はじめまして

撫順通を自負しています

鈴木 貞夫(遼寧石油化工大学)

瀋陽日本人教師会の諸先輩の方々、初めまして、どうぞ宜しくお願いいたします。

私は、皆様と違い教師畑の出身ではありませんが、日本語教育というか、外国人の日本語習得にすこしでも貢献したいと思い撫順にまいりました。

これまで、中国の内陸には足を踏み入れたことがなく、最初は東北の料理や気候に閉口しました。しかし撫順の生活も4年目を迎えた今、撫順通を自負しています。撫順にお出かけの際は、是非、ご一報ください。

撫順住まいの田舎者なので瀋陽の印象を聞かれても困りますが、落ち着かない町だと感じます、日本の大都市とは少し感じが違いますね、人々もあまり親切じゃないし。

抱負としては、諸先輩が作り上げた歴史を基に瀋陽日本人教師会の新しい歴史を刻む一員として貢献できるよう頑張ります。初めて教師会に参加させていただいた時は、ロータリークラブなどとは感じが違い、小心者の私としては場違いなところへ来てしまったと思いましたが、渡辺先生を始め先輩方がお声を掛けてくださったおかげで続けて参加できるようになりました、感謝しております。

今後ともよろしくお願いします。

『異国情緒は、オアシス』

田中義一(瀋陽薬科大学)

Ⅰ.2度目の中国

私も、孫悟空のように、研究室という名のお釈迦様の手から、早く解き放たれて天地天空を飛んで回りたいと、2005年12月上旬の寒々とした日、初めて桃仙空港に降り立つ。瀋陽での、万に一つの出会いと一獲千金の期待を胸に秘めてでもあった(後者は、もう少しで実現する所だった)。その後、瀋陽大での御奉公を終え、2007年6月末に帰国し、返り咲く日を信じながらのニホン砂漠の放浪。が、今回、まるでお釈迦様の権化ような山形教授の、親身の根回しのおかげで(あるいは、故山形貞子博士の天国からのお導きで)、その夢が実現され、再び、年と共に輝いてばかり見えて来る若い人達と接する日々。その身も、自然、軽やかとなる(本当は、彼等の様な息子、娘がいたはず、口惜しい)。が、若き日に勤めた某予備校を、授業が下手糞のため、3ヶ月でクビになった悪夢を思い出し、再び危機意識に駆られ、手放しではウキウキとしていられなくなる。そして、フンドシを締め直し、授業後、彼らが晴れ晴れとした表情で教室を去る授業展開を目指す。その道は、遠いけれど。今は、人生の夕暮れ時ではあるが、妻を娶ろうとする野心も抱く。そのつもりで、かねてより中国人とのお見合いを重ねる。だが、しかし、その数だけ何事も起こらなかったという体験を繰り返せば、次から次と色々な苦悶が走馬灯の様に脳裏をかすめ、遂に、日本人を嫁さんにする事を決断する。日本にいても、同様な思いに翻弄されていたが、その時に、乾き上がる心を潤してくれたのは、何と言っても異国情緒と言う名のオアシス。今以って私を支え、少しの可能性を信じさせてくれるのは、母国にいては体感出来ない、まさにこのエキゾチックな物。そして、日本の娑婆では滅多にお会い出来ない、雲の上の神官のような諸先生方からの高い教養の感化とその温もり。どれもこれも、待った甲斐が有ったという物。これらをきちんと感得し、日暮れても尚歩める人生のラストスパートへのエネルギーの源泉としたい。また、異国の若人のお顔を遠くから眺めていると、身が清められる思いがする。行く末、今度は、返り咲く日は期待していないので、それを、心の若さを維持する清泉とする。

