第4回目の道場長インタビューです。
今回は、合気道や武道への思いや考え方について伺いました。(広報部)
問:合気道に限らず武道を学ぶ目的とは何なのでしょうか‥
まず武道の目的とは、全日本剣道連盟の理念「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」に代表されるように、「武道とは、人間性の向上を図るための一つの道」だと考えています。まずは、これが基本だと思います。
問:道場長の考える武道の目的について教えてください‥
私は二十歳過ぎの頃、自ら招いた様々な失敗から心身共に不調をきたしたことがあります。その当時は、人生に悩みに悩み、何のために生まれてきたのか、この世の目的とは何なのか、善悪の基準とは等々、一つひとつ自ら解決しないと前に進めない状況に至り、古今東西の書物に回答を求めた時代がありました。
そして、この時に得た“何のために生まれてきたのか”に対する回答は、「この世に生まれた目的は『与えられた天命を果たすこと』」でした。この時、極論的には、これしか定義できないことに気がつきました。その後、高名な宗教家も同じことを考えていたことを知り、気をよくし、心が晴ればれした記憶があります。
問:具体的に教えてください‥
はい。この世に生まれてきた目的が与えられた天命を果たすことにあるのだとすれば、道とは、その天命を果たすための有益なものでないとあまり意味がないのではないか‥、 これが私の武道観の出発点です。それでは天命を果たすためには何が必要か‥。
第一に、人徳、優れた人間性、
第二に、己に打ち勝つ精神力(克己・吾勝)、
第三に、強健な身体、
第四に、敵に打ち勝つために臨機応変できる機敏さ、または目的を達するための技術、つまり兵法の練磨、
‥以上の事が必要だと考えています。なお上記の4は、1が完成していれば、必ずしも必要ではないのかもしれません。このため、基本的には1から3を求めて稽古すべきだと思います。
問:当会の理念に似ている気がします‥
武道が、天命を全うするための修行として存在するのであれば、武道修練の目的は、第一に人間性の向上、第二に精神の練磨、第三に身体の鍛錬、そして最終的に技術の修練にあるべきだと思います。
このため、当会の理念は、これを分かりやすく集約して、「人間性の向上と健康的な心身の獲得」と謳うことにしました。また、当会の名称である元徳会の「元徳」とは、たくさんの徳(よい性質)の中で最も根本となる徳のことで、武道を学ぶ最高の目標を掲げたつもりです。これが現段階で考える私の武道の目的です。
問:合気道に試合がないことについて、どのようにお考えですか‥
これには様々な事情と哲学が関係しています。しかし、いわゆる競技武道に限らず、スポーツ全般、全てそうですが、それぞれによい所があると思います。若いうちはライバルに打ち勝とうと奮闘し、競い合って自らを向上させる術(すべ)にする。これはいいことです。また、単純に空手の組手や柔道の乱取りも楽しいものです。理解できます。
しかし、合気道はその道をとらなかった。体育ではあるがスポーツではない、という立場をとっています。これも、一歩進んだたいへん素晴らしい考え方だと思います。日本的な武道観の結晶といえばよいのか‥。
問:‥といいますと‥
例えばサッカー、国によっては試合の度に大荒れに荒れますね。いわゆるフーリガン問題が生じます。競技形態をとるとどうしてもナショナリズムに走りがちなんですね。いわゆる民族主義に陥りやすい。しかし、合気道なら、国境、民族、宗教など、全て乗り越えられます。合気道をやっていると、単にそんなのは関係ない、どうでもよい、と言える。しかし、スポーツや競技武道ではそうはいかない‥。民族同士が仲良くしていくには合気道が一番いいと思いますよ。
問:日本的な武道観の結晶とは‥
日本人は本来「和をもって貴しと為す民族」です。その精神の表れが和の武道と言われる合気道だと思っています。
20世紀の世界は、民族主義による資源獲得問題、そして宗教的対立の時代だったと思います。この反省に立ち、日本人として世界と仲良くし、和をもって貴しとしていくことが重要だと考えます。決してへりくだって仲良くするのではない、逆に尊敬される必要があると思う。認められなければ仲良くはできないものです。
問:確かにそうですね‥
