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時は止まらない

杉島和子瀋陽薬科大学)

中山大学にいた頃(2006年~2008年)、わたしは三年生の「日語作文」を担当していた。週に一回の授業だったから、学生に、数々の作文を書かせた。それぞれが一生懸命に書き、甲乙つけがたいが、特に印象に残っている作文をふたつ、ここに紹介させていただく。

仲間との別れ、恋人との別れ、いろいろあるが、わたしにとって最も辛いのは、18歳の時の母との別れー―別れたら会いたくても会えない永別である。

二年後の今、わたしは時々、母のことを思い出します。病気で辛くてたまらないような母の顔をよく夢にみます。親戚たちに囲まれて一番親しい人と話してから世を去るというドラマによく見るプロットと違って、母は何も言わず、私と父から静かに別れていきました。

私と兄は母の入院の時に、よく面倒をみてあげたから、周りの人はいつも、わたし達をいい子と呼んで、慰めてくれました。しかし、私は母のいい子じゃなかったとずっと悔しいのです。

入院の最後の一ヶ月、母はずっと昏睡状態に陥っていたから、私は母の傍にいたのに、母と話すことができなかったし、愛しているという言葉も結局伝えられなくなってしまった。

私は母が入院してから、母を大切にし始めたバカです。〈後悔しないように〉劉靖波「別れ」

それは高校時代のことだった。体育祭の日、学校中は大騒ぎとなった。私が参加したのは、1500メートルレースだった。それはあらゆる試合のなかで、一番むずかしいと言われ、参加するのも体育の特長生だった。しかし、うちのクラスには、特長生がいなかったので、私はいやいやながら出ることになった。ふだんならそんなに激しくはなかったが、試合なのでみんな命をかけて走っていたから、ゆっくりやすやすすませるわけにはいかなかった。

ゴールにたどり着くと、あまりの疲れでもう立つことさえできなかった。クラスメートの支えでようやく本部に戻ったが、もう命からがらだった。肩で息をするというより、その時の私には息を弾ませる力さえない、と言ったほうがよかった。話す力もなくなった。

『次の試合は100メートル、急げ』と誰かが叫んだ。『ずいぶん頑張ったなあ、李さん』とか『ゆっくり休んでね』とかの声が耳に入って、しばらくして息が戻ってきてから、周りを見回すと、一人の女の子が傍に坐って黙々と扇で扇いでくれた。*さんだった。

クラスであまり目立たない女の子で美人というタイプでもないし、何より、あまり口をきかない女の子だった。

『暑くない?』

『暑くないですよ』私はかっこうをつけて言った。

『暑いでしょう。こんなに汗が出て』と、彼女はつづいて扇いでくれた。

『ああ、そうだな』と、私はまごついて照れかくしにそう答えた。その一瞬、彼女が優しい天使のように見えた。

今になって、その時の感じは初恋の感じではなかったか、と思うのである。李裕栄「初恋」)

今、何故、あの頃の作文なのか? ――実は、この夏、わたしは瀋陽から帰国し、中山大学当時の学生に会うため、東京へ行った。学生の名は黄偉クン。四ヶ月だけだが、日本で「古典文学」を勉強することになり、来日した。

中山大学は緑滴る学校であった。キャンパスのほぼ中央に辛亥革命のリーダー、そして大学の創設者である孫文の銅像が立っていた。銅像の周りに芝生が敷き詰められ、その辺りは人々のちょっとした憩いの場になっていた。孫文は若い頃、ハワイに留学しており、その影響だろうか、キャンパス内はどことなくエキゾチックな雰囲気があった。

「藤野先生」「阿Q正伝」等で有名な魯迅の胸像は「中国文学部」校舎近くに立っていたが、それは魯迅が一時期、この大学で教鞭をとっていたからである。外国人教師宿舎からその胸像まで歩いて5分。胸像前まで歩き、そこを左折し、孫文の銅像まで進む。これが、わたしのお気に入りの散歩コースだった。散歩の途中でスコールのような雨が降ってくると、慌てて胸像のかげに隠れ、雨が上がるのを待った。

