2018年10月26・27日に浜松で第26回腰痛学会が開かれて、それに参加しました。腰痛の原因の一つである椎間板ヘルニアを外科的でなく治療できる薬が実用化されたので、そのお祝いの席が設けられ、それに招かれたのです。詳しいことは7月11日の「ロコモティブシンドローム」に書いていますが、50年前に私が研究した細菌由来のコンドロイチン硫酸分解酵素(コンドロイチナーゼ)が、岩田久先生たちの長年の努力によって、今年ついに治療薬として承認され、歴史を調べてみるとその酵素の元々の研究者が現存していると言うので、整形外科医の集まりに私も招かれたのでした。
お祝いの中心はもちろん今年82歳になる岩田久先生です。彼は名古屋大学医学部整形外科の院生のときに、理学部の私達のところに研修に来てこの酵素に触れ、その後医学部の教授となって医局を挙げてその実用化を目指したようです。もともとの酵素はコンドロイチナーゼABCと名付けましたが、治療薬となってコンドリアーゼ(商品名へルニコア)と名付けられました。
以下は10月26日の、その席での私の挨拶です。
今日このような「ヘルニコアを祝う会」にお招きいただき、会長の松山先生、ありがとうございました。岩田先生、おめでとうございます。
今年の夏の初め頃、岩田先生から電話が掛かってきました。「この秋浜松で学会があるでよぅ。先生、それに招かれとるで、都合はどうかね」(笑い、岩田先生の名古屋弁を真似ました)
私は4年前の77歳のときに(ここで、皆びっくりしてざわめく音。口ぐちに81歳?と驚きの声。それで、あらためて)、ええ、コンドロイチナーゼを研究すると、こうやって若くみえるのですよ。もうひとりの斎藤先生も若々しいし、岩田先生は、あのう、そうですね、もてすぎて、ちょっとあっちのほうが過ぎたのかも知れません。(笑い)
(あらためて)私は4年前の77歳のときに、中国の瀋陽にある薬科大学での仕事を辞めて帰国して以来、学会活動からは一切身を引いて新しい人生を生きています。学会の、しかもお医者さんの集まりと聞くだけで遠慮したいところですが、岩田先生が「先生に教わったコンドロイチナーゼが、腰痛の薬として8月から保険に認可されたんだわ。そのお祝いがあるでよう。それに来にゃいかんがね」と言われるので、今日こうやって参上しました。(笑い)
私は1962年東大生化学の修士課程を終えた後、名古屋大学理学部化学教室の鈴木旺(さかる)先生にスカウトされて助手になりました。
鈴木教授は当然やりたい研究があったので私のことを呼んだわけです。その1つがコンドロイチン硫酸を分解する酵素の研究で、私はこのコンドロイチナーゼの研究と軟骨の発生の研究を同時に始めました。
コンドロイチナーゼの研究が進んだ頃、1965年のことだそうですが、名古屋大学医学部の内科の大学院生だった斎藤英彦先生(注参照)が国内留学で私たちの研究室にやってきました。斎藤先生は私よりもはるかに緻密で、そして勤勉でした。もし斎藤先生がこの研究に参加しなければ、研究の完成にさらに3−4年かかったでしょう。彼のおかげで研究が加速され、当時は生化学の研究の発表の場として世界最高峰のJournalであるJBCに、1968年には3つの論文を発表いたしました。1つはコンドロイチン硫酸分解酵素コンドロイチナーゼABCとコンドロイチナーゼACの精製と性質です。2つ目では、コンドロイチナーゼを使うとコンドロイチン硫酸があることがわかりますし、定量することもできる論文です。コンドロイチナーゼを使って硫酸基の結合位置が違う異性体3つを発見したのが3っ目の論文です。これらの論文は非常に高く評価され、今までに1500を超えて引用されましたし、今でもしばしば引用されています。
1968年には、名古屋大学医学部整形外科の院生だった岩田久先生が、同じように私たちの研究に加わりました。岩田先生はヒトの生体材料である椎間板の髄核、膝の半月板を持ち込んでそれをコンドロイチナーゼで分解して、コンドロイチン硫酸とデルマタン硫酸の複合体を初めて見つけて、これもJBCに1983年に発表することが出来ました。
名古屋大学の医学部の内科及び整形外科の大院生が続けて理学部に来て私の研究に加わったのは何故なのか私にはよくわかりませんが、鈴木旺先生はビジネスマンとなっても成功したに違いないと自分でおっしゃるほど弁舌爽やかな先生でしたので、いえ、会長の松山先生のことを言っているわけではないんですが(笑いと拍手)、整形外科医となっても大成功したに違いないと思っています。(大笑い)
