当道場は、タイ捨流剣法第13代宗家山北竹任師範から支部第1号として認可されており、伝統文化の保存と継承を第一義とし、営利を目的とせずに活動しています。
<参考>
これまでの経緯としては、第14代に無事継承された時点で、山北師範より「あなたは、もう自由にやってよろしい」と言われ、龍泉館の印とともに免許皆伝を授けられましたので、その後は、師範のお言葉どおりに自由気ままに研究を続けてまいりました。
以前から、先輩や同門の方より「しっかりやって欲しい‥」との声をいただいていましたが、多忙な身の上で、そして、どちらかというと研究者タイプの気質のためか、これまで研究を最優先してまいりました。しかし、近年になり、このことを強く要望されるようになりました。
また、近年、同門の方との交流の中で、私が学んだものは特別なものだったんだと認識を改めた経緯もあり、この素晴らしい武術、そして哲学を次の世代へ“繋ぐ”使命を強く感じるようになりました。
このような経緯から、今までどおり研究は継続してまいりますが、今後は、少しずつ指導にも力を入れていかねばならないと考えるようになり、現在に至ります。
なお、私の武名「藤原定光」は、「タイ捨流の光となるように‥」との意味合いから山北師範より授けられたものです。
しかし、いくら免許皆伝を受けたとは言え、「上泉伊勢守藤原信綱、そして丸目蔵人佐や伝林坊頼慶は、いったいどんな武術をつかっていたのか‥」。この疑問が脳裏を離れず消えませんでした。
このような経緯から、タイ捨流研究の第一人者である故渋谷敦先生から伝書等の講義・捕手術(拳法体術)・棒術・槍術・手裏剣術等の伝承を受け、そして、各地に残るタイ捨流と縁があると思われる武術(棒術ほか)を研究してきました。
さらには、陰流系統の新陰流兵法、新陰流居合、直心影流剣術等を学ぶことで陰流の本質とは何かを追及してきました。
その後、縁があり同門の方から山北竹任師範の弟である小田長可(おだながよし)師範の伝承を学んだことで、様々な疑問が解消され、さらに研究が深まりました。ようやく現在、これらの研究成果を取りまとめて体系化出来たところです。
これらの研究成果を「タイ捨流兵法」としてとりまとめ、平成19年8月に一般公開を行いました。
今後は、タイ捨流剣法第13代宗家山北竹任師範からの伝えられた剣技はそのまま正しく「タイ捨流剣法」として後世に伝えることとし、また、第12代宗家小田夕可師範の伝承(山北師範と異なる伝承あり)などの様々な研究成果についても「タイ捨流兵法」として伝えていきたいと考えています。
なお、この研究成果は、私に何かあった場合のために、既に同門有志に伝えてあることを参考までに記します。
<当会の教伝内容>
【タイ捨流剣法】
タイ捨流剣法第13代宗家である故山北竹任師範より伝授された剣法と居合心術等をそのまま教伝します。
・剣法、居合心術、手裏剣術、伝書講義、その他剣術・居合心術・短刀術・手裏剣
・剣術を応用した体術、補手術・組術討、棒術、槍術、短剣術ほか、そして、変化技、保寿剣、風勢剣、剣道、日本剣道形・大日本帝国剣道形、銃剣道、二刀破りの術、小田応変流、天気予報、算盤、地震予知、占い、伝書講義、御経、おまじない、そしてタイ捨流の哲学ほか
※師範免許及び支部第1号を認可された「平成19年6月1日より、『タイ捨流剣法』の名称を使用」しています。
【タイ捨流兵法】
「上泉伊勢守藤原信綱、そして丸目蔵人佐や伝林坊頼慶は、いったいどんな武術をつかっていたのか‥」。この素朴な疑問から、陰(影)流系統の研究を重ねて参りました。
道場長が研究した第12代宗家故小田夕可先生の伝承。山北竹任師範の弟である小田長可(おだながよし)師範の伝承。故渋谷敦先生の伝承。さらには、各地に伝わっていたタイ捨流の末流と思われる武術を研究・交流し、それらを総合した武術を伝えます。結果的に武器が多岐に渡る内容になったため、この別伝については、「タイ捨流兵法」と称することにしました。なお、山北竹任師範の許可を得て、平成19年8月に当タイ捨流兵法の一般公開を行っています。