あれから三年余が過ぎ、学生の名を忘れかけていたが、作文を読み直していると、いろんなことを思い出してきた。黄偉クンは、「別れ」を書いた劉クン、「初恋」を書いた李クンの一年後輩。彼は最初、図書館学を勉強していたが、途中で、日語科へ編入。一年間、独学で日本語を勉強し、日語科への編入を認められたのだが、日本語の実力はまだまだで、それなりに苦労の多い日々であったろう。

その彼も三年生になり、「日語作文」の授業を受けることになった。ある日、「青春の旅立ち」という題で作文を書かせたが、黄偉クンは日語科への編入を青春の旅立ちと、捉え、こんな作文を書いていた。「私はいい旅立ちをした。毎日、日本語を勉強するのが楽しい。だから、この『青春の旅立ち』は成功ではなかったか、と思う」と。

しかし、この時の班長は、少し斜に構えたところがあり、こんな視点から「青春の旅立ち」を捉えていた。「青春の旅立ちというテーマを見たら、つい苦笑いしてしまった。もう二十一歳だから、わたしの青春は過ぎたかな、と思うからだ」こんなふうにシニカルにものを見る、それこそが若さなのに、その若さを無理に否定しようとしている。かつてのわたしもそうだった。そう思うと、ちょっと可笑しくなり、わたしも班長さんを真似て、苦笑いをした。

そんな彼らと別れ、わたしは一時帰国。一年間日本でぶらぶらし、再び、瀋陽薬科大学に赴任した。黄偉クンはその間に、大学を卒業し、北京外国語大学の研究生になった。彼は大学の卒論で「本居宣長」をとりあげ、研究生になってからは「本居宣長のもののあはれ」を研究していた。

「もののあはれ」と聞き、「源氏物語」を原典で読まなければならないのでないか、日本人でも難しいと言われる「源氏物語」を読み続けることができるのかどうか、心配した。しかし、黄クンはひるまなかった。

その彼が今回、「国際交流基金」の援助を受け、大学院の研究生(全員32名)と一緒に、来日した。彼らのうちの何人かは、九州や京都や神戸の大学に通い、黄偉クンは東京、御茶ノ水にある大学に通うことになった。

瀋陽から戻り、三週間後の七月下旬、わたしは黄偉クンに会いに行った。

彼が暮らす「留学生会館」が、西武池袋沿線にあることを知り、F駅を降りると、そのまま「留学生会館」へ向かった。50年前、わたしはこの西武池袋沿線で暮らしていた。この辺りのことなら、なんとか分かるだろう。そう思い、わたしは「留学生会館」へ直行した。玄関前に立ち、ケータイで連絡すると、慌しい足音が聞こえ、黄偉クンが現れた。

「先生、電話してくれたら、駅までお迎えにいきましたのに……」

腕時計を見ると、十二時過ぎ。少し遅れたが約束の時間に近い。

「お腹すいたでしょう?」

予定の新幹線に乗り遅れまいと思い、今朝、あわてて新神戸駅へ向かった。ゆっくり、朝ご飯を食べている暇はなかった。出来れば、このままご飯を食べに行きたい。黄クンの顔をうかがったが、彼は、

「いえ、先生、まず部屋に上がってください」

と言い、わたしのスーツケースを引き寄せた。それから、狭い階段をあがっていった。玄関に揃えられたスリッパを穿き、わたしは慌てて彼のあとを追った。階段を上がると、黄クンの部屋だった。六畳ほどのスペースに、ベッド、机、冷蔵庫、洋服ダンスがコンパクトに収まり、隅に小さいキッチンセットが備え付けてある。キッチンの横は、トイレと風呂場になっていた。築後十年ほどだろうか、手狭だが、使い勝手がいいように工夫されている。

「じゃあ、これからご飯を食べにいきましょう」

「いえ。先生、わたし達が作った料理を食べてください。もう準備していますから。先生はそこに坐ってゆっくりしていてください。わたし達の料理、結構、おいしいですよ。外食すると、高くつきますから。栄養の面からも、自分で作ったほうがいいでしょう」

わたし達って、誰のこと? わたしがキョトンとしていると、隣の留学生が入ってきた。彼らは中国語で何かひそひそ話し、野菜を刻んだり、フライパンに油を流したりし始めた。Kクンがテーブルをセッティングしている間に、隣の留学生がビールを買いに走り、テーブルに、ピーマンと豚肉の炒めもの、魚の煮つけ、冬瓜のスープ、トマトの輪切り、ビール三缶が並んだ。魚は、塩鮭。塩鮭は焼き魚に使うものよ、と言いたかったが、生姜と葱を加え、甘辛く煮付けてある。