コンドロイチン硫酸といいますと軟骨細胞が作る細胞外マトリックスですから、その後私は、ほかの細胞外マトリックスの研究、そしてそれらは複合糖質ですので複合糖質の研究に興味が移り、さらには細胞膜にある複合糖質である糖脂質の研究に移っていきました。
たしか1980年代の終わり頃、岩田先生は「腰痛の1つが椎間板ヘルニアだでや。これは椎間板の髄核が飛び出して脊髄神経を圧迫して痛い。キモパパインが使われとるけれど、外に漏れると大事になるんや。でもこれをコンドロイチナーゼで処理すれば、髄核だけに効くから腰痛は治るだがや」と言っていました。私は、「そりゃいいけどさ、コンドロイチナーゼはヒトにとって異物だから1回しか使えないじゃない。1回しか使えないものなんか、クスリになどなりゃーすか」といって、笑いました。
ところが、それがなんと薬になったのです。岩田先生はじめ多くの先生方の長年の努力が実って、今年やっと保険薬として承認されて、腰痛の3割はこれで救われると言うことです。素晴らしいことです。(拍手)
私は大学を出てから4年前に辞めるまで、54年間基礎研究に携わってきました。最後の11年間は中国の瀋陽薬科大学で多くの学生を研究者に育てました。研究には研究費が必要ですですから、基礎研究もいつかは必ず役に立つと研究費申請書には書いて、しかもそう言い続けてきました。しかし、これまで自分の基礎研究がヒトの役に立つことがあるとは、実は全然思ってもいませんでした。それがこうやって実ったのです。こんな素晴らしく、喜ばしいことはありません。
今日のこのお祝いの日が近づく近づいてきて、家族や友人に浜松の学会に招かれて出かけることを話しました。ちょうど本庄佑先生がノーベル賞をもらったころです。ですから、皆がいいました。「50年前の研究が実ってクスリになったの?!すごいじゃない!ノーベル賞ものじゃない?」(笑いと拍手)
でも、この目出度い席でもひとつ引っかかっているのは、自分が54年間基礎の研究者としてやってきた中でも、この最初の、自分のアイディアで始めたのではない、コンドロイチナーゼの研究がこうやって脚光を浴びたことです。「それじゃ、その後の自分のアイディアに基づく50年に亘る研究は一体何だったのだろう?」
ひょっとすると、それらがクスリとして実るには、それぞれ50年掛かるのかもしれません。つまり、この先50年長生きすれば、それらを見届けられると言うことかもしれません。(笑い)
ノーベル賞がもらえなくても、50年と言うと私は130歳を超えますから、それだけで世界の新記録です。(大笑い、拍手喝采)
この素晴らしいお祝いの会に招いて下さって有り難うございました。そして、改めておめでとうございます。
【注】斎藤英彦先生はその後医学部教授、医学部長を歴任し、現在は国立病院機構名古屋医療センター名誉院長、そして2019年の第30回日本医学会総会の会頭である
(20181028)
『泰国で沈阳と出会う』
元沈阳薬科大学日本語教師(2011. 8-2013. 7)
田中義一
第1章 日本の中の外国
第一節 決死圏に突入
さぁて、あの中国生活から早5年の歳月。日本で日本語教師をしようと、その一里塚である日本語教育能力検定試験合格を目指す。が、準備周到ならざるためいつも憂き目に会う。その間、バイトや福島の除染作業、太平ビルサービス株式会社、家庭教師のトライ等で何とか生計を立てつつあすなろ的な日々を過ごす。そして、折りに触れてこの会の先生方に励まされながら。
しかし、このままではいかんと思い思い切って進路変更を企てる。そして、就活をしている内に、三沢米軍基地の期間限定、年齢制限なしの募集が目に付いた。こちらでは、他の仕事より割のいい収入が得られる。競争率の厳しい所であるが落選覚悟で応募した所、どう言う訳か採用された。面接時のアメリカ人の英語が所々分からなくて、希望は捨てていたが。受かったのは第35施設中隊。でも、積年の感から再度のハードな日々が待ち受けているとも予想していた。