・槍術、棒術、薙刀術、捕手術・組討術(拳法体術)、その他の伝書講義、その他
※免許皆伝を受けた「平成19年8月11日より、『タイ捨流兵法』の名称を使用」しています。
今後も伝統文化の保存と継承を第一義として、人間性が高く、かつ後世に正しく伝えていただける方に対してのみ伝承してまいります。
以下の文章は、2013年に山北先生が亡くなられた折に書いたものです。後世の方や研究者の参考のために掲載します。
タイ捨流剣法第13代宗家の山北竹任藤原定宗師範(S5~H25)が亡くなられました。享年82歳。心よりお悔やみを申し上げます。
私が山北先生に初めてお会いしたのは、もう随分前の春のことでした。
腕の立つ師を求めて日本中を旅し、あきらめかけていたところ懇意にしていた剣道家から山北師範の噂を聞くことに‥。
その噂とは、「球磨地方に忍者の子孫がいる。剣の腕は凄いらしい‥」。
「忍者の子孫‥? 今時‥」、
現在では、現代の達人の一人に挙げられていますが、当時は一部の通な方にしか知られていない存在でした。
お会いしてみたい気持ちがつのり、電話番号を調べてかけてみたところ「何回かけてもでてくれない‥」(笑)。
仕方ないので役場に問い合わせてみたところ、「何故か冷たい反応‥」(笑)
このような事情から、お土産を抱えて直接訪ねてみることに‥。
まったく知らない球磨地方で、不思議な直感に導かれたのか? 山奥の庵に一発で到着! そして、庭の掃除をしていた山北師範を発見!
恐る恐る声をかけたところ、近づいてこられて「昨晩、龍が昇る夢を見た。きっと神様が、あなたが来ることを知らせたかったのだろう。よくいらっしゃいました」、‥と言われドキッとした記憶があります。
今思えば、うまく乗せられた気がしますね(笑)
本当のところどうだったのでしょうか?
タイ捨流の野外道場
その後、龍泉館道場に案内されました。
そして、山北先生にお願いして剣の技を拝見することに‥。
‥感動!!
その速さと完成された美しさに度肝を抜かれました‥!!
「こんなに素晴らしい武術が未だ残っていたのか‥」。
「豪快、かつ激しく、そして華麗な剣術」、これが私のタイ捨流剣法の第一印象。また同時に「新陰流と示現流の中間に位置している印象」を受けることに‥。今風に表現すれば「ワイルド新陰流」というところでしょうか(笑)
そんなこんなで、私は山北師範の「古武道の“腕”に惚れて」学ぶことにしました。未だに古武道界では、それ以上の人に出会っていません。
私は、古武道界での「剣の腕」については、現代で日本一だったと勝手に思っています。
さて、当時の龍泉館道場での稽古ですが、稽古生は少なく、ほぼ私一人のマンツーマンの稽古。一番弟子で大先輩の本田宏一先生(合気道祥平塾熊本道場師範)とお会いする程度でした。
稽古は、道場若しくは野外で行われましたが、数時間(半日単位)におよぶ稽古でクタクタになりました。車で睡眠をとってから帰らないと眠くて‥。まだ、山北師範も若かったからか激しかったですね。動きも異常に速かったです。
また、山北先生は現実主義者で、武術に筋肉は必要とのお考えから、よく電車の滑車で鍛練しているのを拝見しました。しかも上半身裸で‥(笑)
さらに古武道の理は、剣道でも使用できないと意味が無いとのお考えから剣道、そして小手だけを着用して、子供用の竹刀で打ち合いなどをよくやりました。剣道の先生でもありましたから強かったですね。 「剣道の場合はこう!」とにこやかに人吉弁で教えていただいたことを思い出します。
山北師範は、たまに神がかったことは言いましたが、長所もあれば、短所も多々抱えたごく普通の人間でした。
いや、逆に悪い癖もたくさんありましたが、剣の腕は自他共に認める天才!
