道場長インタビュー5(タイ捨流)

問:先生は、タイ捨流剣法を学ばれたそうですね。

 はい。第13代宗家山北竹任師範より学びました。その経緯は下記に記していますので、興味のある方はご覧ください。

<秘剣タイ捨流剣法秘録>

https://sites.google.com/site/gentokukai/tai-she-liu-jian-fa/tai-she-liu-mi-lu


問:タイ捨流とはどのような武術ですか。

 新陰流兵法の柳生厳長先生が書かれた「正伝新陰流」という本に、「陰流系の末流は多いが、タイ捨流だけは新陰流の正伝である」と書かれているとおり、新陰流の極意を丸目蔵人佐風に改良した武術だと思います。伝書には、「新陰流の極意に真剣の勝ち口を工夫‥云々」とされています。

 見た目は、「激しく美しい、豪快でダイナミックな剣術」というところでしょうか。私は、激しさでは新陰流と示現流及び薬丸自顕流のちょうど中間に位置している印象を持っています。言わば「ワイルド新陰流」、そんな感じですね。具体的には、「心法を使用して超高速歩法で近づき崩し、発した剣で斬る剣法」だと思います。

 また、『祈りの剣』『愛の剣法』という不思議な側面もある世界に稀な魅力的な剣法だと思っています。具体的には、剣法を学びながら、それぞれの過程で精神的境地を高める型があり、段階的に悟りの境地を目指すという優れたカリキュラムを備えた宗教的な武術です。一言で言うと悟りを得るための武術です。

 その証拠として、宗教的極意、特に仏教系統(浄土・禅系)の極意である「捨(捨ててこそ)」を名称に冠した非常に高度な思想を持った流儀だと思っています。

 なお、歴史的な経緯については、下記に記しましたので、興味のある方はご覧ください。

<タイ捨流剣法、タイ捨流兵法とは>

https://sites.google.com/site/gentokukai/tai-she-liu-jian-fa/shi-zu-wan-mu-zang-ren-zuo-teng-yuan-zhang-hui

◇道場長演武:「秘剣・タイ捨流剣法」Ninja Martial Arts Taisha-ryu kenpo

問:それでは特徴についてお願いします。

 特にスピードを重視した武術であり、また、「心と身体のパフォーマンス力の最大限の発揮」を目指すことが特徴だと思います。

 結果的に潜在能力が開発されることになり、自身の最大限の能力の発揮が可能になりますので、実際に社会人としての仕事の能力も向上することが学ぶ利点だと思います。この点については、後ほど詳しくお話しします。


問:タイ捨流は忍者の武術と言われますが、その点についてお聞かせください。

 タイ捨流は、相良藩の現在で言うところの特殊部隊、諜報員、工作員等々が島津藩の藩境などを修験道の恰好‥、いわゆる山伏に扮して活動していました。その方々をひとくくりにして、一言で表現すれば忍者と言えることから、忍者が使用した武術だと言われているのだと思います。ただ、忍者だけでなく、タイ捨流は九州中に広まっていたため、九州一円の侍、そして本物の山伏も使用していた武術です。


問:はい‥。

 第12代宗家である小田夕可師範の弟子の宮崎十念氏が、「丸目蔵人佐徹斎藤原長恵傳」という書物を記してから忍者伝説が広がったようですね。この書物には、相良忍軍の頭梁である伝林坊頼慶(でんりんぼう らいきょと口伝)が、彦山八天狗弁慶夢想と名乗り、吉田村(現・嬉野市吉田)の武次与三兵衛に捕縛術・馬術・鎌術・弓術などと一緒に忍術を相伝したと記されています。


問:忍法で煙を出してドロンなんてのも伝承されているのですか。

 いやいや、そんなことは‥(苦笑)。

 よくそのことを聞かれますが、忍法みたいなものは特に伝わっておりません。伝わっているのは、武術、鍛錬法、武術哲学などですね。タイ捨流の場合は、相良藩の現代で言うところの特殊部隊や諜報員が使用していた武術が現在にまで伝承されている。そういうことです。そこがタイ捨流の魅力の一つでしょうね。

【参考】タイ捨流剣法

 タイ捨流剣法第13代宗家である故山北竹任師範より伝授された剣法と居合心術等

・剣法、居合心術、手裏剣術、伝書講義、その他剣術・居合心術・短刀術・手裏剣以外

・剣術を応用した体術、補手術・組術討、棒術、槍術、短剣術ほか、そして、変化技、保寿剣、風勢剣、剣道、日本剣道形・大日本帝国剣道形、銃剣道、二刀破りの術、小田応変流、天気予報、算盤、地震予知、占い、伝書講義、御経、おまじない、そしてタイ捨流の哲学ほか


問:たくさん型がありますが、その中でも重要な型はあるのでしょうか?

 それは、大太刀の「表」と終結の型の刀刀截(どうとうさい)ですね。最初と最後の型です。

 「表」については機会があれば具体的に説明しますが、言葉(文章)で表現するのはなかなか骨が折れますので、今後、動画等で公表したいと考えています。なお特に隠しているわけではありませんよ。タイ捨流を見たことがない方に説明するのは、私の文章力では絶望的な気がしているだけです(笑)

 この型は、重要である普遍的な勝ち口をきちんと学ばせるため「表」とする、ということだったのだと思いますが、重要な哲理が含まれた型です。ただ口伝がないと理合を解くのは難しいと思います。なお、示現流の燕飛もタイ捨流を仮想的として重要な勝ち口を含めた型としました。その考え方は、私はタイ捨流からきているのではないかと思っています。


問:なるほど。

 型は、大太刀、小太刀、居合、組太刀等がありますが、面白いのが型に入る前に学ぶ型、コンビネーションと言ってよいのかもしれませんが、そのような短い型が、第一段から第九弾まであります。Youtube等の動画サイトで、山北師範がぱぱぱっと小手、面、胴等へ攻撃してパッと飛び下がるものがアップされていますが、実はあのような短い型がたくさんあります。なお、学研の「日本の剣術」という本でその一部を公開しています。


問:そうなのですか。どのくらいあるのですか。

 本数は、「第一段8本、二→10本、三→6本、四→5本、五→5本、六→4本、七→2本、八→5本、第九段→17本」で合計62本あります。これで身体を練りに練り、タイ捨流の身体を創り上げるのです。考え方は新陰流の試合勢法というところですが、方法論は異なりますね。


問:初めて聞きました。覚えきれるのですか‥。

 実は、まだあります(笑)