やはり、とんでもない職場だった。ほとんど日本人ばかりで英語を話す事も無い。今年3月末日まで上記の職場にいたが、戸を開けばまた戸が有ったの感の毎日。世の中は甘くなかったの感で過ごす日々。良くしてくれた米軍の上司は、途中で韓国の方へ転勤になるし。その昔、ふるさとの市内で或る占い師に占ってもらった所、人生の節目節目で邪魔する物が現れて来ているとズバリ見抜かれた。今、再びその感がする。~♪~希望を捨てずに明日に生きりゃ~♪~の同じ年の天童よしみの歌に励まされて生きたが、半年の契約期間を満了し3月末日で退職。地獄から生還した感じ。パワーハラスメントのオンパレード。就職先として勧めたくない所。この話に深入りすると座が白けそうなので、このぐらいにして置こう。そして、タイ人の友人がいるタイへ行ってストレス解消をしたくなった。
第二節 終わっていた私の日
退職約1週間前ぐらいに、その職場のインターネットに古巣の基地郵便局の職員募集が偶然目に入った。しめた!と思った。でなければ、福島の除染作業に出稼ぎに行くつもりだった。が、応募締め切り1日前だった。あわてた。前回より応募者多数で若い女性の方々が多かった。面接時の英語は、やはり厳しく難関だったがどうにか受かり、また採用予定日が1か月も早まった。
以前と同じく窓口に配属される。今度は逆に、朝から夕方まで無料の英会話学級。しかし、まくし立てられると分かったり分からなかったりで、もっと勉強しなければと、語学学習はいつもが始まりである事を思い知らされる。日暮れて道遠し。そして、通訳業だけは二度とすまいと再度心に誓う。語彙なり構文はほとんどの場合中学英語なのだが、配列が教科書的、本的ではないのだ。まさに、自信家も心細くなる世界。だが、ビジネス英語は外国人と仕事をする予定の無い、一般の英会話愛好者の方々には無用の長物と思われる。つまり、日常会話では不要だし、その前にその関係の業務内容に精通している事が必要だからだ。でないと、当のアメリカ人でさえも上手く行けない。
だから、一般の方はすぐ役に立つ英語でいいのではないか。今、時折、期待を込めて中国語にも親しんでいるが、同様の事を感じている。つまり、日常会話は初級レベルの語彙でいいのだが、でも・・・。現場の同僚の、とは言っても私の息子娘見たいな若き方々は、ネテイヴ並みの語学力。私はと言えば、受験英語止まりの文切り型。(でも、何とか通じている。受験英語も立派な英語だと言う高校教師の教えは、真理を突いていた。つまり、発展する核だった。)。もう、若い人には勝てない。伸びの限界も感じる。話ももう合わない。また、あの声高の呼び声も、足早の歩みも出でいない事にふっと気が付いた。つまり、私の日は終わっていた。積年の上司からも、「ここが最後だぞ。」と念を押されている。とにかく、今後約2年間の職務の予定ではあるが、引き際が近づいて来た様だ。20年前、英会話取得の二度と無いチャンスの場だと思い、短期とボランティアで忍耐強く2年半過ごした所、今度は、期間限定ながら正職員の待遇で、しかも、有るとも思わなかった返り咲きだったのに。だが、窓口では、私とのやりとりで、「~~、Sir !」と語尾で敬意を表す外人さんが増えて来た。以前は1回も無かった。また、往時のあだ名の”Mr.G”も残っていて、今でも私の通称になっていた。『夢をあきらめなければ、夢を実現する力が与えられる。』とは、有るオリンピックのスローガン。これからの私には支えの言葉である。所で、1か月も勤めないのに夏季ボーナスが出、しかも膨らみの有る・・・。査定・・・? Why・・・・? 一生懸命やったから?信じられない事ばかりが続く。
第三節 日本で初の日本語教師
昨年初め、日本語教師の面接試験がインターネットで有った。面接官は英語を話す韓国の米軍基地人事課勤務の女性であったが、条件が折り合わずそのポストを受け損なう。上記の三沢米軍基地のアメリカ人学級での日本語教師であったが。今や、日本語教師は花形となってしまったため、どこもかしこもその成り手は多く、そう簡単にはその座を射止める事が出来ないのが現状である。
が、天から降って来たかの様に、アメリカのCARTUSと言う語学教師派遣会社の子会社の『GCSLearn』と言う地元の日本語教師派遣会社から、或る日、突然仕事が舞い込んだ。生徒(?)さんは、55歳のマイク・パトロー氏で、基地内にあるTRANEと言うアメリカの建築会社にお勤めの方。アメリカ人に直接教えるのは、今回が初めて。英語を駆使してのレッスンは骨は折れるが、中国での経験が物を言った。聞けば、氏も2年間上海にいたと言う。が、危機感も募る。この世界での商売は、いつドタキャンになるか分からないからだ。これが一番怖い。とにかく、今年2月末より平日の仕事が終わった後、夕方にやっている。
第2章 あッ、沈阳だ!!