Ⅱ.思わぬ歓待

学期開始早々、浑南体育訓練基地総合体育館で挙行された薬大創立80周年記念式典に招待される。『月餅』と言うプレゼントもいただき、かの有名なシェラトンホテルでの祝賀会にも招かれ、豪華な中国料理に舌鼓を打つ。その後、本格的に講義が始ってから、新入生の数名のグループより、昼食会の申し出が有り、楽しい一時を過ごす。薬大は、女子学生が多いので胸がキューンとなるが、彼女らの父兄は、私よりも若いので、今更ながら遅れを取ってしまった感じがする。やはり、青春は美しく、まぶしくて、正視出来ないくらいである。一瞬、日本の女の子ではないかと、恍惚状態になるが、そこは、実は、龍宮城。会が終わった後で、果物や生活必需品等をプレゼントしてもらう。私は、このような時、遠慮せずにいただく事にしている。図々しい様だが、其の方が却って、その人の気持ちを大切にすると言う事を、経験上知っているからだ。彼女らとの別れが辛かった。でも、彼女らの心の鏡には、私はどのように映っていたのだろうか?とにかく、彼女らの期待を裏切らないように、授業、がんばって行こうっと。また、2年生でも、私の部屋に、遊びがてらに日本語を勉強しに来るようになった。授業終了後も、拍手が有ったり。経験を積んだせいか、少しは、授業展開がうまくなったのかな?あの某予備校を、3ヶ月でクビになった、口ばしの黄色かった若僧が……。ある夜、部屋に入ろうとしたら、ドアの前に何かを意味する中国の蛍光棒が、きれいに配列されていたっけ…。(キャラクター出すな!-某外野)

また、学生主催の新入生歓迎会の式典にも招待され、結構な晩会を楽しませて頂いた。若人のエネルギッシュな舞には、羨望の眼で見とれるばかり。私も、ああだったのかなあ、と自分の大学時代を思い出しながら…。この時にも、プレゼントを頂く。友好の証だ。大切にしなくちゃ……、と思う間も無く、今度は、古巣の瀋陽大から電話がかかってくる。かつて、中国行きのきっかけとなったのと同じく。聞けば、非常勤の某元教授が、女史の御母堂がCPU治療室に入り、その世話で忙しく、担当の『日本語言語学概論』の授業が出来なくなったとの事。そして、代わりに担当してくれないか、との事。日頃、非常勤で瀋陽大で講義出来ればなあ、と思っていた矢先。これも、おもわぬ歓待。ヤッター。その後、周1回の出向となる。

今は、なんとかして中国会話をマスターしたいと思い、もがき苦しんでいるが、そのためにと、薬大の図書館でやる講演会に顔を出し、生の中国語を聞こうとする。そして、端っこにいると、某主催者は、『先生、どうぞ、最前席に』、と手招きをする。おもむろに、また、その端っこに移ると、再度、『真ん中に』、と手招きをするので、好意を傷つけてはいけないと思い、ド真ん中に居坐る。やはり、教官に見えるのであろう。さも、有りなん。これでも、(その後業績を挙げず、あすなろ的な夢ばかりを見る)博士の肩書きが有るのだから。そう言えば、ある日の、すでに日の落ちた夕暮れ時、用が有って外出し、帰りに薬大の正門に差し掛かった所、車が来ない限り開かない門が開き、私が通り過ぎた後、即座に閉門された。たかが、私ごときのために…。

蛇足ながら、日本では、確かに中国よりは収入は得られるが、それでも、今は、普通の中国人でもなかなか手に入らないそれであり、宿は、豪華なホテルみたいで、家賃、電気、水道、内線電話は、無料と来る。日本では考えられない、雲の上の日々の再来。二度と帰り来ぬ、老青年の青春。帰国すれば、また、ニホン砂漠を再放浪。今は、安くて、うまくて、盛りだくさんの中国料理と雪花ビールを、再び。殿様気分で、楽しみたい。あぁーっ、幻の世界だ!そうさ、私は、また、おとぎの国に来たのだ!謝々!瀋陽!謝々!中国!(完)

活気のある中国に刺激を受けています

西川珠吏(遼寧大学)

みなさんはじめまして。西川珠吏です。11月8日に来瀋し、遼寧大学で日本語教師をしています。中国での生活自体が初めてなので、こちらに来た時は不安もありましたが、今は少しずつ慣れてきました。日本よりもすごく活気がある中国に刺激を受けています。外に出れば驚きの光景や発見に遭遇することが多いですが(笑)、中国を肌で感じることができ、東北主要都市でもある瀋陽は魅力たっぷりの街だと思います。私は果物が大好きなので、値段の安さにとても感激しました。これからの季節が苦手な寒い瀋陽の冬を乗り越えるためにも、寒さ対策をしっかりして瀋陽の冬を楽しみたいと思います。