 次の十段は大太刀型を分解した短い型21本、十一段は小太刀型を分解した短い型4本です。私が学んでいた頃は、これらが終了してからタイ捨流の型を学ぶことになっていましたが、現在は型だけを学ぶようになっていると聞いています。幕末、若しくは明治頃から剣道のような合理的な稽古が熊本にも普及してきたようですので、ひょっとすると、その影響なのかもしれません。研究の途中ですので何とも言えませんが、現在のところはその可能性が高いのではないかと考えています。

 そのほか、山北師範が伝書を見て復元したというか、創った型があります。相手役をしていたので自然に覚えてしまったものです。これは歴史的に伝わったものではないので混ぜずに別伝(山北伝)として教えています。


問:そうですか。

 実は、山北師範の先代の夕可師範が記された「武士道の金言」という項目に「剣士にして家伝我流ある者と雖も帝国一般的新制流儀の発せられたる場合は必ず獲得し置くべきもの也」(原文:ひらがな部分はカタカナ)との文があり、大日本帝国剣道型の詳しい解説があります。私もタイ捨流風(笑)になった帝国剣道型も学びましたが、明治から昭和にかけては、タイ捨流と帝国剣道型の二本立てで教えていたようですね。このため、そのように考えました。


問:いろいろと研究されたのですね。

 はい、自分は疑問点を明らかにしないと枕を高くして眠れない性格(笑)であり、しつこくいろいろ聞いていくうちに「昔はこうだった。ああだった。この型の変化はこう。この型でこう斬ってきたらこう変化する‥。こんな鍛錬していた」等々を学ぶことが出来ました。多少面倒くさがられた面もありましたが、今思えば細かく聞いておいてよかったです。


問:思い出に残っていることはありますか。

 徹底的に『構えと歩み足と素振り重視』でしたので、この3点を直された記憶が多いですね。構えは姿勢重視、歩法と素振りはその姿勢の発露という考え方です。

 素振りは、正しい姿勢から発する力を剣に乗せる素振り、基本的には、これらがある程度できてから型に入るやり方でした。ただ面倒で時間がかかるので、弟子が飽きないように多少型も教えてはいたようです。

 今思うと、この素振りが素晴らしかった。力の根源を理解した人にしか創れない、強い力を発するための「発剣法(剣を発する方法)」ともいうべき素振りです。中国風に言うと剣を使った発勁法というところでしょうか。いったんこの発剣法を身に着ければ素手でも同様に行えますので他の武術にも応用可能で、武術以外で何をやっても高い威力を発揮できる身体操作法が身につくように思います。タイ捨流の核は、この素振り法だと思っています。

 そして、この素振りを組んで行うのが型ですね。素振りも出来ていないのにやったら型崩れ‥、そういうことです。


問:鍛錬法とかはあるのですか。

 はい、聞いておいてよかったことの一つに鍛錬法があります。その中でも一番は、何をどうやって鍛えればいいのか試行錯誤していた時に、山北師範に「どう鍛えればいいんでしょうかね‥?」と聞いたところ、「昔の人は、伝統的に〇〇〇〇〇鍛錬してた‥」と教えていただいたことだと思います。原始的な鍛錬法なのですが、確かに凄く効果があります。

 また、山北師範の準備運動というか、ことある毎にやっていた動作があります。癖になっていたようです。腕を左右にぐるぐる回すような感じなのですが、私も真似ているうちにいつの間にか癖になっていました。筋肉をしなやかに柔軟にする効果と剣を発するための回路を整える効果があります。多分、伝統的なものではなく、よい効果があるので自然に身体が求めて癖になってやっていただけのように思いますが、特に背中の筋肉の柔軟性が増し、お腹をぷるんと振るわせるだけで剣が飛んでいく発剣法を覚えるのにとてもよい運動だと考えています。


問:新陰流とタイ捨流の共通性について伺いたいのですが。

 そうですね。共通性として特徴的なのは、先ほどお話ししました終結の型「刀刀截」です。これは、新陰流の十文字勝ちをタイ捨流的に表現したものと考えられますが、タイ捨流の稽古の最後には必ず行わなければならないしきたりなっています。

 この刀刀截は、いわゆる新陰流燕飛六箇之太刀の猿廻、三学円之太刀の一刀両段、転勝ちの勝ち口に似ています。タイ捨流の代表的な構えである右甲段の構え(右最上段袈裟構え)からの袈裟切りの一本だけで、どんな流派にもほぼ対応可能です。個人的に薬丸自顕流にとても似ていると考えています。

 また、タイ捨流の風勢剣の伝書の中に腰に風車がついている絵があるのですが、私はこれを「新陰流の吊り腰」の別表現だとみていますがいかがなものでしょうか。この点を先輩と研究したところ、吊り腰は柳生石舟斎の工夫とされていますので実際は違うかもしれません。しかし、そうですね、やはり吊り腰の表現で風帆の位で攻め込む! ということだったのではないでしょうか。結局のところ、風勢剣とは、もともとは新陰流における風帆の位の足運びを基にしたスピード重視の剣だったのだと思われます。そうであれば、新陰流との共通点の一つだと思います。


問:タイ捨流の歩法について教えてください。

 タイ捨流の歩法は「スリスリ系の歩み足」(「薄き氷の上も走る、これを悟るように‥」との口伝あり)で、新陰流のような能のような足さばきではありません。私は「母指球で着地するすり足」と教えています。また、最近、宮崎の修験道の研究をしているのですが、その山伏特有の動作であるカラス飛びなどの動きにとても似ています。

 夕可師範の文書の中に記されたタイ捨流の「陣の変換」という項目には、「‥飛込一歩前、飛退き一歩後ろ、飛切一歩右、飛切一歩左」の記述もありますので、飛び跳ねる動きはタイ捨流の術理としてきちんと存在していたようです。

 なお、山北師範は、静々とゆっくりな古武道風の歩き方を嫌っていました。きっと「タイ捨流はそうじゃない。もっと激しくダイナミックなものだ」と言いたかったのだと思います。


問:独自性について教えてください。

 独自性は、タイ捨流は島津藩に接している土地柄だからでしょうか? 即戦力を求められていたようです。タイ捨流で特に重視しているのは、「速度と威力」ですが、そのうち、特に速度についての比重が大きい。タイ捨流の特徴でもある右甲段の構え(右最上段袈裟構え)は、最速、最大限の威力を求めた結果です。剣の位置、角度、力の抜き具合、剣の放物線等々について、速度と最大限の威力を目指しひたすら工夫します。いわゆる速成法というところ‥。方法論は異なりますが、新陰流で言えば試合勢法に該当すると思われます。