第一節 リニューアルの総合大学
今年(2018年)4月19日(木)から24日(火)までタイにいた。実は、次の職場は5月10日からの勤務だったので、ゴールデンウイークも避けその余暇を利用しての事だった。また、あのストレス発散のためだった。5回目で、8年ぶりのタイ。あの感激をもう一度と。今回は初めて羽田空港から、しかも0:20発の深夜便だ。毎度ながらタイ国際航空でTG661便(往復税込み¥65,290円)。が、搭乗直後に2時間の時差だけ時計を過去に戻す。そうさ、機に乗った瞬間から過去に移動し始めた。初の海外は今から約30年前。その時、夜間にバンコク空港に着陸した。その直前、機の窓からは星の様に、白熱灯が素朴に輝いているのが見えた。が、今回の未明の薄暗がりには、オレンジ灯の列が希望の朝を伝えるかの様に輝いていた。機の客室乗務員の皆様のプロポーションも、30年前の小柄な感じから欧米人並みになっていた。この後も、行く先々でその現実を頻繁に見る。その当時、故プミポン国王が国民栄養向上政策を掲げていた。ここに来て、その政策が見事に成功している事を目の当たりにした。国王の先見の明に驚嘆。
【左の写真:32年前の1回目のタイ行き、左から2番目が今回再開を果たしたおばあちゃんの若き日】
さて、スワンナプーム空港から乗り継ぎ先のバンコク空港にタクシーで向かう。前回と同じだと思い乗車順番券を発券機から取り乗ったはいいが、500バーツ(約1,700円、1バーツ≒3.45円、前は3円)から800バーツ(約2,700円)(約30キロの区間)と高値に変化。(タイの大学出の初任給は約20,000円)。それもそのはずのワゴン車タイプのタクシー。あわてないで民間のタクシーを探すべきだった。だが、快適だった。空港は、いつでも人の夢を誘う。搭乗までの時間は心安らぐ幻想の世界。何となれば着いたそこで待機しながら、食欲をそそるタイ料理の陳列品を見たり、食したり。旅は、その過程が面白い。時間となったので、そこからは、ノックエア(鳥が飛ぶ)航空DD7808便10:05発で南方のナコンシータマラート空港へ約1時間(1,000バーツ=約3,400円)のフライト。降りた時はムッとした暑さは感じたが、往年感じた気温より低く、聞けば最近はそんなに熱くはないと言う。
いた、いた、が、白髪のハッサチャイ博士(66、物理学、物理計算学、ナコンシータマラート・ラジャパ総合大学)が開口一番に、「若い!」。そして、中国帰り後、ハードな日々を過して来た私は地獄で仏に会った様に感涙する。ナコンシータマラート市には昼頃に着いたので、市内のレストランでタイ料理に舌鼓を打つ事になった。いわゆる本場のタイ料理を、久しぶりに食して感激する。辛いし、汗は出るし。その後、今回の来タイ以前に、前回(8年前)お会いしていた高齢の母が他界されたとお伺いしていたので、そのお墓参りを願い出た。5年前ぐらいに93歳で亡くなられたとの事。タイ式墓地へのお墓参りと遺灰のある親戚縁者の御家庭を弔問する。この時、約30年ぶりで先生の一番下の妹さんとお会いした。私と同じぐらいの御年齢でほとんど変わっていなかった。後に記す26年目の方との出会いとは、対照的だった。また、1回目(30年前)のタイ紀行でお世話になったエビ養殖の実業家の長兄も、その事業からの引退後、2年前に脳卒中で70歳の若さで亡くなったと言う。合掌。明日は、私の好きな海鮮料理の有る、約30キロ先の海浜近くのレストランに連れて行ってくれると言う。明後日は、約180キロ西側のプーケット近くのクラビ市に連れて行ってくれると言う。実は、今回の旅に先立ち、太平洋側のスラーターニーかその反対のクラビに行きたいと打診して置いたが、先生は後者を選んだ。その理由は後で分かったが。つまり、その昔、私が会った人がいると言うからだ。とにかく、胸を膨らませながら氏の高級な家で眠りに就く。とんでもない再会が待っているとも知らずに。
