「黄色いノート」-目に見えない何かをくれた-
石井 仁(東北育才学校)
初めての海外生活。分からないことへのストレスはとても大きい。言葉、場所、過去のこと、この先の予定など、分からないことが多すぎてとても困った。教師会に入会し、さらに困った。誰しも「自分に仕事がまわってきませんように。」と願うもの。私もそうだった。しかし、分からない環境を自分の力で切り開いていくことも大事。今しかできないのだから。だから、積極的に仕事をすることにした。結果、目に見えないものをたくさん得ることができた。
私は常日頃から、「生徒たちに目に見えないものを与えられたらいいなぁ~。」と思っている。シールとか消しゴムとかお菓子などではなく目に見えない何かを。
日本で勤務していた時には、生徒たちに、何もしてあげられなくて申し訳ないという気持ちが強かった。だって生徒はいつも私に喜びや感動を与えてくれるのに、私は何もあげられないからだ。もうそれをどうしていいのやら、もどかしくてたまらなかった。
東北育才学校に勤務して、また生徒たちからたくさんのものをもらった。一番うれしかったのは、「黄色いノート」だ。卒業する高校3年生が1人1ページにめいっぱいコメントを書いてくれた。1ページにコメントを書くのってとても大変なことなのに・・・。私という人柄、私の授業が彼らにとってどうだったのか、まさに通知票のようなものだった。コメントの中に、「自分が成長できた。」とあった。あ~、私は生徒に何かを与えることができたのかもしれない。小さくガッツポーズ。「黄色いノート」は、目に見えるものである。でもその中に心が込められている。このノートはこの先も私に元気と勇気を与えてくれるだろう。
最後に、1年半の間、教師会の先生方には大変お世話になりました。みなさんとの「縁」はこれからも大切にしていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。
四塔の街 瀋陽 さようなら
松下 宏 (遼寧大学)
今夏 帰国した際、人間ドックに入り健康診断を受けた。その結果、胃にポリープができていた。早く言えば癌だ。信じられなかった。友人の一人が、やはり人間ドックで癌が見つかり、手術をした。「お前もしておけ」と言ったが俺は大丈夫だ、と思っていた。医者は早期発見、早期治療が望ましい、と言う。セカンド・オピニオンを取ったが、全く同じことを言った。医者はぐるになって私を困らせているように感じた。「癌」という事実は変えられない。受け入れるしかない。変えられるものは変える努力をするが、変えられないものは受け入れなければならない、と思った。
兎に角、瀋陽に戻り、大学に事情を説明し後任を見つけ、引継ぎをしなければならない、と考えた。幸い11月8日、西川珠吏さんが赴任してくれた。大学を出たばかりの若さがいい。70歳の私には眩しい。これが潮時と言うものだろう、という気がした。
瀋陽で5年余り過ごした。赴任前に中国は3Kだと聞いていた。汚い、危険、喧騒。それが潜在意識となって、最初はなかなか馴染めなかった。暫らく暮らしているうちに、何となく好きになってきた。何が好きになったのかわからないが、路上市で買い物をし、吹っ掛けられたのが原因のような気がする。その時、不愉快な気分になったが、そのおばさんが好きになった。私と同じぐらいの年齢だろうか、「本音で生きているな」と思った。暫らく高値で買わされていたが、気づかないふりをした。次の日もそのおばさんの物を買った。それからずっとそのおばさんから買った。暫らくするとそのおばさんは孫の写真を見せてくれた。双子のかわいい孫は4歳だという。言葉が通じないが、私に親しみを持ってくれた。いつの間にか、安く買えるようになっていた。ある時、資生堂のリップクリームをあげたら、大きなリンゴをたくさんくれた。何枚も写真を撮ってあげた。涙を出して、喜んでくれた。遼寧大学に移って会えなくなったが、気になる人になった。赤切れした手で、しわくちゃのお金を数える姿が目に浮かぶ。
帰りの飛行機の中で、この5年余りを振り返ってみた。教師会に関しても、忙しい時はあったが、苦しかった想い出が全くない。ただただ浦島太郎のような気分になった。教師会の仲間がいたから、あちこち旅行もできた。美味いものも食った。私は教師会には何も貢献できなかったが、教師会は私にいい想い出を作ってくれた。何よりも、すばらしい人々との出会いの場を作ってくれた。これから日本で「五無い」生活だ。1金がない。2することが無い。3友達が無い。4車がない。5携帯が無い。どうなるか。あるのは失意だけだ。でも、何か新しいことに挑戦したい。
人生の晩年を中国・瀋陽で、忙しくも楽しく暮らせた。しかし、正直、もう少し、瀋陽に居たかった。せめて来年の7月まで遼寧大学に居たかった。学生を始め、同僚の神山先生、大学、教師会に大変迷惑をかけることになったのが残念である。学生達を始め、大学はこんな私に盛大な送別の宴を開いてくれたのも心苦しい。
残りの人生は神に任せよう。しかし、明日もリンゴの木を植え続けたい。 (和歌山にて )
教師会の皆様 又会う日まで
渡邉文江(遼寧大学外国語学院)