 結局のところ、戦いに勝利する鍵は「速度とパワー」です。この速度とパワーというものは、後天的工夫による兵法で学ぶことは可能なのですが、なにせ時間がかかってしまう。即戦力を求められた関係から、「真剣の勝ち味を工夫」したものと考えられますが、それは、風勢剣に代表される鍛錬で工夫します。これは氷の上をすべるような歩法で、全身一丸となって動き回り、「最速、最大限の威力」を求めて、攻めて攻めて、斬って斬って斬りまくる稽古です。


問:はい。

 武術は主導権の奪い合いです。だから現実の社会生活にも有効なのですが、この風勢剣も敵に主導権は一切渡しません。攻め、攻め、そして攻めで敵を受けに回らせて勝利する勝ち口です。

 これがある程度できれば、通常の戦いで後れを取ることはありません。このままで十分に強い、どの戦いでもとりあえず通用する。そしてありがたいことに育成にも時間がかからない。さらには一人稽古で成長することもできる利点がある。そういうことだったのではないかと思われます。


問:なるほど。

 そして円転の動きは少なく直線的です。そしてダイナミック。通常の剣術のセオリーからは外れる飛び跳ねる動き(歩法)もあります。

 結局、丸目蔵人佐が「新陰流から離れ、真剣の勝ち味を工夫し‥」ということの一端は、とりあえず武術は物理的なスピードが大事ということだったのではないかと思います。とりあえず即戦力として戦いに強い必要がある。そして物理的以外のスピードを向上させる術理は、人間性の高いきちんとした門人のみに伝える、ということだったのだと考えています。


問:歩法について教えてください。

 最速の歩法を求めます。これは、姿勢の取り方に秘密がありますが、能のようなすり足ではない、すり足に近い歩み足(又は母指球着地のすり足)を用います。野外での戦闘を意識した結果だと思いますが、この辺りが柳生新陰流とは異なっているところです。私は「超高速歩法」と呼んでいます。

 なお、丸目蔵人佐が85歳の時に記した「タイ捨流燕飛序」の風勢剣の項に「風勢剣 是は刀を発すること疾風の如しと云う孫子の語意をとって名付くるなり、口伝鍛錬」と記載してあり、「剣刃上行氷凌上走可能悟 刃の上を歩行し、薄き氷の上も走る、これを悟るように‥」と記載されています。「薄氷の上をすべるように歩め」、とても分かりやすい素晴らしい口伝ですね。


問:手の内についてはいかがですか。

 手の内は、握り方は親指と人差し指を開いて上からかぶせるように握りますので新陰流の竜の口に似ていると言えば似ていますが、人差し指はきちんと握り混みます。私は癖で指が開くものですからよく注意されました(笑) ちなみに竜の口とは呼びません。私は、〇〇〇〇〇〇〇と聞いています。


問:タイ捨流と合気道の相性はどうですか。

 不思議なことに? まったく違和感がありません。ただ、合気道の杖や剣を振る場合に構えが多少高くなったり、大きくなったりすることもありますが、まぁ許容範囲というところです。別物という気はまったくせず、コーヒーとミルクの関係で相乗効果が望める武道だと思います。きっと足の構えがほぼ同じというのが大きいのだと思います。

 以前、神道夢想流を学んだ折には、足が剣道の構えをしなければならずたいへん苦労した思い出があります。これは、一つの体でいろんな動きは無理で逆効果だと真に理解できたよい経験でした。


問:そうでしたか。

 合気道と相性のよい剣術の代表として柳生新陰流があげられると思いますが、これは、石舟斎公案(工夫)の「無刀」を根幹に置くことが理由で剣術が体術に直結しているからだと考えられますが、実は、タイ捨流の伝書にも「無刀」という項目があります。ひょっとしたら丸目蔵人佐も無刀を工夫していたのかもしれません。そうなると歴史的新発見で面白いのですが‥。この点が合気道等の体術に直結する身ごなしが含まれており、違和感がなく相性の良い理由の一つなのかもしれませんね。


問:合気道を極めるために剣を研究するのはどうでしょう。

 合気道は、何も加える必要のない高級な武道です。完成されており、本来は他の武術を学ぶ必要はないと思います。このため、合気道をより深く掘り下げて研究すれば十分! それだけで素晴らしい武道家になれると思います。

 しかし、合気道の理解を深めるために剣の理合などを学んでみたい‥、そのような方は、剣術を一通り学ぶと考え方が多角的になり、合気道に対する理解がより深まるのではないかと思います。

 もちろん、合気道には合気剣法や合気杖術が学べる道場もありますので、そのような場合には必要ありませんが、もう少し、合気道を深めるために日本武術を研究しておきたい‥、という方にはぴったりだと感じています。また、剣術の中でもタイ捨流は癖の少ない自然体を目指す武術なのでもってこいだと思います。


問:体術について教えてください。

 先ほどもお話ししましたが、タイ捨流の伝書に「無刀」という項目がありますので、きっと丸目蔵人佐も無刀を工夫していたのだと思います。この無刀について、タイ捨流燕飛序に丸目蔵人佐らしい回答が示されておりとても興味深いと思っています。この体術は私の一番関心のあるところです。今も研究を続けていますが、日本武術の概念を覆すほどのものに仕上がりつつあります。随分前に一度公開演武を行っていますが、機会があれば再度公開したいと考えています。


問:さて、特にスピードを重視する流派だとお聞きしましたが、その点についてお聞かせください。

 伝書の風勢剣の項に「刀を発すること疾風の如し」とあるように、タイ捨流では「剣を発する」や「発剣(はっけん)」と表現することがあります。当流の素振りを学ぶとその意味がよく分かるのですが、打つとか斬るというより、ある部分から力を発して結果的に剣が飛んでいく‥、という風な感じになります。「超高速歩法で近づき、発剣法で斬る剣術」とも言えますね。

 またスピードとは、物理的スピード‥、いわゆる初動を速くすることを特に重視しますが、具体的には、初伝の段階で丹田を中心とした身体の使い方を学び、「最速、最短、最大限の威力の発揮」を求めていきます。

 実際の戦闘には、物理的なスピードがモノをいいます。タイ捨流は、乱世に生まれた剣です。今すぐにでも戦わなくてはならない人達に小難しいことを教える時間はありません。生き抜くためには、まずは速さ、そして威力が必要です。これだけで、とりあえずは何とかなる。いわゆる速成法というものが必要になります。幾何学的に最大限の力が発揮できる姿勢、体勢を理解し、ひたすら「最速、最短、最大限の威力の発揮」を求めます。城の礎を構築する修行です。


問:速度重視の武術なのですね。

 はい、山北師範から、「タイ捨流はとても速か。雷の早さで耳をふさぐ間もない‥」とか、「タイ捨流の演武は静々とやるものではない。一瞬で(身振り手振りをつけて)スパパパパンっとやるんだ‥」(笑)と教わりました。