私も道場を開設している関係上、外国の方とお話しする機会が多いのですが、皆さんが日本人に求めているのは尚武の国である日本のサムライです。スポーツマンを求めているのではない。この場合のサムライとは、「侍」ではなく『士』。分かりやすく言えば「君子」というところ。決して猪武者ではありません。私は、そのように感じています。
問:はい‥
これからの世界は一部を除いて安定期(停滞期?)に入り、それぞれの民族が一部を除きガツガツしない時代に入る。そうすると文化が高度化してきますので、自然に有徳社会の確立が求められてくると思います。有徳社会、いわゆる博愛主義の時代には、和の武道である合気道がよく似合う‥、以上が日本的武道観の結晶だと表現した理由です。
問:なるほど‥
それから、時と場合、そして指導者の資質にもよりますが、競技を行った場合、本来は人間形成が目的であったはずの武道が真逆になりやすいということが大きいですね。ある武道の試合会場では、保護者の方が「やれー、倒せ―、ぶっ殺せ―」と叫んでいる(笑) これは武道ではない。「道」ではないということ。私自身、こういった世界での経験もありますので批判している訳ではありません。それはそれでたいへんシビアで厳しい世界であり、競い合う中で成長し、その経験の中で得ることも多いと思います。ただ、本来の武道とは目的が異なるので混同すべきではないということです。
問:よく分かります‥
また、本来の日本の伝統武道の世界には、勝者がガッツポーズをすることを許容する文化はありません。「敗者に対する思いやり」、このような人としての在り方を学べない武道は日本武道ではない、というのが私達の立場です。
問:そうですね‥
さらには、勝つために無理をするので、姿勢や形が崩れやすくなり、技が乱れてきます。そして、正々堂々と戦うのではなく、規則のグレーゾーンを狙う技などが行われやすい。つまり本来は、心も身体も真っ直ぐに正しい姿勢を目指すものが日本武道なのですが、競技を行った瞬間から、これが通用しなくなる。つまり、ルール内であればどんな技や手段を使ってでも勝てばよくなってしまう。これを正せるきちんとした指導者がいないと危険だと思います。
問:つまり「兵は詭道なり」になりがちだと‥
戦いとは騙しあい、いかに有利に戦えるかを考え相手を騙すことが必要な場合もある。競技をやれば、やっている本人もやはり「兵は詭道なり」が正しい‥となってくる。このようなことから、指導者によっては、人の隙をついたり、敵の嫌がる部分を攻めて勝つことを教えるため、分かりやすく言えば性格が真っ直ぐに育たない「場合がある」ということ。これが大きいですね。ただ、これは指導者により正していくことは可能だと思います。
なお、「運命とは性格である」と言う言葉のとおり、性格を良くしていくことで、その後の人生を良くしていくことも武道の一つの役目とすれば、少し違うのではないか、という考えを持っています。これは大事なことです。
問:そうですね‥
私は、競技が悪いとは思っていません。要はやり方しだい、指導者しだいなのだと思います。ただ、一般的にそのような方向に流れやすいので注意が必要ですよ、ということです。
問:そう思います‥
先ほども述べましたが、武道の目的とは、「武の理法の修錬による人間形成の道」です。メダルやトロフィーを貰うことではない。結局のところ、いったん道に入れば、心を清浄に保つために、心のゴミや塵を払うことが必要になってくるのですが、競技を行う場合は、上記の理由からこれに逆行しやすくなる、ということです。そして、最も重要な時期の子供達の心に悪い癖をつけがちになる、ということ。武道を学ぶ場合は、まず初めに正々堂々と正しい理合、「道理」で勝つ手法を学び、これが本筋として認識させ、「兵は詭道なり」は、あくまで手段と教えることが正しいと考えています。
問:分かる気がします‥
合気道は試合を行わないことで、「正々堂々と正しい理合で勝つことを学ぶ武道」と言えます。「正しい道理で勝つ」、あくまでこれが本道です。これを合気道では、「正勝(まさかつ)」といいます。そして、「兵は詭道なり」という兵法は高段者になってから学べばよい。決して「兵は詭道なり」が悪いわけではない。社会生活上のテクニックとして知っておいても損はない、という形で学ぶことがよいと思います。
問:そうだと思います‥
結局武道の最終的な目的は「見性悟道」、つまり悟ることにあります。そして、その悟ったことをもって、この社会の善化に尽力することです。さらには、悩んでいる方々に対し、「そっちじゃないよ。こっちだよ」と導くことができる人を多くつくること。これも目標ですね。
