは事実である。我が粟野家がどれほど文明の利器に見放された血族であるか、簡単に紹介したい。

私の父はパソコンを文明開化がもたらした悪魔だと信じ込んでいる。決して半径1メートル以内に近づこうとしない。母はOLだったこともあって、多少パソコンを使うことができるが、USBを信用せず、今だにフロッピーを愛用している。「Yahoo」のことを家族全員が「ヤホー」だと思っていて、ほんの数年前まで「うちでも、ヤホー使えるようになるといいね。」などという会話が交わされていた。歴史の闇に消えた真実である。付け加えておきたいのだが、我が粟野家は限界集落にあるのではない。東京都23区徒歩五分圏内にコンビニが5,6軒存在する大都会である。つまり機械音痴は環境によってもたらされるのではなく、遺伝するのだ。

そんな呪われた一族の一員である私だが、富士通のノートパソコンを長年愛用している。このパソコンは私にとって単なるパソコンではない。数々の死線を共に潜り抜けてきた戦友、いや、もはや私の分身とも言える存在だ。

締切に追われ、リポビタンDを片手にデータ整理をしたあの時も、1週間のコマ数が 30時間を超え、泣きながら教案を作成したあの時も、配属先であてがわれた個室にテレビも何もなく、押し寄せる孤独の波に窒息しかけたあの時も、彼は常に私のそばにあった。

その戦友が突然瀕死の重傷を負った。電源が入らず、全く起動しないのだ。私は動転しながらも、彼を毛布に包んで、中街の山田電気に駆け込んだ。

だが、診断の結果は無慈悲なものだった。すでに手の施しようがないという。私は山田電気のお客さまサービスカウンターの前で、ただ立ちつくすことしかできなかった。新しいパソコンを売りつけるために、奴らは私の戦友を殺そうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼にも捉われた。最新型ノートパソコンの魅力的な話も耳に入らない。思い出すのは彼のことばかり・・・。

だが、死んでいった彼のためにも、私は新しい一歩を踏み出さねばならない。自室でダラダラとネットを使っていた時間を読書や中国語学習に充てた。しばらくは穏やかな充実した日々が流れた。しかし、幸せはいつだって長くは続かない。

先日学校で壁の修繕工事が行われた。美しくなった壁には傷も穴もない。そう・・・、驚くべきことにパソコン配線のための穴を全て塞いでしまったのだ。もはや、パソコンに電源を入れることもかなわない。パソコンはただの邪魔な黒い箱になり果てた。夕日に向かって「バカヤロウ!!!」と叫びたかった。私は自宅でも学校でもパソコンもインターネットも使えなくなってしまったのだ。

だが、こんなことぐらいでは挫けない。だてに中国で4年の歳月を過ごしてきたわけではない。社会人としてメールだけはチェックせねば、とインターネットカフェ(网吧)に向かった。身分証明証を提示しろとの要請に私は、パスポートを出した。しかし、ここで思いもよらない答えが店員から返ってきた。身分証のIDを機械で読み取り、登録しなければ、利用できないというのだ。つまりパスポートでは、登録できない。「外国人に使わせるパソコンはないってことか!!!」と店頭で暴れてみたが、結局徒労に終わった。最近はインターネットカフェに絡んだ犯罪が少なくない。出入りのチェックも厳しいし、公安もよく巡回に来ているという。

ノートパソコンがないのでは、スターバックスなどの無線lanを使用することもできない。この原稿も学生のパソコンを借りて、書いているような状態である。まさに八方塞がりだ。私がインターネットに接続できる日は果たしてやって来るのだろうか。救いの手はいまだ届かない・・・。