 私が学んだ頃の山北師範は、まだまだお元気でしたので、型なのに本気で斬ってくる‥、もちろん剣が当たりそうになると直前で止めてはくれるのですが、初めの頃は、スピードにまったく追いつけません。そのうちに段々と合わせられるようになるのですが、それまでは一方的にやられてたいへんです。

 そのうちに、こちらもそのスピードに合わせて負けじと必死で斬りこむようになりますので、最後はなんだか型なのか分からないような感じでムチャクチャになって終了!  なんてこともありました(笑)

 さらに困ったことに、型を順番通りにやっているのに急に変化技で返されることもある。正直、「‥型にならないよー‥」と心の中で嘆いたこともありました(笑)


問:稽古はそのような感じだったらしいですね(笑) 噂は聞いています。

 こんな感じですので、初めの頃は、正直なところ「これでは覚えられない。教える気あるのかな?」と思ったこともありました。しかし、これがタイ捨流が形骸化しないための指導方法だと随分後に教えていただきようやく理解できました。

 稽古としては、もちろん型なので、初めの頃はゆっくり申し合わせ的に稽古するのですが、ある程度の技量になってからは、実際に当たる位置に思いっきり斬り込んでいきます。型の中で激しく斬り込み、それを反撃、防御などできちんと処理する。精神的に非常に怖い稽古ではありますが、剣客としての器量、度量を身につけるためには必要だと思います。私は、そのように学びましたし、今も同じように教えています。改めて考えると、武術が形骸化しないためには必要な稽古法だと思います。


問:〇〇さんからもそのような話を伺いました。

 そういえば、稽古を見ていたある雑誌の記者は、「稽古なのに実際の斬り合いを目にしているようだ‥」、「古武道は静かに粛々と行うものだと思っていましたが、皆さんの演武を見て、古武道の概念が変わりました」と言っていました。確かにタイ捨流の場合は、通常の古武道のように静かに粛々と形式的に型を使うことは基本的にありません。

 また、雑誌の取材時のこと、カメラマンの「写真撮影なのでゆっくりお願いしまーす」と言われたことがありました。そのとおりで、いつもの稽古の速度で演武する必要はないのですが、それなのに山北師範がいつもの調子で演武してしまう‥、なんてこともありました。きっと撮りにくかったのでしょうね。困ったカメラマンから「もう少しゆっくりお願いしまーす」と言われて、思い出したかのように1~2本はゆっくりやってくれるのですが、その後はいつの間にか忘れてしまい段々と元の速さになるものですから、スタッフ全員苦笑い‥、ということもありました(笑)


問:次の段階は?

  次の段階では攻防技術、いわゆるテクニックを覚えます。勝ち口というやつです。これは型とその変化技に残されています。この段階では、しっかりと攻防技術を学ぶ時期ですので、剣術として楽しい段階。ここまでは、物理的な三次元の段階。技術を極めます。そして次に、物理的なスピードを意識の世界のスピードへと切り替えていきます。速さの違いを理解することで、型の見た目は同じでも、本質はまったく異なることになります。四次元の段階。この世界に入れる人は稀です。


問:そして次の段階は?

 最後は「龍の徳」を目指す段階。タイ捨流の極意の剣は金剛王寳剣です。金剛王寳剣とはダイアモンドでつくられた剣の例えで名刀中の名刀のこと。これは禅の言葉です。なお、「金剛ハ火ニ入ッテモ溶解セズ、水ニ入ッテモ溺レズ、古今ニ渡ッテ不変ノ強ミヲ云フ。王寶剣トハ天子ノ天下ヲオ治メ給フ御剣也」と口伝されました。敵に勝つことだけが全てではなく、この境地に少しでも近づくことがタイ捨流を学ぶ目的です。丸目蔵人佐が85歳の時に記した「タイ捨流燕飛序」にもそう書いてあります。


問:深いですね。

 確かに奥深い武術だと感じています。

 面白いのは、タイ捨流は易経の影響を多々受けている武術だということ。居合心術の最初に唱えるお経の最後で唱える「ケンタリシンソンカンゴンコン」は、実は、易経の「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」のことで、宇宙の森羅万象を8文字に表したものです。この理解が進まないとタイ捨流は極められないと考えています。

 丸目蔵人佐の法名は雲山春龍居士の「春龍」ですが、結局、丸目蔵人佐は龍の徳を持った人物を目指していたのだろうと考えています。九州山地を挟んで熊本県球磨地方と宮崎県西都市は隣接していますが、そのどちらも江戸時代までは修験道の影響がとても濃い地方です。特に宮崎県西都市の龍房山や天狗岳は修験道の聖地として山伏の修行の場でありました。実際に龍房山には、修行場の跡には鎖が残っています。

 この修験道では、龍神信仰があり、タイ捨流の重要な柱の一つをなすのではないかと思っています。古来、龍神は水の神、水を治める神とされていますが、その龍神に対する信仰は、農業信仰と深く関わりがあり、水田稲作にとって欠くことのできない水の源が山にあるところから、それは山岳への祈りにも連なっていく。したがって山に生まれ森に育まれた宗教である修験道にあって、龍神信仰はその原点ともいうべきものですね。


問:龍神とは何か関係があるのですか?

 私が初めて山北師範にお会いした時に「昨晩、龍が昇る夢を見た。きっと神様が、あなたが来ることを知らせたかったのだろう。よくいらっしゃいました」‥と真顔で言われてドキッとした記憶がありますが、道場に龍泉、法名に春龍をつけるぐらい影響を受けています。

 タイ捨流は、印度、中国、日本の武術を総合し、天からの感応を受けて創始したと伝書にありますが、この龍は古代インドでは神様で、大海や地底に住んで雲と雨を支配していると言われています。そこから龍神と呼ばれるようになったようです。

 余談ですが、「あの人は海千山千だ‥」などど、いろんなことに経験豊富でしたたかな人物に対する例えがありますが、本来は、「海に千年、山に千年すんだ蛇は龍になる」という言い伝えから生まれたことわざです。このため、本来は、世の中の裏の裏まで知り尽くすぐらい経験豊富というよい意味で使用されていましたが、最近はあまりよい意味では使われなくなっていますね。‥脱線しましたね‥。ただの余談です(笑)


問:ちなみに龍泉とは?