凄かったですよ。
ちなみに昔の道場には、演歌歌手「藤あや子」さんのポスターが貼ってありました(笑) きっと面食いだったのでしょう(笑)
お酒も大好き♪ 何故か球磨焼酎ではなく芋焼酎がお好みでしたので、稽古の度に持っていくと人吉訛りで「好物です♪」の一言。
もう一度、この「好物です」を聞いてみたい気がしますね‥。地下式の茶室にある薪ストーブの横で美味しそうに飲まれていました。
さて話は変わりますが、私には師範から与えられたお役目がありました。
それは、仮にもし山北師範に何かあった場合には、「タイ捨流の技を次の宗家(現第14代宗家)、若しくは血筋の者に正しく伝えてほしい‥」ということ。現在の宗家(第14代)も当時はまだお若かったですので仕方ありませんよね。
その関係から、剣術・居合心術・短刀術・手裏剣以外にも、剣術を応用した体術・補手術・棒術・槍術・短剣術ほか、そして、変化技、保寿剣、風勢剣、剣道、日本剣道形・大日本帝国剣道形、銃剣道、二刀破りの術、小田応変流、天気予報、算盤、地震予知、占い、伝書講義、御経、おまじない、そしてタイ捨流の哲学である三世一貫の生き方等々‥、無理やりつめこまれました。
宗家は、剣術以外の内容、型の変化技等を伝えた者は、「あなたの先輩一人と他には渋谷敦先生だけ‥」ということを言われていました。そもそも当時はほとんど弟子がいませんでしたので仕方ありません。また、遠方から通う者や稽古日数が少ない者には、「詳しく教える暇がないからしょうがない‥。型の順番しか教える時間がない‥」と、こぼされてたのを思い出します。特に晩年はそうだったのでしょう。
そして、山北先生と懇意にされていた渋谷敦先生が研究された成果も学べということで、渋谷先生のご自宅にお伺いして学ぶことになりました。
内容は、丸目蔵人佐が学んだ書道も含む21流について‥。特に補手術(とりでじゅつ)について教えていただいたのが新鮮で一番印象に残っています。
この時期は、山北家に様々なことが立て続けに起こった時期で、とても御家族のことを心配されていましたね。
そして、伝書については、「昔の弟子が巻物を返さない」ことがあったらしく、全ての巻物を写して保管しろとのことでしたので、現在でも写しを大切に保管しています。その中には、大日本帝国剣道型の巻物や山北師範や先々代の小田夕可師範が極意を記した手書きのノートも数冊含まれています。
要は、宗家に何かあった場合の保険にされたのでしょう。
山北師範は、家庭を大事にされる方でした。
話題は武術の話が主でしたが、それ以外は御家族の話ばかりで、特に娘さんやお孫さんのことを常に心配されていましたね。
一時期、御家族に様々な事件が次々と発生したようで意気消沈されていたように思います。とても御家族の行く末を心配されていました。どの家族にもそういう時期はありますので、きっと現在はよくなっていると信じます。
その後、お孫さんに第14代の宗家を継承しようと決められた(実際には、これから随分後に継承)ようで、「今となれば、もうあなたは用無し」(笑)というところだったのか、「勝手にやれ」と龍泉館の印とともに初めての支部開設許可(第1号)をいただきました。
その後、各段階の目録と「藤原定光」の名前、そして武号「龍舞」をいただき、最終的に免許皆伝をお受けすることになりましたが、何故か突然、山北師範が「免許皆伝は、どうしても8月11日に渡したい」とおっしゃるので、その日に受けることに‥。
実は8月11日は私の誕生日。
山北師範は、「なぜ私の誕生日をご存知なのかな? 言った覚えはないのに‥」と考えていたところ、「私(山北師範)が免許皆伝になった日が昭和38年『8月10日』だったので、あなたを『8月11日』に免許皆伝にしたかった」とのことでした。
私:「えっ、8月11日は私の誕生日だからいただけるのではないのですか?」
山北師範:「えっ、誕生日?? 知らんかった(笑)」