私は2001年から2011年までの十年間、瀋陽日本人教師の会に在籍して多くの日本人教師の方々との出会いがあり、様々な活動を楽しみ、有意義な年月であったと感謝しています。 全国から集まった有能で魅力的な老若男女の先生方とふれあい、苦楽をともに出来たことは私の中国での生活を彩り、定年退職後の教師生活を本当に活力あふれたものにしてくれました。私の教師生活は日本の高校35年、中国遼寧大学13年という長いものですが、遼寧大学遼陽での10年間の支えはやはり教師会であったように思います。生真面目な私は、あれもこれもと忙しい不休の日々を送りましたが、これも一ヶ月一度の例会をメリハリに、いや楽しみに頑張れたのだと今は思っています。
この10年間の変化は教師会にもありました。人は石垣と言います。その時に集った教師によって新しい変化を築く、その後にすばらしい歴史が残る。こんな変化と進化や発展があったように思います。絶えず新しい力が入って、積極的な創意工夫と合議によって誠実に活動する。こんな伝統ができ、他都市の教師会にも注目されているとか。教師会は今後も前進を続けるでしょう。
新たな出会いが皆様の瀋陽生活を楽しく充実させ、思い出深いものになることを祈ってご挨拶とします。謝謝。皆様、又会う日まで。再見
貴重な体験をした2年
風間 珠実(撫順市朝鮮族第一中学)
「はじめまして瀋陽」を書いてから、あっという間にこの日が来てしまいました。来たばかりの頃は「2年はあっという間だよ~」といろんな方に言われてもピンと来ませんでした。「そんなこと言ったって、あと2年もある」と心の中では思っていました。決して嫌々来た訳ではありませんが、自分の力ではどうにもできないことによる“プチいらいら”が多発するこの国でやっていけるのか不安の方が大きい時期でした。しかし、過ぎてみれば本当にそうだったなあと思います。きっと過ぎたから言えることなのでしょうね。
人は過ぎ去った時間は早く・短く感じ、これからやってくる時間に対しては、遅く・長く感じるもののような気がします。実際、2年目に入ってからも、次の連休まで何日とか、来月の祝日は何日休めるとかそんなことばっかり考えていましたから。以前のブログを読み返していたら「こうやって毎日寝て起きていれば、いつかは夏休みが来るであろうことだけが生きがい」なんて書いていました。病んでたんだなあ・・・(笑)
時には病んでしまうようなことがいろいろ起きましたが、それは私がここへ書かなくてもみなさんご経験済みでしょうし、これからまだまだ経験できるでしょうからそれは止めておきます。それよりは、良かったことを書き残しておきたいと思います。
まずは、とにかく来てみてよかったということです。残念ながら日本語教師としての仕事は良くできたとは言い難いですが、20代のうちに“海外で暮らす”という経験をできたことは後々の糧になると思います。海外に来てよかったと思うことのほとんどは、若いうちに知っておけてよかったと思うことばかりだからです。たった2年の経験ですが、今後ずっと海外に関わるとは限らなくても、また興味を持った時にチャンレンジしやすし、いつか自分の子どもが海外に興味を持った時に話せる経験があるというのは良いことのような気がします。そして何より「本当は海外に行きたかった」といつまでも後悔することはないと思います。それが一番避けたかったことなので。
仕事以外のことになってしまいますが、長期休暇を利用しての旅行は数年分まとめてしたような気分です。最初は中国語が通じず、切符も買えずただ駅員の態度に傷ついて帰って来たことも。旅先で予約したはずのホテルに名前がないと言われ、しかも予約がないと泊まれないと言われ、夜中の見知らぬ街に放り出されたり。そんな経験をしながら、やっとの思いで目にした景色はどれも素晴らしかったです。特に思い出に残っているのは、内モンゴルの草原です。360度の草原でみどりに移る雲の影が動くのを見た時の感動は忘れられません。
生活や旅行を通して感じたことの一つに「日本」の周りに「世界」があるのではなく、「世界」の中の「日本」があるということがあります。「国」という単位でものを考えたりするのも海外に来ていなければずっと先になっていたかもしれません。そうすることで、すべてが良いわけではないけれど、「日本って私にとっては暮らしやすい場所だったんだなあ」と思うことができました。“海外で暮らす”という経験は、飛び込んでしまえばそれほど恐れるようなことではないと思います。ただ、日々起こるありえないことをおもしろがれるうちはいいのですが、時として嫌気がさしたり、「外国人」であるが故の苦労に疲れることも。私も「ここが日本だったら」「ここが中国じゃなかったら」と何度思ったか分かりません。でもその経験もまた価値があったと思います。日本に帰った時、日本で暮らす外国人に対しての見方や接し方が変わると思うからです。今までも偏見を持っていたつもりはありませんが、周りにいたのは留学生ばかりで日本語が上手なので外国人故の苦労と言うものを意識したことがなかったのです。言葉ができれば苦労は軽減できるけど、苦労がないわけではないということを身にしみて知ったので、前より手助けができるようになればいいなあと思っています。
最後に、教師会の皆さんと出会えたことも嬉しく思っています。みなさんいろいろな経験をお持ちでそのお話を聞くたびに私は「まだまだだなあ」と思っていました。私は、23歳の時に中国へ来たので「若い時からすごいね」と言ってもらえることがありましたが、若くて何も知らないからこそ挑戦できたのだと思います。でもこれからはきっといろいろなことが頭をよぎるようになると思います。そうなっても新しいことに挑戦する気持ちを忘れないでいたいなと思います。
みなさん、2年間お世話になりました。いつか日本で再会できるのを楽しみしております。