 山北師範の道場タイ捨流龍泉館の「龍泉」は中国の龍泉地方を指しており、この龍泉地方で練り鍛えられる刀は素晴らしいため、人を練り鍛えて名刀のようにしようという意で道場名にしたと口伝されています。その当時の九州は以外に海外との交流があったのかもしれません。また、丸目は、天正遣欧少年使節(特に伊東マンショ)と天草の神学校(コレジオ)で交流があったようですので、何らかの方法で海外に行っていてもおかしくありませんし、使節団員や海外に行ったことのある方、若しくは海外の人々等の影響を受けていたのかもしれませんね。


問:龍の徳とは?

 易経の「乾為天(けんいてん)」には、人や組織の成長の過程を龍の生涯になぞらえて説明していますが、いつか飛龍となって、雲を呼び、天地(社会)に恵みの雨を降らせることができることが龍の徳、そして人の生きる目的とも言えます。龍は「潜龍」、「見龍」、「君子終日乾々」、「躍龍」、「飛龍」の時代を過ごしますが、武道の稽古によりこれを学ぶのです。私がこの話をすると長くなりすぎるのはご存知(笑)だと思いますので、このあたりでやめときます(笑) まぁ、そういうことです。


問:無刀についてお聞かせください。

 無刀については詳細には伝承されていません。なお、その一部が組太刀(立合抜刀)に取り入れられていますが、伝承されている技と伝書と比較すると、丸目蔵人佐の時代、若しくは伝林坊頼去からの伝承なのか疑問な点もあり、私の中でもまだ回答が出ていません。

 私が体術に興味があるため、この点について山北師範にはしつこく聞きましたが、その答えをまとめると「以前は、『空手と柔道の合体技』、『相撲を空手にしたような感じの技』が伝わっていた」と話されており、「こんな感じ」と思い出しては断片的に教えていただきましたが、一時期を除き基本的に体術には興味がないようで、「あなたが研究しなさい」とあまり相手をしてくれませんでした。このため、研究者の渋谷敦先生宅に伺い、研究させていただいた次第です。なお、「捕手(とりで)」と称していた時代もあったと聞いています。


問:丸目蔵人佐は柳生石舟斎と同じように「無刀の位」を研究していたことのことですが、もう少し詳しく‥。

 平和な時代への移行、これが一つの理由だったのかもしれません。

 新陰流の専門家でない私が無刀について語るのも気が引けますが、新陰流の無刀に当身はあるのですが、基本的に柔術(やわら)系統の技術ですよね。しかしそれとは異なり、タイ捨流の無刀は拳法系だったのではないかと考えています。山北師範、渋谷先生との話によると、伝書にも記載されているように「肩拄(肩を突く?、体当たり?)、足蹴(キック、前蹴り)、足抱(投げ倒す)、足握、超飛(前後左右上下(六国)に飛び違える)、拄袖(袖?で打つ?、肘から先で打つ)、腕打(ラリアット?、入身投げ?、肘打ち)・〇掌で打つ?(手刀という人あり)、凸字の功夫(拳と聞いています、中高一本拳?)」となっています。


問:この伝書を見てみると確かに拳法のような感じがしますね。

 そうですよね。柔(やわら)的な感じがしないため、性格が激しい割に意外と現実主義的で慎重、かつ細かい神経の持ち主である丸目蔵人佐が出した無刀の回答が拳法体術的な無刀に行き着いたのではと解釈しています。丸目蔵人佐らしい激しい拳法体術だったのではないかと思っていますがいかがでしょうか。また、この拳法体術が長崎で立ち会った福建省出身の中国拳法家の伝林坊頼去(白鶴拳系?、後に一番弟子になる、タイ捨流忍者の元祖)の影響によるものなのかは不明ですが、その可能性はあると思います。

 柳生に限らず、日本の伝統武術の無刀取りで拳法系のものは聞いたことがありません。日本人の気質と精神的には、拳法系より相撲・柔術系の方がしっくりくるのではないかと考えています。タイ捨流の無刀は、やはり中国武術の影響を考えてしまいますね。ただ、古代の神話にでてくる相撲では、野見宿禰(ノミノスクネ)が当麻蹴速(トウマノケハヤ)を蹴り殺すという記述もあり(笑)、私の中でまだ整理がついておりません。


問:その体術は、現代でも有効ですか。

 もちろん有効です。

 ただ、私達がやっているのは、競技武道とは異なり伝統武術ですから基本的に急所を狙います。この急所の一つには目も該当し、この目に対しての攻撃は執拗に行いますね。危険ですので、稽古ではおでこを狙うようにしています。とても現実的な武術なのですが、同時にとても危険ですので、これからも人間性の高い方だけにお伝えしていこうと考えています。


問:何か伝書の中のことを教えていただけませんか。

 はい、実は、タイ捨流の伝書は、「伏字(ふせじ)」が多く、非常に難解です。伝書の意図するところがばれないように工夫した結果だとは思いますが、心底骨が折れます(笑)  また、あえて漢字も変更している場合が多いので読解が大変です。例えば、「タ知→宇チ」と読ませて「タチウチ=太刀打ちの意」のような感じです。このような感じでとても読みにくくなっています。他の一部の重要な伝書も同様に伏字が使われています。


問:ほう‥。

 例えば無刀の中の奪刀の項目について、私の解釈では、「奪刀の技とはいえ、一生懸命に頑張っている敵の刀を奪うのはなかなか難しいので、仮に刀を奪えなかったとしてもそのことに執着するな。執着すると却って失敗するものだ。刀を奪うだけでなく他の手法もあるじゃないか。その場、そのタイミングで最善のことを判断すべきだ。この考え方を無刀の根本の教えとする。口傳」と伝えています。現実主義者ですね。何がなんでも素手で立ち向かうわけじゃないということです。参考までに‥。

 

問:ありがとうございます。

 この無刀は、流祖発行(85歳時)の「タイ捨流燕飛の序」にあり、85歳の時点で書かれた伝書と伝えられていますので、時期的には伝林坊頼慶(読みは「でんりんぼうらいきょ」と口伝)と出会った後だと思います。ご存じだとは思いますが、伝林坊は福建省出身の中国武術家(元は海賊とも伝えられています)ですが、伝林坊の意味は、単に林という坊さん(山伏?)の意(笑)で「リンさん」だったようです。‥となると本名は林頼慶かも(笑)しれませんが、頼慶は日本名っぽいですからきっと違いますよね。

 この伝林坊は、タイ捨流忍者の開祖と言われていますが、実際に山伏だったことは間違いないようで、現在で言うところの相良藩諜報員の頭領として活躍していたようです。なお、棒術(棍?)が得意だったと伝えられています。山伏にはちょうどよい武器ですね。実際にどんな武術を使っていたのか? とても興味深く感じて研究を続けています。