‥不思議なこともあるものですね(笑)
8月11日には、山北師範及び娘さんもわざわざ宮崎県西都市までお越しになり、当時の西都市長立ち会いの下で免許皆伝を受けました。
凄く暑かった日でしたが、雲の無い透き通るような青空の日だった記憶があります。
↑「日本の剣術2」(学研)。随分前ですが、山北師範と一緒に私も取材を受けることになり、私の写真も掲載されています。なんとこの本、一時期プレミア!がついていました。昨年、日本の剣術1と2を合体した「決定版 日本の剣術」が発売されましたので、プレミアがつく前にぜひ購入を‥。
またまた不思議な話。
ある稽古の日、山北師範が不思議な顔をされていました。
聞いてみると、昨晩、山北師範の夢の中にタイ捨流の守り神である「カラス天狗」がでてきて、何かを山北先生に伝えられたとのこと。
しかし、朝起きると伝えられた内容は全く覚えていなかったようで「この夢は、いったいどんな意味が‥?」と怪訝な顔をされていました。
さてその日は、居合心術の稽古。
私は、新たに購入した真剣を初めて稽古に使用した日でした。
すると、ふと私の真剣に目をやった師範が一言「分かった、それ、それ!」
私の真剣は、なんと「カラス天狗仕様」だったのです。
なお、この仕様はたまたまです(笑)
山北師範が家族を呼んで、興奮して夢の不思議を語り続けました‥。
そして、山北師範が一息入れ、最後に一言、「小谷さん、もっと本気で稽古しましょうか?」
‥正直なところ、さまざまな事情から、現在、この山北師範の言葉に応えられているかは疑問です。
「少し、うっかりしていたな」という気分です。
もっと稽古をしなければ‥。
そして、より良き人に伝えていかなければいけませんね。
なお、当道場の神棚には、カラス天狗を祀る尾八重神社の札が納められています。
実は、当道場の隣は印鑰神社です。このため、この神社を管轄している近所の宮司さんにお願いしていたのですが、様々な事情から、その宮司さんが急に交代することになり、道場開きの時には新しい宮司さんは間に合わないことになりました‥。
そんなこんなで、やむなく遠方だが、父の知り合いの尾八重神社の宮司さんにお願いすることになりました。
実は尾八重神社に伝わる神楽は修験道色が濃厚で、随所にみられる山伏特有の鎮魂動作「返閇(ヘンベ」を踏んだり、俗にいう「カラス飛び」等がとても象徴的です。
そして、後で知って驚いたのは、なんと祭神がカラス天狗‥。
さらには現在、私の父が神楽保存会の会長を務めています。
‥本当に不思議な縁を感じます。
さて今回は、参考になりそうな思い出を掲載します。
学びたての頃に、「タイ捨流は、タイ捨流『剣術』と言ったり、『剣法』や『兵法』と言ったり、その他様々な呼び方がありますが、正式名称はいったい何でしょうか?」‥と、以前から不思議に思っていたことを山北師範に質問したことがあります。
すると、「タイ捨流は、『剣の理法』を重視し、その理法を槍・棒・手裏剣等の武器術や体術・組討術などに応用する武術である。このため、タイ捨流『剣法』が正しい。しかし、あまりそんなことにこだわる必要はないよ。タイ捨流がつけばなんでもいいと思う」と“こだわり派”の私に対して、“全然こだわらない派”の山北師範から明確な回答をいただいています。
また、第12代宗家小田夕可先生は、昭和37年に熊本県教育委員会より、熊本県指定無形文化財「タイ捨流“剣法”」の保持者として認定されており、また同様に山北竹任師範も平成6年に熊本県球磨郡錦町教育委員会より、錦町指定無形文化財「タイ捨流“剣法”」の保持者に認定されています。
このような理由から、山北師範は、日本古武道協会に「タイ捨流『剣法』」で登録されていたのだと思います。
それ以来、私は山北師範より学んだ伝承について、「タイ捨流『剣法』」を正式名称として使用させていただいています。