翌日、試験監督のある先生に同行して、大学構内散策。図書館やその他の場所を歩き回るが、どこもきれいだった。30年前の平屋で長々とした校舎がヤシの林の中に見え隠れする光景とは違い、構内は舗装が完備され、今や王様が居住しているかと思われる建築物が増え、奥深くの中央には、そこに集まる方々を見守るかの様に巨大な金色の大仏が居座っていた。あ~あ、30年経ったのね、と心の中で溜息ばかりを付く。また、目に入る男子、女子学生の体型は、欧米人並みに変身していた。そこで、先生に『ノム コー ヤーイ(オッパイも大きいね)』と言ったら、即、「公衆の面前でそんな事を言ってはいけない!」とたしなめられた。外国人だからと言って大目に見られる事が無い言動も有るようだ。気を付けないと。その昼、大学食堂でタイの先生方との会食に同席する機会をいただいた。そこで、思わぬ程に日本語教師関係の話が出た。近い将来、日本語教師を募集すると言う。もし、良ければあなたを採用したいと言ってくれた。が、人生の難題がその行く手を阻んでいる。
第二節 タイの沈阳―クラビ市―
次の日、日が昇った10時前頃に、クラビ市に向かって先生運転の車で出立した。そして、ただ、のんびりと道中のヤシの木々の風景に酔う。この先、信じられない事が待っているとも知らずに。しばらくして、道路沿いのタイレストランで朝食を取る。その辛さを期待していたが、何か沈阳のレストランと似た感じの物だった。これが,この先、タイの沈阳と言っても過言ではない町が待っている事の前ぶれだったとは、後で気が付いた事だった。目指すは塗料関係のお店をしている先生の親戚の家だが、クラビ市近くになると中国語と英語併記の看板が目立つ様になり、タイ文字と外見上それ程変わらぬイスラム語併記の沈阳の看板を彷彿させた。街並みにも、沈阳で見かける物とは大差無い建物が目立った。
この日の夕方、予定通り当大学のお二方のご参加も得て近隣の海浜の海鮮レストランでの会食となった。一方は英語が御専門の、もう一方は司書関係が御専門の教官だった。周囲のお客様には、タイ人とは思われなかった体型の方々が多く、また運び出されたお料理も格調高く、そしておいしく、再度、進歩したね、と心の中でつぶやく。宴を終えての帰宅途中、血圧に問題が無ければビールでも飲みたかったなあ、と残念がる。すぐ目の前に見えていた、漁師達の日々の生業を想起させる係留中の漁船の数々は、昔ながらで、郷愁の念が胸の中を素通りしていた。
その後、1泊2人で800バーツ(約2,700円)のリバーサイドホテルと言う筋向いのビジネスホテルを予約し、夕ぐれ時前に、そのおばあちゃんと先生と3人で、17キロ先のスサーン・ホイのイーストライレイビーチへの散策。ここで、インターネットで事前に見た75万年前の太古の貝の化石で出来た岩板を見る。最初は沼地だったが、地殻変動で侵入して来た海水で貝が死滅し、その固まりで岩板が出来たとの事。しかし、このビーチでは、やけに若き西欧人の姿が目に付いた。次の日も、ガイドブックで目にした景勝地に運良く案内される。そして戻り、前記のごとくの時間を過ごし、明日の釣りボートの手配をして眠りに就く。あのおばあちゃんの正体が分かるとも知らずに。
第三節 26年目の再会