問:タイ捨流燕飛の序について教えてください。

 伝書「タイ捨流燕飛の序」は、冒頭に伊勢守の『影目録』『燕飛之巻』の序を持ってきていて、

凡兵法者 梵漢和 三国有之

於梵者 七仏師 文殊上将 提持知恵剣 截断無明賊

則一切衆生 莫不羅其刃 可謂兵法濫觴 摩利子尊天専 以為秘術者也

於漢者 三皇昔 黄帝従 戦反泉涿鹿 而下自五帝三王 至元明 不断絶者兵法也

於倭者 自伊弉諾尊伊弉冉尊 至今日 不可一日無之

 ‥新陰流では、この後に燕飛の説明へと続きますが、タイ捨流燕飛の序でも、ここまでは同じですね。そして、その後に同じく燕飛の説明に続くのですが、ここでは、「燕飛、猿廻、虎乱、十手、山影」を他流の太刀(新陰流?)と表現し、その詰め方(その太刀の破り方)が記されています。その後に以前お話しした刀刀截、風勢剣、そして高妙剣や保寿剣など、具体的には、技術的な剣、鍛錬としての剣、養生としての剣の説明が続きます。

 そして最後に無形の剣や人間的境地の剣として、真無剣(「新陰流の頃は無二剣と呼んでいた」との記載あり)、空関剣、有無剣と段階的に‥、そして、最終的境地の金剛王寶剣の説明で終了しています。


問:そうなのですね。

 結局のところ、タイ捨流とは、この金剛王寶剣の位や境地を目指すことが最終目標であり、また最終的段階として掲げられています。伝書を読み解くことから察するに、本来のタイ捨流は神や仏に近づくための剣術であり、分かりやすいくらい宗教的な最高境地を目指す剣術流派です。


問:易との関係について教えてください。

 そうですね。まず、タイ捨流に伝わるお経の一部に「‥ケンタリシンソンカンゴンコン、天清浄、地清浄、人清浄、六根清浄、エイッ、エイッ、エイッ」(全文は長いです)というのがあるのですが、上記前半の「‥ケン・タ・リ・シン・ソン・カン・ゴン・コン」、これが易の森羅万象全てを表す八卦「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」のことで、後半が修験者の祓いの呪文です。


問:稽古前、そして居合の前に唱えるそうですね。

 このようにタイ捨流は、易の哲学を重視しています。武道というと禅をイメージしますが実は少数です。これは新陰流の柳生家と山岡鉄舟の影響でしょう。本当は易の哲学を重視した流派のほうが多いように思います。易の哲学によって、全てにおいて対処法があり行き詰まらないことが理解できる。具体的には、じゃんけんのようなもので、どんな攻撃にも全てにおいて返しがある、そういうことです。その哲学を型に込めた‥、丸目蔵人佐の偉大さはそこにあると思っています。


問:具体的にはあの型ですね。

 そうです。ちなみに示現流の燕飛の型は、タイ捨流の攻撃法をモデルに12個の勝ち口をつけた型です。タイ捨流の哲学が伝わっているよい事例だと思います。


問:お経が伝わっているのですか?

 はい、摩利支天菩薩神呪経というものです。前半は先ほど述べたとおりですが、後半は、修験道、若しくは密教系統のお経に移行しますが、その最後の部分「天清浄、地清浄、人清浄、六根清浄」を常に唱えているとよいことがある(笑)と伝えられています。こういうことを言うと「科学的ではない変な人(笑)」という印象になってしまいますのでこれまで触れてきませんでしたが、本当に良いことが起こったりするから不思議です。意味は、よくある「世界人類が平和でありますように‥」と同義語だと思ってれば大丈夫です。修験道のマントラですね。


問:摩利支天について教えてください。

 摩利支天は、仏教の守護神ですね。原語のMariciは、太陽や月の光線を意味しているそうで、陽炎(かげろう)を神格化したものです。この陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷つきません。常に日の前に居て、日に仕えるが、その姿は日から見えず、人からも見ることはできないゆえに、人に捉えられたり、害されたり、また、怨まれるものに自分のことを知られることがないとされたことから、この摩利支天を信仰すれば同様の功徳が得られると伝えられたため、武家や忍者などが信仰するようになったようです。ちなみに摩利支天の信仰は中国では唐時代より始まるそうですが、摩利支天経は不空三蔵などの三蔵法師により漢訳され、奈良時代に日本に伝えられたと言われています。


問:興味深いですね。

 はい。また、このお経(一部でOK)を稽古中に唱えると無心になれる、とも伝えられています。実際に稽古始めに唱えることになっていますが、意味の分からない言葉(笑)を常に唱えていると余計な脳の働きが抑えられる効果から計らいの心が少なくなり、また潜在意識に余計なものをため込まない等々の利点が確認できました。念仏系統の修行の意味(心、潜在意識の掃除)が理解でき、たいへん勉強になりました。


問:修験道の影響が強いのですね。

 そう思います。九州山地の修験者は檀家を持たずに、「占い(易と四柱推命)」、「祈祷」、「医者(漢方医)」、「学問(寺子屋)」、そして「武術」等で生計をたてていたようですね。その影響が多々残っています。やはり、タイ捨流は、易と修験道の影響が強い武術だと思います。また、修験道(密教?)の三密(身体、口(呼吸)、心(意識)を整えること)を重視することから、「姿勢、念仏、心のあり方」を中心とした養生の剣である「保寿剣」が考案されたのかもしれません。なお、この保寿剣もタイ捨流燕飛の序に記載されています。


問:陰流も修験道の影響が強いとか?

 新陰流研究者の先輩から教えていただいたのですが、新陰流の源流である陰流の祖・愛洲移香斎は、伊勢国(現在の三重県出身)の愛洲氏の出身のようでして、「そこの一族からは何人も修験者が出ている」、「移香斎の子孫(平沢家)の文書は修験道の影響が大きい」、「陰流の開流伝説は修験道や密教の影響が大きい」、「移香斎が開眼した鵜戸権現(鵜戸神宮)は、『西の高野』と呼ばれるほど修験道の聖地であった」とお聞きしました。その後、私なりに調査しましたが、まったくそのとおりだと感じています。

 以上のことから、移香斎自身も修験者ではなかったかと推測できるのではないでしょうか。きっと、陰流も修験や密教の影響が大きかったと考えるほうが自然ではないでしょうか。タイ捨流に「修験道の影響が強い」のは、基本的には伝林坊の影響だと思いますが、もともとそのような素地があったのかもしれません。‥ある意味「陰流への先祖返り」なのかもしれませんね。