「薬味まで入れて、本格的ね」

「日本人の友だちに教えてもらったんです」

隣の留学生は安徽省の出身だった。大学院では「言語学」を勉強しているが、修士課程を卒業したら、仕事に就き、親を安心させたい、と言う。彼の日本語は流暢で、中国人であることを忘れてしまう。

「それだけ話せたら、困ることないでしょう?」

「いえ、いえ。この間、一万円札を出して、お金をつぶしてくださいって言ってしまいました。店員さんに変な顔をされましたよ。あの時、咄嗟に、崩すが、出てこなかったんです」

彼はちょっと悔しそうな顔をした。その彼は旅行好きで、地方で勉強している留学生仲間のところへよく行く、と言う。しかし、黄クンは勉強一筋なのだろう。机の上には与謝野晶子訳の「源氏物語」が置かれ、その横に「アコーディオン」と「ハングル」の教習本が並んでいた。研究の合間に、アコーディオンを弾き、時間があれば、「ハングル」を勉強する。

黄クンは色白だが、隣の留学生は日に焼けて精悍な顔をしていた。食事が終わると、隣の留学生は立ち上がった。夜は、クラスメートと会食する予定だ、と言う。大学は何処? と聞くと、W大です、と答えた。

「日本での生活も、あと、一週間程ですから。日本人の友だちが送別会をしてくれるんです」

W大と聞き、わたしは冒頭の作文「別れ」を書いた劉クンを思い出した。広州にはハンセン病患者が暮らす村があり、劉クンはそこでボランティア活動をしていた。ボランティアの資金を集めるため青空市を開き、ある程度のお金が集まると、村に入る。村には整備された道がなく、彼らが簡易アスファルトを施しながら舗装道路を造る。

丁度その頃、東京からW大の学生がやって来た。このボランティアの応援をするためである。しかし、過酷な労働についていけず、何人かの日本人学生は、途中で逃げ帰った、と言う。

「W大の人は最初、ボランテアに参加できてよかったと喜んでいました。それなのに、彼女たちは途中で、隠れるようにして帰っていきました。理由を言ってくれるのなら、まだ、いいけど、何も言わずに帰ってしまったんです。先生は彼女たちをどう思いますか?」

同じ日本人として、彼女達のことをどう思うか、わたしに糾しているのであろう。現地に入っていないので、詳しいことは分からなかった。しかし、夜、ほっとし、風呂に入ろうとしても、シャワーがない。水は制限され、わずかな水で行水。それもままならない時は、タオルで身体を拭くだけ。夏の炎天下で働き、シャワーが浴びられないというのは致命的だ。

何も言わずに、帰ったことは悪いが、彼女たちの気持ちも分からなくない。しかし、目の前にいる中国人女子学生にどう説明すればいいのか、途方にくれ、隣に立っている劉クンを見た。彼はわたしと女子学生の板ばさみになり、困ったような顔をして突っ立っていた。

翌年、彼は四年生になり卒論を書くことになったが、そのテーマは「今後のボランティア活動のあり方」だった。十八歳で母と死別。大学入学後はボランティア活動をし、卒論のテーマは「ボランティア活動」。

その一貫した生き方には頭がさがる。彼はしばしばわたしの所に来た。日本のボランティァ活動は阪神・淡路大震災を境に大きく変わったと言い、当時のことを分かる範囲で教えてほしいと言うのだった。

阪神・淡路大震災当時、わたしが勤務していた学校には、連絡の取れなくなった生徒がいた。家が全壊し、避難所暮らしをしはじめた生徒がいた。職員会議を開き、手分けして、彼らの元へ行くことになった。交通機関は途絶。リュックを背負い、瓦礫の山を乗り越えての難作業である。

しかし、それらはもう過去のこと。そう思いたかったが、劉クンと話をしているうちに、様々なことに気づくようになった。一見、立ち直っているように見える神戸だが、傷跡は深い。一方で、「神戸で救援物資を配る仕事を自分で見つけ、街を巡回し、生まれて初めて『自分は人の役に立っている』」と実感した若者がいたことを、「神戸でボランティアをしていた一ヶ月、嘔吐などの症状が出なかった」と言う若い拒食症女性がいたことを知った。