これからお世話になるみなさん、よろしくお願いします。

中国東北部瀋陽、遼陽市つれづれ

田丸 勉(遼寧大学外国語学院)

14年ぶりにチョークを片手に、教壇に立ちました。しかし、日本のものと違って頼りない細いチョークでいつもの癖で、強く書くとたちまちボキッと折れるのです。持参したチョーク挟みには入らないほど細い、学生も眼前で、ボキボキチョークを折りながら授業する先生には、驚いたことだろうと思います。

羅馬假日(ローマの休日:ローマンジャーリ)

過日、瀋陽の会合のあと遼陽市まで白タクで帰る羽目となり、駅から学校まで、深夜タクシー、「遼大外国語学院、青年大街」では、会話不足、「羅馬假日(ローマンジャーリ)」で学校西門に着けてくれた次第です。学校の隣が、大きなマンション群、過っての市民運動場、グランドが、再開発でランドマークになりました。「清華園」「泰和園」「大城市」などの名前に、市郵便局隣は、「アマデウス、レッド」日本にはないネーミングにことばの豊かさには驚かされます。

赴任準備~着任まで

3.11の東日本大震災のなか、慌しく40年間の教育公務員生活を東京都の神楽坂分庁舎で勤め上げ、災害復興支援の声、福島原発冷却停止作業をリアルタイムで見ながら、4月中国派遣に向けた長期研修を東京八王子市の野猿峠の研修センターで25名の同期生と努め、24名が、修了しました。7月まで退職の挨拶や、地震で引っくり返った本棚、不要書類の廃棄に追われ、赴任予定の「遼寧大学」は教科、赴任地の情報もなく、8月中旬前任者という石原南盛先生の情報を頼りに奥さんの叱咤激励を受けながら、事前荷物を発送、8月25日、成田より、瀋陽桃仙国際空港に4時間かけて、到着しました。私たちの同期も23名が、9月1日までに中国各地の各々の赴任地に着任しました。

着いた日から、部屋のベットのシーツ、枕カバーと、自分で新品と取り替え、前任者の置忘れ等を招聘校責任者と確認、特に歓迎の宴もなく、清掃、ベットメーキングのメイドが週1回来るではなく、特別に日曜日まで食堂を開けてくれることで着任第一日が、終わりました。

突然の授業

学生が戻ってきて、29日(月)より授業です、と告げられ、教科書と担当時間割が渡され、1・2年の日語会話、月・火、水・木、計週16時間とされ、打ち合わせ、前任者との引継ぎもなく、なるほど上意下達の世界だなと思いました。さて、29日第一日目、当地の遼陽市公安で『居留許可証』『外国専門家証明』、そして、院長との「契約書」があるので、日語教師控室で着任の挨拶を朝8時に終えて、大学の前期と後期の授業時数、行事予定を読んでいると、土曜日に渡されたものと大幅に変更、今日2年生の日語会話(外教:外国人教師)があるではないですか、日本人(外国人)は私一人、日語主任も驚いて、すぐ2年学級(班)で主任から紹介を受け、教科書で2時間授業、更に3・4時間目も2年別学級(班)で11時50分まで2時間、スーツ姿でチョークを何本も折りながら、日本の学校制度と瀋陽の経済特区、きれいな日本語を使うようにと早口でしゃべり、第一日目の授業が終了しました。

学校と学生

大学の校訓は「明徳精学」「篤行致強」、そして、ここは、三校区の中で「武聖校」と呼ばれ、一番小規模でといいます。日語系4学級×4学年計480人、ロシア語系、西欧語系と合計1500名の学生と教職員が構内で生活しています。それに巨大なポプラ並木とそこに巣をかけ、周囲の祝賀の花火、爆竹にもめげず、子育てをする、パンダ模様のカササギ(ちょうせん烏)の番いが2つ、ここのところの住人でしょうか。