特段、こだわる必要はないのでしょうが、現在、「タイ捨流剣法」を使用しているのは私だけのようですので複雑な気もします。
なお、山北師範は免許等の証書を出す際には、基本的に「タイ捨流『剣法』」では出したがらずに、タイ捨流が付く他の名称で出されていました。今考えると、実は少しこだわっていたのかもしれませんね。
ちなみに、第12代宗家故小田夕可先生の伝承。山北竹任師範の弟である小田長可(おだながよし)師範の伝承。故渋谷敦先生の伝承。さらには、各地に伝わっていたタイ捨流の末流と思われる武術についての研究成果は、武器が多岐に渡る内容になったため、この別伝について、「タイ捨流兵法」と呼称することにしました。なお、平成19年8月に当タイ捨流兵法の一般公開を行っています。
なおその時は、支部設立允可第1号をいただいた時で道場名を何にしようかと考えていた時期でした。丸目蔵人佐の法名である雲山春龍居士の春龍が何ともよさげだった(笑)もので、「丸目蔵人佐の法名の雲山春龍居士から春龍をとって春龍館はどうでしょう?」と伺いをたてたところ、「なにっ‥、法名を道場名に‥。その名は、先代の時代に一時期使用したことがあったが実際よくなかった。私は縁起が悪いと思う‥。やめたほうがよい!」と不愉快な顔で一刀両断‥。
その後、「春龍館は縁起が悪い‥、それでは『○○○』はどうか?」などと様々なご提案をいただいたのですが、現段階ではまだ使用していません。
(なお、上記の〇〇〇について、実は「龍泉館若しくは竜泉館はどうか?」と言われていました。「龍(竜)泉」の意味をご存知の方は分かると思いますが、とても素晴らしい名称ですね。しかし、いろんな意味で誤解を招く恐れがありますので、この名称は使用していません。)
また、「九曜の紋」について、羽織に使用してよいかとの相談をしたときには、「もちろん使ってもかまわない。しかし、九曜の紋は、本当のところ『小田家(山北先生は旧姓は小田)が使用してきた家紋』であってタイ捨流の家紋ではない。タイ捨流の家紋は、丸目蔵人佐の家紋が正しい。このため、門人は、自身の家系の家紋を使用するのはもちろんのこと、流儀の家紋として丸目家の家紋を使用することもよいと思う。実際に昔から小田家の人間以外は、丸目家の家紋、若しくはその人個人の家系の家紋を使うというのがしきたりというか常識である。しかし、九曜の紋が気に入っているのであれば自由に使用してもかまわないよ。」と笑いながら回答してくれました。
このため、私の羽織は、家系の家紋が入った物と丸目蔵人佐の家紋が入った物があります。
以上、参考までに思い出を書き記します。
<追記>
タイ捨流の名称について、現在は下記のとおり使用しています。
【タイ捨流剣法】
タイ捨流剣法第13代宗家である故山北竹任師範より伝授された剣法と居合心術等をそのまま教伝します。
・剣法、居合心術、手裏剣術、伝書講義、その他剣術・居合心術・短刀術・手裏剣以外
・剣術を応用した体術、補手術・組術討、棒術、槍術、短剣術ほか、そして、変化技、保寿剣、風勢剣、剣道、
日本剣道形・大日本帝国剣道形、銃剣道、二刀破りの術、小田応変流、天気予報、算盤、地震予知、
占い、伝書講義、御経、おまじない、そしてタイ捨流の哲学ほか
※師範免許及び支部第1号を印可された「平成19年6月1日より、『タイ捨流剣法』の名称を使用」しています。
【タイ捨流兵法】
「上泉伊勢守藤原信綱、そして丸目蔵人佐や伝林坊頼慶は、いったいどんな武術をつかっていたのか‥」。この素朴な疑問から、陰(影)流系統の研究を重ねて参りました。
道場長が研究した第12代宗家故小田夕可先生の伝承。山北竹任師範の弟である小田長可(おだながよし)師範の伝承。故渋谷敦先生の伝承。さらには、各地に伝わっていたタイ捨流の末流と思われる武術を研究・交流し、それらを総合した武術を伝えます。結果的に武器が多岐に渡る内容になったため、この別伝については、「タイ捨流兵法」と称することにしました。なお、山北竹任師範の許可を得て、平成19年8月に当タイ捨流兵法の一般公開を行っています。