あれから十六年余が過ぎ、この三月十一日には、東日本で大地震が起きた。地震、津波、原発漏れ、その余りの惨事に言葉はない。

「三月に、東日本大震災が起き、その直後の来日だったから、心配だったでしょう?」

「はい。でも、この機会を逃したら、もう日本に来られないかもしれない、と思いました。わたしは博士課程に進みたいのです。だから、日本でいい論文を仕上げ、博士課程に進みたい、と思って来たんです」

中山大学にいた頃、学生と百人一首をしたことがある。最初は張り切っていた学生も、二回繰り返すと、飽きてしまった。しかし、彼はもっと続けたそうな顔をし、平仮名だけの取り札を見つめていた。

本居宣長は「やまとことば」に拘りつづけた国学者だ。外来のことばを避け、純粋な「やまとことば」を残そうと腐心した。儒学者なら、中国との関わりも深い。同じ江戸時代なら、儒学者の方がいいのじゃないか、と水を向けたが、彼は首を縦に振らなかった。

「あと十日ほどで、中国に帰るのでしょう? 今回は結局、どこにも旅行に行かなかったのね。明日は、わたしと東京見物をしましよう。まだ行ってないところで、行きたいところある?」

聞けば、大江戸博物館、両国国技館、浅草寺、スカイツリーに行っていない、と言う。じゃあ、明日、十時、JR総武線両国駅西口の改札を出た所で会いましょう。

「ちょっと話が換わるけど、一年先輩に劉クンがいたでしょう?」

唐突な質問に、彼は戸惑っていた。

「ほら、あなたも一緒にボランティア活動をしていた。あのグループ、なんて言う名前?」

「ああ、あれは、家、です」彼は笑いながら答え、「先生、これから駅までお送りします」と、言った。

F駅の改札口で黄クンと別れ、ホームに上がっていくと、タイミングよく電車が入ってきた。まだ5時前。車内に乗客の姿はまばらだった。電車がゆっくり動き始めると、この沿線で暮らし始めた頃のことが思い出された。大学に入学したばかりで見るもの聞くもの、すべてが新鮮だった。少しずつ大学生活に慣れ、わたしは図書館で本を借りて来て読むようになった。その本の筆者略歴欄に児童文学者、綴り方教育実践家という文字があり、わたしは国分一太郎の「新しい綴方教室」(1952年、新評論)を借りた。あれから50年。しかし、今でも、あの本の冒頭の数行を憶えている。

「 アメバ アメナテ

カゼバ カゼナテ

ダレ ツケタンダベナ

イチバンハヤク ダレツケタンダベナ

もしも、この綴り方を読まなかったら、もしも、このかたことみたいな文を書いてくれなかったら、だれが、この一年生の大きな驚きを知ることができただろうか」(国分一太郎著「新しい綴方教室」より)

中山大学にいたころ、よく雨が降った。雨が木の葉の葉脈を伝い、地上にしたたり落ちようとする一瞬、「アメバ、アメナテ」を思い出した。いや、それだけではない。学生が書いた作文に手を入れようとするときには、この部分を思い出した。

「『きのう私は、私の家のうらの、

私の家の畑の、私の家の桃をとってたべました』……なんべんもくりかえす『私の家の』は、簡単に削りさってよい、よけいなコトバではないのである。このモモは、けっして、『よその家の畑の、よその家のモモではないのである』。まさしく『私の家のモモ』なのである。かつて、他人のものを盗み、ドロボウ気があると、疑われている菊池松次郎の、心理状態を知っている細心な先生だけが、この綴方の深い意味を知ることができる。そして、簡単に、この『私の家の』を削ることをしないだろう」

まだ時間は早い。練馬駅で一時下車し、それからホテルへ行こう。電車が停車すると、わたしは慌ててホームに下りた。

駅前は公園になり、その向こうに公共機関らしい建物が見えた。わたしの記憶の中のアパートは、どこにも見当たらない。見知らぬ町に迷い込み、途方に暮れているわたしの横を自転車に乗った女性が颯爽と通り過ぎた。

あれから50年――。時は止まることなく動きつづけていたのだ。わたしはそう思い、練馬駅の方へ引き返して行った。