学生は、1学級(班)30人でどの学級も男子が3~4名で他は女子。世上の結婚難などどこの世界の話しかと思うほど、華やかで、自律した態度の彼女たちには、清々しさを感じます。服装、化粧、流行に敏感なのは日本と変わらないと思います。また、学生は、遼寧省の各地から、「高考」(全国大学統一入学試験)をくぐり抜けた俊才たちですが、日語系、語言文学方向・国際貿易方向、と一応、卒業後の将来を見据えて、学生生活を送っています。

日本語学習と漢字文化圏

学生と話していると、日本人の感覚からいえば、日本とどんな関り合いを持ちたいのか、が明確でない者が多いです。日本語が堪能であっても、それを就職に活用できるか。それで、さらにもう2年専門を続けるため大学院に進学する人が多いと聞きます。それに国家が学生に期待しているとおり、日本の大学教育にはない必修科目「馬克思主義基本原理」「中国化馬克思主義」『軍事理論』など。まず国の立場を明確にして、そのエリートとしての次世代の育成が教育の根底にあります。

かつて、漢字文化圏を共有していた中国、朝鮮、韓国、日本、ベトナムが、韓国のハングルの全面採用、中国の簡体漢字の採用で、文字面からも日本語との共通点、日本文化理解が一部失われてきています。漢字文化の軽視は、歴史遺産の保存、研究姿勢、歴史認識の相違、伝統文化の継承の困難さと歴史認識の剥離を生む土壌になりうる危険性を感じます。大げさに言えば、今日本でも騒がれている、「英語なしにはグローバル経済に参入できない。わが社は英語のみ、日本語禁止です。」「TOEFL00点以上」などの英語重視が、日本語軽視、日本文化蔑視を誘わないよう気をつけたいのと同じです。

第2,3言語は道具。しかし母語はその国の基を形成した精神とも言うべきもの、外国語の習得も母語を捨ててまで、堪能になる必要はないでしょう。日本語学習は、学生にとっては、手段であり、日本をより理解できる人間の育成と考えています。

遼陽市日本人会で思ったこと

9月にここ遼陽でも渡辺文江先生の送別会と情報交換をかねて9人での日本人会が持たれました。企業と学校との内輪の会で長年中心にいられた渡辺先生を中心に話が弾みました。数年前、サァーズが流行したとき公安に外国人が通達申し渡しで集められたそうですが、そのとき遼陽市管轄で150人位。そのうち韓国50人ロシア20人日本20人その他欧米等、だったそうです。公安もこれくらいの外国人の動静は、簡単に把握できているそうで、中国人と結婚した企業人が公安での永住許可の話の中で「唯一日本人では、渡辺先生だ」といわれたとの話や、健康診断で悪いところがあるといわれ、通訳に「それは何だと医者に聞け」と言ったら、聞いた通訳が「ガンです」といったので、ショックを受けたが、あとで「ガンザン(脂肪肝)」と判明。また、上司の病院の診断が終わったか「上司は診断が済んだか?」通訳「はい、シンだ」との返答、学校での日本語教育に自信が持てたエピソード。工場現場では女工同士の喧嘩がたまにある、絶対に仲裁しない、気の済むまでやらせ、物損は3倍の弁償を請求、同様に、工員同士、給料を見せ合うので転職が多い。そのため、月に皆勤賞をつけたら、定着率がよくなった。結婚は三高:高学歴、高収入、車、家が、条件だそうで、履歴書に民族を書く欄がみな、漢族。日本では、民族、所属団体、については、人種、差別問題から、質問できないように、中国進出企業も微妙なので質問できない(中国公安の監視がある)。中国企業は、履歴書に書くし、政治信条も問うのが普通。日本企業は、日本語以外に、大学で力を入れたクラブ活動、社会奉仕活動、趣味などや会社に入ったら何をやりたいかを主に聞くそう。などが話題となりながら、韓国焼肉料理店で日本酒、刺身、おにぎり、茶碗蒸し、生サラダ、焼肉を食べながら、話がすすんだ。