この日の夕方、近隣のタラート(市場)に出かけたが、沈阳のそれとは大差なかったので、一時沈阳にタイムバックした感がした。また、沈阳でもデパートのバーゲン時には、音楽会のオンステージも有ったが、ここでも例外では無く、若き乙女のエネルギッシュな歌声に酔いしれ、日本での喧騒を忘れ、年甲斐もなく夢心地になる。さらに、中国系タイ人の若い人には、スリムな方が多い中国本土とは違って、肉感的な容貌の人達が良く目に付いた。華僑の名残が見て取れた。さて、着いた。事前に連絡して有ると言うので、早速降りてあいさつすると、お店の方々はけげんそうな表情。しばらくして、先生が降りて顔を合わすと、「あ~~あ!」と、やっと意味が分かった様だった。その中の初老のおばあちゃんが、私を見た事が有ると言う。私は、まだ皆目見当が付かなかった。着いたのは昼頃だった。その方も、「若い!」と言ってくれた。この昼食時に食したレストランも、沈阳風だった。
また、他の伯母さん方との写真も有った。しかし、あの2004年スマトラ島沖地震の津波で亡くなったとの事。一瞬、目頭が熱くなった。他人事ではなかった。実は当時、心配して友人に手紙を出して、当時知り合った方々の安否を尋ねていた。、プーケット近くの砂浜沿いのその家は、事前に引っ越ししていたので難を逃れたとの報告を受けて安堵していたのに・・・。「今度来たら、家ではレストランをやっているから、遊びに来てね。」と言ってくれていたのに・・・。彼女らの霊が私を招いたのかも。鎮魂の合唱。
蛇足ながら、昨年夏、教師会の辻岡先生が悪性リンパ腫が元で、帰らぬ人となってしまわれた。御入院直後には、お医者様からすぐ御退院出来ると言われていた矢先、急きょ、御容体が悪化されたと言う。その1か月前までメールのやり取りをしてくれていたのに。先生には、帰国後の就活の時には、いつも保証人になってもらった。奇異な国への御旅行がお好きだったので、タイにもお誘いしようと思っていた。後日、先生の御自宅へご焼香に上がった事は言うまでもない。けど、人に落ち着きをもたらすその清澄な語り口は、もう、拝聴出来なかった。また、天皇陛下からの学界、教育界への多大な御貢献による某勲章の授与式を、皇居で控えていたそうだ。郵便で届いていたそれは、とても威厳の有る代物だった。
なので、複雑な心境で釣りに向かう。総勢5人。私、先生、おばあちゃん、その隣人、そして、親戚の女子高生。料金は2,000バーツ(約7千円、日本は一人5千円が相場)。何はともあれ、この後、古里の図書館で見たガイドブックの中の景勝地を実際に見れるとは、少しも期待していなかった。
さて、迎えの小型トラックが来たので飛び乗り出発。が、すぐ乗船予定の木製テイルボートの係留地に着き、上船する。その後は、適度にクルーズを楽しめる時間だった。
【左の写真:32年前の1回目のタイ行きの写真の中に出てきた「おばあちゃん」と一緒】
そのおばあちゃんは、早朝、数枚の写真を持って知り合いと共に私達を待っていた。これまた沈阳風の食堂での朝食直後だったが。それは、26年前、学位取得後の2回目のタイ紀行での、先生の妻の父の数回忌での2ショットだった。そこには、私とその日のおばあちゃんの乙女時代の姿が映っていた。実は、それは私のカメラで撮って、それを先生に送った物だった。良く保管していたものだ。信じられなかった。時さえも、その人情を消せなかったのだ。聞けば独身を通したと言う。今、タイではこう言う女性が多いと言う。特に、学位取得者、あなたの様に、と。実は、この女性とは1回目のタイ紀行で会っていた。今回の紀行の後で確認したが、その当時のスライドに若き日の彼女の姿が映っていた。丁度、日本に向けて帰国する日に見送りに来てくれて一緒に撮った物だった。
しばらくして、小島のそばに来て早速釣り開始。先生に、「えさのイカは?」と聞いたら、「持って来なかった。」と。船頭の擬餌針によるイカのキャッチングを期待しての事だった。仕方がないので、前回先生宅に置いた行った錆びたサビキとリール竿で始める。が、さっぱり。船頭も、「いつもなら釣れるのに。」とさっぱりで、相互にあきらめムード。先生は、「今日は僧侶の日で殺傷はいかん。バチが当たる。」と慰めてくれたが。