問:愛洲移香斎は海賊だったことから、陰流の伝書が中国で見つかっているそうですね。

 そうですね。実際に海賊だったのでしょう。愛洲移香斎は、熊野(和歌山県南部と三重県南部)の愛洲一族には水軍がおり、和寇をやっていたのではという説もあるようです。愛洲移香斎は九州を中心に指南していたようで、その為和寇と接点があり、陰流の伝書も中国へ渡ったのではないかと推察されています。


問:保寿剣は中国武術の影響ですか。

 いえ、正直なところ分かりません。このような例は日本武術では聞いたことがないものですから‥。そして、この時代の中国武術にそのような思想があったのかは疑問です。ある研究者の先生は、「中国武術の影響」と言われていましたが、その頃の中国に武道と養生の一体という観念があったかは不明です。なお、この保寿剣は型として残っていませんでしたので私が復元し、少しずつ改良しているところですが、伝書では、お祝いの席や正月等に披露していたとの記述がありますので、剣舞に近いものだったのではないかと現在のところ考えています。


問:先ほどの「金剛王寶剣」とは、どのような境地なのでしょうか。

 金剛王寶剣は、ダイアモンドの如く強く美しい、しかも鋭利である刀の意味から転じて名刀中の名刀という意味ですが、禅の言葉だと聞いています。また、伝書及び口伝で、「金剛ハ火ニ入ッテモ溶解セズ、水ニ入ッテモ溺レズ、『古今ニ渡ッテ不変ノ強ミヲ云フ。王寶剣トハ天子ノ天下ヲオ治メ給フ御剣也』」と伝えられていますが、具体的には、自身の煩悩を一刀両断し、仏に近づいた境地。転じて、師になれば、弟子の迷いや煩悩を一刀両断できる人間性・境地のことです。


問:宗教的ですね。

 はい、先ほども述べましたが、伝書「タイ捨流燕飛の序」は、冒頭に伊勢守の影目録中、燕飛之巻の序から、「燕飛、猿廻、虎乱、十手、山影」、そして、刀刀截、風勢剣、そして高妙剣や保寿剣などの技術的、鍛錬、養生としての太刀の説明が続きます。そして、無形の剣や人間的境地の剣として、真無剣(「新陰流の頃は無二剣と呼んでいた」との記載あり)、空関剣、有無剣と段階的に‥、そして、最終的境地の金剛王寶剣の説明で終了しています。この金剛王寶剣の位や境地を目指すことがこの剣術の最終目標であり、また最終取段階として掲げられています。この伝書を読み解くことから察するに、本来のタイ捨流は神や仏に近づくための剣術であり、分かりやすいくらい宗教的な剣術流派です。


問:最終目標である金剛王寶剣は悟りの境地ということですか。

 そうです。一言で言うと「宗教的な悟りの境地と同一」だと理解しています。山北師範は、「仏(神様ということもあり)の境地」と言っていました。

 この境地は「無意無心の段階」で、結果的に自在の境地に至り、剣の型も不要となります。いや剣さえも不要、というべきかもしれません‥。


問:もう少し詳しく教えていただけますか。

 タイ捨流の「タイ捨」の意味は、体、太、対、待を捨て切るとの意味があるとされますが、「理と業とよく合って修行工夫の結果、久しくて悟あるべきこと 依りて仮名に書きたるはいずれにしても心通じ心広く達するの意なり」と書かれており、煩悩等の全てを切り捨てて自在の境地に至ることが本来の意味だと考えられます。

 結局のところ「タイ捨」とは、いっさいの我執を捨て「無意無心」となり、純一無雑の心境で相手に対するという意味です。伝書には、「善悪、邪正及び迷悟などは全て一つに帰す。まさにこの理は剣の道理であり、これを流儀の本源と成す」と書かれており、同流の極意である天人合一の境地を流儀名に表したものでしょう。善と悪や邪と正、迷悟などの二面性を超える、というか「二面性の差をとる、これが悟り(さとり)」ですね。


問:どのようにしてこのような境地に至ったのでしょうか。

 丸目蔵人佐の人生にヒントがあると考えています。

 田舎者の蔵人佐が上洛し、高名な新陰流を創始した上泉信綱(伊勢守)に師事し兵法の修行に励み、修業の後、伊勢守門下四天王の一人に数えられるまでになりました。その後、室町幕府将軍の足利義輝の前で上泉が兵法を上覧したとき、師の上泉の相手として打太刀を務め、義輝より師と共に感状を与えられました。また、正親町天皇を前に剣技を見せた際にも同様のことを行ったと『本朝武芸小伝』に記されています。

 その後帰郷し、新陰流の指南を相良家で行いましたが、永禄9年(1566年)に弟子を連れて再び上洛しました。しかし、上泉が上野に帰国中であったため、愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑みましたが、誰も名乗り出ず、勝負することなく帰国することになりました。そして永禄10年(1567年)、兵法天下一の高札の件を知った上泉は、上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状(免許皆伝)を与えました。


問:故郷に錦を飾ることができたのですね。

 はい。蔵人佐の一番良い時期かもしれません。夢がかない、地元の相良家からすれば期待の星で帰郷することができたのでしょう。まさに故郷に錦を飾ることになりました。

 その後、再び相良家に仕官しましたが、永禄12年(1569年)に薩摩平出水の守将の島津家久が大口城を策を用いて攻めたとき、策にのせられた蔵人佐の主張に従ったために相良側は敗戦しました。多くの将兵を失い大口城も落城したため、その責を負わせて逼塞というかなり重い処罰を下され、事実上、武将として立身する夢は絶たれてしまいました。


問:故郷に錦を飾り、すぐに転落‥。

 名誉市民的な扱いから一転、重い処罰を下され、事実上、武将として立身する夢は絶たれてしまったことから、とても苦しかったと思います。順風満帆にはいかなかった‥、相良家や地元民の期待も大きかっただけにプライドも傷つき相当苦しんだことでしょう。

 しかし、「あいつはかわいそうだ‥」、人間というものは、周囲からこう言われるくらい不幸な境遇に一度は置かれたほうがよいのかもしれません。悩みや苦しみを体験しなければ人は大きく伸びないし、本当の幸福をつかむことができないできないようになっているのかもしれません。戦国武将の夢が立たれたため、ここから恩師上泉のような兵法家を目指したと思われます。

 また、苦しんだ経験から、キリスト教、禅、密教、修験道などの宗教を学び悟りを求め、結果的にいろんな宗教の共通点から人生の極意を得て、自分の兵法に活かせないかと模索していったのだと思います。