終わりに、

1947年生まれの私は、両親が戦前の奉天に居りました。朝鮮銀行に就職し新設された旧満州興業銀行に勤めた父、その父と18歳で結婚した母、1945年鉄嶺で兄を産み、ソ連軍の進攻、終戦、ソ軍占拠、中国軍引継ぎの中、葫芦島より、1946年に東京神楽坂、飯田橋に引揚げてきました。大学で第2外国語にフランス語か中国語かの選択のとき、父が、もしかしたら、中国に行けることになるかもしれないからと採った中国語が、大学の恩師、烏鐸先生の指導のおかげで、いろいろな友人と関り合いながら、1972年田中角栄首相の訪中、毛沢東、周恩来ら中国要人の理解で国交の正常化、観光にと中国に来られるようになったのは、非常にうれしいことです。父との約束のこの地が日語専家教師として赴任できたことに運命的なことを感じます。来年7月までの契約ですが、精一杯健康に留意して、頑張ろうと思います。

中国語で四苦八苦、でも刺激に満ちた毎日

林 径子(瀋陽薬科大学)

こちらに来てほぼ二ヶ月経ち、ようやく落ち着いた生活が送れるようになりましたが、当初は(今もですが)中国語がさっぱりわからず大変でした。日本を出るまでは、何とかなるだろうと思っていましたが、実際は、何とかなりませんでした。日本語のできる学生さんが助けてくれましたが、いつも頼ってばかりもおれず、辞書と地図と筆談用のメモ用紙を片手にあちこち探索しました。覚えたての中国語で質問すると、みなとても親切に応えてくれるのですが、全く理解できないので申し訳なくなり、そのうち質問するのもやめました。こちらのレストランに入る自信がなくて、ある日ファーストフード店なら大丈夫だろうと入りました。冷麺を注文して、レシートをカウンターに持っていくと、店員が何か言ったきり、出してくれません。どういうことなのかわからず右往左往。詳しく聞こうと思っても、お客さんが次から次へと来るので、私の相手はしてくれません。何とかお金だけは返してもらいましたが、後で考えるに店員は売り切れだと言っていたようです。これに懲りて、日本料理店なら日本語が通じるからと思って出かけたら、ここでも店員は中国人ばかりで、日本語が通じないのです。仕方なく、写真のメニューを見てさば定食を頼みました。日本にいる妹にメールでそのことを話したら、「中国に行って、さば定食?」と笑われました。人の苦労も知らないで・・・この歳になって異国で生活する機会に恵まれたのですから、刺激に満ちた毎日を、老化防止にもなることだし(多分)大いに楽しみたいです。みなさま、どうぞよろしくお願いします。(10月23日記)

「今 実は瀋陽にいます」

林 利彦(瀋陽薬科大学)

問1. いつまでいるの?

答え、うまくいくと、3年以上だし、ダメなら(特にこの冬の寒さが身に沁みたりしたら)来年の春にはもう日本にいるかもね。

問2. 瀋陽で

何しているの?

答え、瀋陽薬科大学に勤めているのだが、正直なところ、何をしにきたのか、大学の方で何か期待している仕事があるのか、本当のところ分かっていなかったのだが、ある日大学から、一番大事なことは研究だ。よい成果を出してほしいと言われた。だから、研究を手掛けることに専念しています。

問3. 中国語はできるの?

答え、全くできない。それは、ピンインを覚えても四声を間違うと全然違う意味になっているのか、通じないということを経験したときにそうだと思った。そういう意味ではやる気がでないということかもしれない。また、理屈っぽくいうと、まずは漢字をピンインで書けるようにならないと中日辞典が使えないから少しずつやるという段階にないという意味かな。

問4.困ったときなかった?

答え、あった。8月20日に瀋陽につき、次の日、カリフールで買い物をしていたとき、突然雨が降り出し、道路が水浸しになり、タクシーもいないし・・・。二回目は宿舎にいて、停電でエレベータが動かず、水道も出なくなったとき。大学内だったら誰か、日本語か英語ができる人はいないかと探して訊く。でも宿舎だと、直接話せる人がいない。英語の分かる人は誰かいないか。日本語を話せる学生さんに訊く? 池島先生に電話。管理人さんに書いて訊く。必死になって、手真似で。そして、落ち着いて、落ち着いて・・・と自分に言い聞かせる。

問5. どこに住んでいるの?どんなところ?大学へはどうやって通っているの?