・槍術、棒術、薙刀術、捕手術・組討術(拳法体術)、その他の伝書講義、その他
※免許皆伝を受けた「平成19年8月11日より、『タイ捨流兵法』の名称を使用」しています。
古武道界とは、どうも業の深い世界のようです。
山北師範の周囲には、先生を利用しようと企む魑魅魍魎がよく現れました(笑)
師範は、全てにおいて「全くこだわらないタイプ」でしたので、どんなに「顔に怪しいと書いてある方」でもこだわらずに相手をされていましたが、私は、ずっと「危険だなー」と感じていたものです。
例えば、写真を一緒に撮ってほしいといってきた外国人がいつの間にか「黒帯(ブラックベルト」」を自称していたり‥、
古武道の世界に黒帯はないというのに‥(笑)
そして、遠方から「数回」学びに来られた方がいつの間にか「免許」を自称し始めていたり‥、パッと見は信頼できそうな方に思えたのですけど…、人間不振になりそうです…。
さらには、○○県(熊本ではない)のある方が、「私が本当のタイ捨流の宗家」といきなり名乗り出てきたり‥等々。
何でそんなに宗家や免許を名乗りたいのでしょうか?
実力もないのに権威だけが欲しいのでしょうか? 未だにピンときません。
そのほかには、一時期親しくしていた気味の悪い粘着質の若者から、ネットでいろいろな「根も葉も無いこと」を書きまくられたり‥。
そして、ついには詐欺師までもが登場!(笑) ‥なんとも業の深い世界です‥。
笑い話のようですが、悲しいことに全て事実です。
一種の病気ですね。
ただ、このことについて、山北師範側に全く原因がないわけでもなく‥。少々やっかいな問題でした。
最後に、タイ捨流について興味のある方には、どんな方でも嫌な顔一つせずに対応される山北師範‥。
よく言えば「とても懐が深い方」とも言えるのですが、山北師範のご家族が様々な面で苦労されていたのを目にしていたものですから‥、「弟子は、ある程度選ぶべきではありませんか?」と余計なことを申し上げたこともありましたね。
様々な事情が交錯しての対応だとは分かっていましたので、あまり強くは言えませんでしたが‥。
タイ捨流について興味のある方には、どんな方でも嫌な顔一つせずに対応される山北師範‥。
しかし、決して人を見る目が無かったわけではありません。
その証拠に居合心術や大太刀などの型は、人を見て技を区別して教えていました。
具体的には、技の見た目はほとんど同じなのですが、正しい技のポイントを劣化した内容に変更して教えられていました。まったく違うわけではありませんので、言い換えれば初心者用の型というべきなのかもしれません。
前々から気づいていたものですから、ある時「人によって教え方を変えられるのですね」と伺ったところ、「ニヤッ」とされて、「本物・偽者‥、云々」とおっしゃっていました。
それからは、私が代稽古で教える場合には山北師範のように技を区別して教えなければならなくなり、少し面倒になりましたが‥(笑)
山北師範は、私が見るところ「人間性」で区別していたようです。
晩年は別として、山北師範を利用しようとする人とは、その事を分かった上でおつきあいされたのでしょう。
特に居合心術の1本目の違いが象徴的でした。抜刀と納刀の仕方にポイントがあります。
演武を見ると「一目瞭然」です。
<追記>
正確に記載すると、危険人物や人間性が低いと判断した場合に技を劣化した内容に変更して伝えるやり方以外に、居合心術・大太刀などの型にそれぞれ数種類の変化技があります。私以外には、先輩一人と研究者の故渋谷敦先生が学ばれたと伺っています。今後も伝統文化の保存と継承を第一義として活動してまいります。
与えられた課題について‥。
随分前に山北師範から課題を与えられています。
いつのことだったか、山北師範と武術の話をしてた時に私が合気道の優位性を語ったのが気に障ったのか?