こうして、午前中の釣りは断念して鶏状のチキン島の前を通ってタップ島に向かう。ここでは、外国人だからと言うので、400バーツ(約1,300円、タイ人は30バーツ)の入園料を取られる。多分、周囲の美観保持の管理に金がかかるのだろう。でも、そのチケット一枚で、他の島々も巡れるのだった。この島の200mぐらい先にはモ島が有って、干潮の時には映画『モーゼの十戒』の様に海が割れ、砂浜の通路が両島の間に現れる所だった。この時は、膝ぐらいだったが、何とか渡れる様だった。そして、ここでの散策後、近くのポブ島に行き昼食を取る事にした。ここのビーチでは結構ヨーロッパ人が目立ち、目のやり場に困る出で立ちでは有った。人慣れしたおサルさんもいた。
第四節 タイの好運の少女
昼食後、再度釣りに挑戦する事になった。上船直前、どこで拾ったのか、同行の女子高生が、イカ墨のついたイカの切れ端をさっと私に差し出した。実はこの先、このおかげで、小ぶりながら入れ食い状態の釣りをする事になった。船頭も、今度は当たってせわしくイカを釣り上げていた。このイカも失敬してエサにした。
釣りの際中、釣り上げた瞬間、近くで拍手が起こった。左手を振り向くとゴムボートに乗った西洋人2人だった。私が「アメリカ人?」と聞いたら、「ポーランド!」との答えが返って来た。タイでは、アメリカ人よりヨーロッパ人の観光客が多い事は、以前から知ってはいたが。まだ、やって居たかったが、帰港時間となってしまった。先生は、「私もいつかやって見る。今度は大きいのを釣ろう。」と期待を膨らませた。
第五節 クラビに思い出を残して
帰宅後、その女子高生が自分の家に帰ろうとしたので、先生に通訳を頼んで、「イカをくれてありがとう。おかげで、たくさん釣れた。日本では、魚が釣れると、その後好運が来るジンクスが有る(いきなりの多額のボーナスがその証拠)。あなたは私に好運をくれた。」と金一封と共にお礼を述べた。また、あのおばあちゃんは、再確認するかの様に例の写真を取り出し、知り合いに見せた。そこで、私が、「ポム チュア ダイ マーイ(信じれない)!」と言ったら、『うぬーッ、このーッ。』と言う態度で、苦渋の笑みを浮かべて迫ろうとした。すぐ様、先生は、「心身共に色々苦労したのですよ。」と差し挟んだ。また、そのおばあちゃんのはるか上のお姉さんから、「また来てね。」と言われたので期待を裏切らない様に、「3年後ぐらいに、癌が専門の元大学教授と来るよ。」と言って置いた(山形先生、聞いてる!?)。
今回の旅に先生もお誘いしたが、御多忙で断念。山形博士は、癌の転移を抑えるガングリオシドー細胞表面の糖鎖GD1a―を発見したが、定年が迫りその機構の全貌の解明までには至らなかったとの事。後一歩で全世界の癌患者への福音になる所でしたね。口惜しい。先生からは、癌
の浸潤についても御教示いただいたけど、これは物理の「揺らぎ」の典型的な類似現象で、この概念を利用しそのモデルを考えて、その度合を表す臨界指数を「コヒーレント異常法」(私の学位論文の御指導をしてくれた元日本物理学会会長鈴木増雄東大教授(当時)の御発見)を駆使し計算して見たいと考えているが、もうやられているかなあ? 何!、この人は博士号を鼻にかけているって(外野)! 何も無い人間と誹謗されて来た私に取っては、唯一、その防御となる物。学問の世界では免許証見たいな物で安い物だが、それにしても大変。今は最先端から身を引いているが、趣味でやっているからいいじゃないの?あッ、脱線しそうになったので、本論に戻ろうッと。