答え、東北大学のキャンパスの中にある遼寧省博士后公寓というところで、女子学生の寮と隣り合わせのところ。東北大学のキャンパスは広くて公園もあり、とてもきれいなところです。すぐ近くに銀行、郵便局、超市、野菜市場もあります。瀋陽薬科大学へは朝大学の車が迎えにきてくれます。帰りも5時ならば送ってくれます。しかし、セミナーなどで遅くなるとバスもなくなる。空車のタクシーが乗せてくれれば乗りますが、何回かダメだったら、焦る気持ちになります。歩いて帰る(50分くらい)こともあります。でも本格的に寒くなり、道路も滑りやすくなると夜暗いところを歩いて帰るのはどうか、少し心配しています。

問6.瀋陽に滞在して3か月の印象は?

答え、中国の人は衣食住にはあまり不満を持っていない。特に食べ物は量はもちろん質も高くて、安いので相当満足しているように思える。自家用車で通勤する人がこんなに多いとは思わなかった。バスは便利で安いがこんなに渋滞して乗るのも大変であるし、降りるときも停車する前から出口にいないといけない。広い通りを横断するときは、たくさんの人と一緒に歩調を合わせて。一人で先頭を切ろうとすると、自動車やバイクにぶつかりそうになる。それにしても、冬の寒さを乗り切れるかどうか、一番の心配です。

以下は蛇足。来るときに予想外だったことを書いたものです。

就業ビザということも、ましてや居留許可証というのも知らずにいたため、東京の大使館には何回も行きました。いつも長蛇の列でやっと相談窓口に到達しても、そこで、書類が足らないからと 突っ返され、その書類を記入した後に、又、列に並んだ。それが終わったら、また、数日後に来なさい。そのときは、1階である。後日1階で、書類をもらうのに長蛇の列、お金を払って、長蛇の列、これでは、中国にたどり着く前につかれてしまうではないか。いやいやこの程度で驚いていてはダメだ。ここで引き下がるわけにはいかない。

やっと、長期ビザをもらった。しかし、それには中国についたら、1ヶ月以内に地方の公安局に行けと書いてある。今度は中国の人についていけばよいから、大丈夫だろうな。北陵の近くに連れていってもらった。居留許可証をもらう手続きでまた写真をとるのに、列にならんだ。さらに、家族は別に、結婚していて、同居していることを証明するもの(戸籍謄本でよいが、これを外務省で証明してもらって、それから、東京の中国大使館に証明してもらうことが必要だと、試行錯誤の上、やっと分かりました。観光旅行ではビザなしで来られるというのと、本当に異なる。このような目に合うことを避けるには、中国のことに詳しい旅行社に頼めばよかったのかもしれない。

「初めまして瀋陽!」

前川 紘子

(瀋陽市朝鮮族第一中学)

この度、教師会に参加させていただくことになりました、前川紘子です。

簡単に自己紹介いたしますと、JICA青年海外協力隊で2010年11月より、瀋陽市朝鮮族第一中学に配属され、活動しております。

ですので、瀋陽滞在暦1年。遅れながらの教師会参加になりました。任期は来年の10月までですので、あと1年足らずですがよろしくお願いいたします。

ところで、瀋陽はもう「初めまして」ではないですが、この1年はあっという間でした。思えば、昨年も瀋陽に着任後すぐにマイナスになり雪が降り、学校の雪かき中に学生に雪の中に埋められるという歓迎を受けたなぁと、懐かしく感じています。

この1年で感じた日本との違い。特に対人関係に対しては、周りの人に恵まれ、中国の人って温かいんだなぁという感動がたくさんありました。これは今後も自分の宝物として、大切にしていきたいと思います。

きっと皆様も日々嬉しいこと、大変なこと、たくさん感じていらっしゃることと思います。

これから長くて寒い冬がきますが、皆様も風邪にはお気をつけください。では、これから1年弱ですが、よろしくお願いいたします。

(JICA青年海外協力隊員)