問:その後はどうでしょうか。

 その後、蔵人佐は兵法修行に専心しました。九州一円の他流の兵法を打ち破り、そのことを知った上泉より、西国での新陰流の教授を任されました。蔵人佐の技量もありますが、上泉の剣術が優れていたのでしょうね。そして、その上泉が新たに工夫した太刀を学ぶために、弟子を伴い再び上洛するも上泉はすでに死去しており、落胆し帰郷した蔵人佐は昼夜鍛錬し数年の後に「タイ捨流」を開流したといわれています。

 その後、一武村(錦町一武)に隠棲して、村人とともに七町歩余の山野を拓き、その田畑や水路や植林地は残っていて今も活用されています。なお、元和4年(1618)、京都からローマに送ったイエズス会宣教師の報告書に、高潔で品格ある丸目蔵人佐の風貌が描かれています。剣術だけでなく、槍術、薙刀術、馬術、忍術、手裏剣も精通し、また、書、和歌、仕舞、笛などにも優れた才を示した教養人であったといわれていて、最晩年は、剃髪して石見入道徹斎を名乗ったとのことです。


問:結局のところ、与えられた苦難がタイ捨流を開眼するきっかけになったということでしょうか。

 はい、戦うための武術と宗教的悟りへのカリキュラムが結びついた、そのように考えています。そして、隠棲して長生きしたことも理由の一つです。様々なことを工夫する時間がゆっくりとれたことでしょう。訪ねてきた宮本武蔵をあしらったという伝説もこの頃の事です。

 『祈りの剣』『愛の剣法』という不思議な側面があるこの剣法は、与えられた試練から生まれました‥。そこで、自身の兵法には、剣法を学びながらそれぞれの過程で精神的境地を高める型を創始し、段階的に悟りの境地を目指すという優れたカリキュラムを備えることになったのだと思います。悟りを得るための武術だともいえますね。


問:ここまで宗教的な剣術は寡聞にして知りません。とても興味深いですね。

 はい。歴史的な検証は済んでいませんが、若い頃にクリスチャンだった丸目蔵人佐が創ったタイ捨流は、本当は『大赦流』、つまり「大いなる赦しの力を思想の根源とする流派」だったのではないかと思っています。実際にそのような名称で記された伝書もあります。ただ、この「大赦流」という名称では、キリスト教弾圧が厳しくなってきた時代ではいろいろとやっかいだと判断したため、若しくは丸目蔵人佐の宗教的変遷に伴う理由から、読み方と本質的な意義を変えずに「タイ捨流」とした、そのように考えています。

 そうでないと、このタイ捨流の名称の由来について、伝書でいろいろとこじつけというか言い訳がましい名称を付けた理由が述べられていますが、なぜ、このような変わった名称にしたのか? 伝書に流儀の名称の由来まで書く必要があるのか? しかもその名称の由来はこじつけっぽい感じが否めないな‥、という理由の回答が出ない気がします。

 また、「捨」の本来の意味は、空也上人や一遍上人に始まる浄土系仏教思想の「捨ててこそ」にあります。いやいや禅宗ほか仏教全般にこの「捨」の考え方はありますので仏教全体の根源的極意、私は仏教だけではなくすべての宗教の根源的極意だと思っています。

 丸目蔵人佐がきっとどこかで、空也上人、若しくは一遍上人、その他浄土系仏教者の「捨ててこそ」の思想を学ぶことは時代背景からも適当だと思われます。そして、上記の理由から大赦流の「赦」を「捨」に変更することでキリスト教の色を無くし、かつ流名の意図・趣旨・方向性を変更せずに名称変更を図ったのではないかと思っています。

 大赦も素晴らしいですけど、この「捨の思想」も素晴らしいですよね。ある小説に書かれているような「捨」は体を捨てる程度の次元の話ではありません。実は、すべてを捨て去った時に得る宗教的極意を名称に冠した程度の高い流名だったのです。

 このため、当流を学ぶものは宗教の極意「捨ててこそ」をはじめに学ぶことで、早期に迷いから脱して高い境地を目指させたのだと思います。

<参考>

 タイ捨流の名称の由来

 「”タイ”と仮名で書くのは、”体”とすれば体を捨てるにとどまり、”待”とすれば待つを捨てるにとどまり、”対”とすれば対峙を捨てるにとどまり、”太”とすれば自性に至る」と伝書に記されています。


問:実は私もそのように感じていました。何かこじつけっぽくて腑に落ちないですよね。

 丸目蔵人佐は、「愛」を「大いなる赦しの力」として直観したのだと思います。合気道開祖植芝盛平先生と同じく武道の極意は「愛」だと悟り、クリスチャン的に「大赦流」と表現した。私は、釈迦の慈悲、孔子の仁、キリストの愛はすべて同じで表現が違うだけ、いわば切り口の違いだと思っています。

 そうでないと稽古前や居合心術の始めに世界の平和を祈るなんてありえない‥、「祈りの剣」「愛の剣法」‥、不思議な剣法だと思いませんか? 人を斬る剣の稽古の前に世界の平和を祈ってから始めるなんて世界中どこを探してもみつからないのではないでしょうか。最初はまったく意味が分かりませんでした。ただ流儀名が大赦流だったとしたら‥、そう考えるとすべての辻褄が合う気がします。

 また、伝書の流儀の名称を「タイ捨流」から「大赦流」にすると、全体が分かりやすくなる気がしています。主題がはっきりして、何がいいたいのかがよく分かるようになる、そう思います。

 私は、この宗教と武術の融合が顕著に表れている所に強く惹かれます。多分、この宗教と武術の融合という考え方がなければきっとやめていると思います。若い時は楽しいからよいのですが、ある程度の年齢になると、私の場合にはやる意味が見いだせなくなる、そう思います。好きなのでやっているのには違いありませんが、実はその根本に「神様に近づくためにやっている」という意識が強くあります。


問:そうでしたか。

 今まで話したことはないのですが、子供の頃(幼稚園?)に何故か、「生きると言うことは、神様に近づくためなのだ‥」とふと思ったことがあり、現在もその考えに基づき生活しています。悩んだときは、「この場合神様だったらどうするだろう?」というのが判断指針となっています。


問:そういった考え方は惟神の道であり、神道の根本原理だと聞いたことがあります。

 現在の私の武道のテーマは、「仮に神様という高次元の意識をもった存在がいて、もし私に、その神様が憑依した場合は、この心と身体をどのように使用するか。きっとこの心身を最高度に発揮させるパフォーマンスをするだろうな‥」というところです。現代版の神道流と言ってよいのかもしれません。

 長くなりましたが、私の考える金剛王寶剣とは、以上のことが身についた段階で、つまり、「神と一体化した段階」なのではないかと現在のところは、そのように考えています。


(広報部)ありがとうございました。