とにかく、タイ人に気に入られた様でホッとした。帰路、段々、英語中国語併記の看板が少なくなり、再びタイ語だけのそれが増え始めた道中で、今だに信じられない、あの出会いは、と一人心の中でつぶやいた。今回は、もう以前の様な思わぬ出会いは無いだろうと思っていたのだから。どう言う訳か、あのおばあちゃんは、私達の車が見えなくなるまで見送ってくれた。そして、そのお姉さんも。旅の不思議さ、今一度。
【右の写真は第2章第3節にでてきた「おばあちゃん」のお姉さん】
第3章 つながったタイ人と日本人
第一節 コスモポリタンの前兆
その朝は、先生とタクシーで空港に直行した。普通の型だったので500バーツ(1,500円)。大空港は、平日とは言え閑散としていた。でも、搭乗した機内には心時めく客室乗務員もいたりして、旅の終わりを楽しんだ。機内食も、頼んだコーヒーも、おいしかった。
翌日は、ナコンシータマラート空港10:30発のタイライオンズ航空783便でバンコクに向かう。翌々日、スワンナプーム空港からの帰国に備え、先生の長女宅に一泊させてもらうためだ。この長女には生後6か月の男子がいた。また、その御主人の弟さんは、名古屋の日本人と結婚したと言う。道理で、フェイスブックの中に、彼女が名古屋も歴訪しているお写真も有ったと思った。そして、その父は、元トヨタの社員でタイ駐在が長く、今はバンコク市内で年金生活をしていると言う。ハッサチャイ家は、先生の日本留学30年後にとうとう日本人と血がつながってしまった。ちなみに、先生の御長男は、2つ年下のアメリカ人女性と結婚し今妊娠中。カルフォルニア市在住。御一家での米国留学20年後にアメリカ人とも。
その夕刻に、日本へのお土産を買うため、市内のデパートに長女の車で行った。ジェームズ・ボンド並みのお車だった。そのデパートは、昔日のタイを感じさせる物は一片も無く、お客様にもリッチな成り立ての様相が目立った。気分が良くなり、帰宅後に禁酒していた缶ビールを買って飲む。先生は、「どうして飲むの?」と聞いたので、「楽しいから。」と答えたのはいいが、やはり、血圧が上がり翌日は気分が悪かった。その当日は、スワンナプーム空港13:00発のタイ国際航空660便に乗ると言うのに。
第二節 散り桜は舞い上がり易く
中国からの帰国後、雑用ばかりで食って来た私には、瀋陽日本人教師同窓会は唯一の知的空間時間。機会有るごとに、この自分と言う物を持った方々との
出会いとその凝縮された次元から生きる勇気をもらう。今は休めているその翼にエネルギーを注入してもらう。まだ独身で、かの石田純一氏と同年の私は、今年第3子を持った彼に再度あやかりながら、再度婚活に希望を 持つ。ついでに、同年の西城秀樹さんは今年逝かれてしまわれた。空戦場に向かう途中、突然、目の前の隊長機が意識不明状態となり落ちて行くのを見ている感じ。涙、涙・・・。が、命のバトンタッチをして隊長の分まで戦う、の気概ももらう。私の生身の翼も、もうこれ以上強固には成り得ぬが維持は出来ると思うので、その努力は継続して行きたい。それがいつかは実を結ぶ事を信じて。
ところで、今回の旅で気が付いた事は、長年学習したにもかかわらず、他の仏、独、中、モンゴル語等初級レベルでも概要の分かった外国語と違って、なかなかピンと来なかったタイ語が、意外にヴァリエーションも富んで通じた事だった。タイ語は象形文字見たいで、良く外国人は日本語の漢字は絵みたいで覚えにくいと言うが、その気持ちが分かるくらいだった。が、その構造も分かり易くなった。ここに、外国語取得の秘訣の一つが見え隠れする様な気がした。日本語教育にも応用出来るのではないかと一人心の中でつぶやく。
【右の写真:今回の旅行でお世話になったハッサチャイ博士が空港で見送ってくださった】
(20181021)