山北師範が突然私の話をさえぎり、不愉快な顔つきで「タイ捨流には、凄い柔術が伝わっていた。先代の夕可師範が、そのまた先代の佐無田忠三師範から学んだ“空手と柔道の合体技”のような柔術があるのだ」と話されながら、「こんな感じだった‥」と記憶をたどられながら柔術というより拳法に近い技の指導を受けることになりました。
きっと「うちの武術は合気道より凄いんじゃ!!」と言いたかったのでしょうね。年長者に対して失礼かもしれませんが、その時、なんとなく一生懸命で可愛くも感じました(笑)。
そして、指導後に「後はあなたが研究しなさい‥」と一言告げられました。
さて、タイ捨流の柔術技は、一部が剣法とともに奥伝の技として残っていますが、残念なことに断片的にしか残っていません。
その後、タイ捨流の研究者であられた渋谷敦先生に確認すると当時の伝書では、「捕手術(とりでじゅつ)」と表現していたようです。一般的には、組討術と言った方が分かりやすいかもしれません。
この捕手術とは一般的には柔術や組討術のことなのでしょうが、タイ捨流捕手術は、私が見るところ「拳法」に近い印象でした。
当身を多用する柔術というほうが的確かもしれませんが‥。
また、目を執拗に攻撃する手法から、私には中国拳法の白鶴拳のような印象を持ちました‥、実際、大太刀の技の一部に白鶴拳のような立ち姿をする場面もありますね。
ひょっとして、丸目蔵人佐の一番弟子である伝林坊頼去(福建省出身)の中国拳法が伝わったものなのでしょうか?
その後は、先代や先々代の技を思い出すたびに一手、また、一手と少しずつ教えていただきましたが、山北師範は、柔術系統について基本的に興味はないようで「柔術は、あなたが研究しなさい」という一貫したスタンスでした。
きっと、伝えるだけは伝えとけばいいという考えだったのでしょう。
さて、日本の古武道界には、様々な数多くの流派が現存しています。
それぞれの流派には、それぞれに存在意義があり、その評価というものは、好みとしかいいようがないように思われます。
ワイルドな新陰流‥、タイ捨流剣法は私好みでした。
また、山北師範の動きはビビッと電気が走るぐらいの感動を覚えたものです。
さて、私は、タイ捨流を学ぶまでに新陰流や直心影流を修めていました。このため、好みである同じ陰流系統のタイ捨流を理解する目も育成されていて、未だに自分自身が何者かに導かれていたような不思議な印象を受けています。
不思議だらけの縁で結ばれたタイ捨流剣法‥。
第13代宗家の山北竹任師範の門(数年前にお孫さんが第14代を継承)で学ぶことができたことは、今思えばたいへん幸せなことだったと思います。
いつかこの武術の研究がまとまり、時間的余裕がとれるようになりましたら、人間性が高く、熱意のある方に伝承して参りたいと考えています。
タイ捨流剣法第13代宗家山北竹任師範。
心より感謝申し上げます。ありがとうございました。