こういったことから、本来の武道には競技はなじまない‥、という回答にならざるを得ないということになる。そこで合気道は試合を行わないという立場をとっているのだと思っています。
問:理想的ではありますが‥
しかし、試合を行わないことで全てがよくなるとも言えない‥(笑) 「競技を行わない武道は弱くなる」、「現実離れする」、「口だけ武道」などの批判があることは知っています。残念ながら、これらの批判はごもっとも(笑)な場合もあります。このようなことから、指導者として、試合を行わない武道というものは、そのような可能性があることをしっかりと認識して指導していくべきでしょう。結局のところ、武道の本質は、あくまで心と身体の鍛錬にある、その本質を損なわないように(公財)合気会としてはその立場はとらない、ということです。私もそれが正しいと考えています。
問:「武は愛なり」や「愛の武道」についての見解を‥
様々な考え方がありますが、私の見解は、一撃必殺ではなく「神武不殺」を目指す武道だということ。戦いには、「殺す」、「傷つける」、「捕獲する」、「争わない」、そして「戦わずして勝つ」があると思いますが、合気道家の最高の目標は、「至誠の人物となり、戦わずして勝つ」ということ。表現方法は異なりますが、山岡鉄舟翁の無刀流と同じだと思います。こういう理由から合気道には敵を殺す技はないのではないでしょうか。武は愛なり、若しくは愛の武道は神武不殺の別表現だと考えています。これからの社会によく似合う武道だと思いますよ。
問:これからの社会は‥
18世紀後半に起きたフランス革命、これが現在の社会に大きな影響を及ぼしていると考えますが、その旗印が「自由・平等・博愛」でした。この旗印を元にそれぞれの地域の状況によって、自由を求める人々、平等を求める人々に分かれていきました。結果、20世紀は、自由な社会を求める陣営と平等な社会を求める陣営の戦いに終始することになったと考えています。
その結果として、自由を求める陣営は、様々な面で格差が広がり不平等になった。公平さを求める陣営は、極めて不自由な社会になり、しかも真逆の特権階級ができてしまった。結局のところ、自由な社会を目指すと不平等になり、平等な社会を目指すと不自由になる、これが20世紀の歴史が教えてくれる真実だと思います。
問:先ほどの「これからの社会によく似合う武道」という意味は‥
先ほどのフランス革命の旗印「自由・平等・博愛」のうち、自由と平等については20世紀時代にやりつくしました。次はこの20世紀の反省に立ち、旗印の一番最後の「博愛」を目指すべき時代になったのではないかと思います。博愛を一言で表現すると「思いやり」ですね。また、博愛主義とは、「人種・国家・階級・宗教などの違いを越えて、人類は広く愛し合うべきであるとする主義」です。国境がなくなり、ボーダーレス化する社会においては、世界共通のキーワードに成り得ると思います。また、日々のニュースから、自由・平等のどちらを目指した陣営も思いやりの精神が無くなっているように感じます。残念ですね。しかし、世界中が合気道の精神をもてば戦争はしなくて済む。和の武道、愛の武道を謳う合気道の役割は大きいと考えます。
なお、このような私の考え方は、合気会本部道場の故奥村繁信師範の影響が大きいと思います。随分前にお会いした折に様々な話を聞かせていただきましたが、とても勉強になりました。博識で人間性も素晴らしい尊敬できる方でした。
問: 今後の合気道の役割は‥
現在のインターネットの普及、航空機等の速度の進化をみると国境間のボーダーレス化は今後もさらに進んでいくと思います。国境の壁は今より少なくなる可能性がある。以前、ヨーロッパにいった時に身に染みて感じました。話は変わりますが、合気道人口は既に海外に追い越されており、1位はフランス、2位はアメリカ、そして3位が日本だとか。
合気道は、国境、民族、宗教などに関係なく仲良くできる武道ですので、これからも普及が進んでいくと思われます。このような現状から、それぞれの民族同士が協和していく社会づくり‥、そこで合気道が果たす役割はとても重要になってくるのではないでしょうか。
私個人としても、微力ではありますが、これからも一人でも多くの人に合気道を伝えるために貢献できればありがたいですね。
(広報部)ありがとうございました。
道場長インタビュー5(タイ捨流)につづく