タイ捨流とは

1.タイ捨流を創始したのは、熊本県球磨地方出身の剣豪・丸目蔵人佐(くらんどのすけ)藤原長恵(ながよし)です。

 1560年代(永禄時代)に20歳の頃、京都にて新陰流の流祖・上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)秀綱の門人となって28歳にて極意の允可を得ています。

 柳生新陰流始祖の柳生但馬守宗厳らとともに上泉伊勢守門下の四天王の一人と呼ばれ、永禄7年(1564)、24歳の頃に上泉伊勢守と将軍足利義輝の前で天覧試合を行い、将軍足利義輝から連名の感状を受けているほどの使い手だったそうです。 

 その後は、相良藩に戻り兵法指南役を務め、九州一円に新陰流を弘めました。 

 丸目蔵人佐が30歳の頃とも、45歳の頃とも言われていていつの頃かは定かではありませんが、新陰流を基盤にインドの摩利支天の法を伝える武道、中国の高祖に始まる武道、我が国のイザナギイザナミ時代に始まる武道との三つを研究・工夫・鍛錬し、真言密法を取り入れることで開眼し、新たにタイ捨流剣法を創始いたしました。

◇道場長演武

2.剣法の特徴

体を跳び違え、素手による突き蹴り、柔術の投げ技のある激しい剣風。

剣を交えて跳躍し、飛び違いながら剣を薙ぎたてる様は、戦国武者たちの斬り合いを見るようです。

 その風格は、現在も実戦性は残したままとなっており、豪快に袈裟斬りを行いながら、体を飛び違え、抜き手で目を突き、蹴り上げ、投げつけるなど、戦国時代の荒々しい「実戦剣法」の趣を今に伝えています。

 しかしながら、その理合は敵の太刀筋に合せて変化し勝ちを得る技が多く、道徳的な意味合いでない本来の意味の活人剣を今に伝える稀有な流派です。

 その他の特徴としては、新陰流に真言密法を取り入れていることから、摩利支天菩薩のお経や真言等が伝わっており、現在も稽古の前に読み上げることとされています。

  また、兵法、占術、天気予報、地震予知法、そして、算盤などの古の時代の知恵が伝わっています。 


3.「タイ捨」の由来

 「タイ捨流」。

 仮名で流派を名乗る稀有な流派です。

 球磨出身の剣豪・丸目蔵人佐藤原長恵は、上泉伊勢守秀綱より授けられた新陰流に自らの工夫を加え、晩年に真剣の勝味を勘案してタイ捨流を名乗ったと言われています。

 タイ捨流の名の由来について、伝書によると「仮名に書きたるは何れにも心通じ、心広く達するの意也」と記されており、あえて仮名書きにするのは、流儀名に体・太・待・対などの特定の漢字を充てると意味が限定され、いずれの漢字でも流儀の真意を表現することができないためだと記されています。

 「タイ捨」とは、いっさいの我執を捨て、純一無雑の心境で相手に対するという意味であり、伝書には  「善悪、邪正及び迷悟などは全て一つに帰す。まさにこの理は剣の道理であり、これを流儀の本源と成す」と書かれており、同流の極意である天人合一の境地を流儀名に表したものと考えられます。


4.極意

 タイ捨流の「タイ捨」の意味は、体、太、対、待を捨て切るとの意味があるとされますが、「理と業とよく合って修行工夫の結果、久しくて悟あるべきこと 依りて仮名に書きたるはいずれにしても心通じ心広く達するの意なり」と書かれており、煩悩等の全てを切り捨てて自在の境地に至ることが本来の意味だと考えられます。

 「太刀筋は方円の器に従う」というタイ捨流の剣の理は、新陰流の「転(まろばし)の理」(まろばしのり)と同じものと考えられており、新陰流との関係性の研究が待たれるところです。

 極意の剣は、「金剛王寶剣」です。 これは仏教用語からきており、「金剛ハ火ニ入ッテモ溶解セズ、水ニ入ッテモ溺レズ、古今ニ渡ッテ不変ノ強ミヲ云フ。王寶剣トハ天子ノ天下ヲオ治メ給フ御剣也」という意味であり、敵に勝つことだけが全てではなく、この境地に少しでも近づくことがタイ捨流を学ぶ目的だと考えられます。

 また、口伝等には、「道場ニ入ルベキ時ハ、身ヲ正シ、心ノ鏡曇リナキヨウ‥」、「蟻ノハフ音ガ聞コユルホドニマデ 心澄マシテ場ニ立ツヨロシ」など、含蓄深い教えも多くあり、たいへん興味深いものがあります。


5.タイ捨流剣法の系譜

 道場長は、タイ捨流剣法第13代山北竹任宗家より全伝を学び免許皆伝を授けられました。武名は「藤原定光」、そして武号は「龍舞」です。

<タイ捨流剣法の系譜>

丸目蔵人佐長恵 ‐ 神瀬草助・太神惟幸 ‐ 相良庄次郎頼武 ‐ 神瀬五右衛門惟宜 ‐ 小田七郎右衛門定矩 ‐ 小田夕可

 ‐ 小田直左衛門定能 ‐ 小田金駄左衛門定記 ‐ 小田八郎左衛門定直 ‐ 佐無田忠蔵良興 ‐ 小田夕可定孝 ‐ 山北竹任定宗(昭和38年8月10日免許皆伝)

 ‐ 小谷達也藤原定光(平成19年8月11日免許皆伝)


6.伝林坊頼慶

 上級者の行う奥伝「組太刀の形」は、タイ捨流の特徴が最も現れた形です。

 組太刀に「柔術」、「拳法」などの突き・蹴り・投げがふんだんに盛り込まれており、タイ捨流以外には目にすることがない稀有な形です。

 このため、真剣を持ちながらの受身、目を攻撃する技、逆関節を極められての投げ技等々、たいへん危険で習得が困難な技も多いため、奥伝として上級者のみが行うべき形とされています。

 なお、中国の福建省出身で中国拳法の使い手である「伝林坊頼慶(らいきょ)」という者が丸目蔵人佐と立ち会って負けたことから弟子になり、タイ捨流に中国拳法を伝えたとの話も伝わっていることから、他の武術にはない独特の風格を持つようになったと考えられています。

 この伝林坊頼慶は、海賊であったとも、僧であったとも伝えられており、詳細な経歴は分かりませんが、その墓が丸目蔵人佐の墓に隣接して設置されているところをみると、かなりの使い手であり高弟でもあったことには間違いないようです。

 さて、この伝林坊頼慶の伝えた武術は何だったのでしょうか。

  道場長の調査によると福建省系の「白鶴拳」に似た武術には間違いがないようですが正確なところは不明です。

 現在の大太刀形にもその面影が残されています。 

  また、各地に伝承されるタイ捨流の末流だと思われる棒術のなかにその片鱗を見出すことができます。 


7.教伝内容

 タイ捨流剣法第13代宗家山北竹任師範より、龍泉館の印とともに免許皆伝を授けられた後、タイ捨流研究の第一人者である故渋谷敦先生から伝書等の講義・捕手術(拳法体術)・棒術・槍術・手裏剣術等の伝承を受け、そして、各地に残るタイ捨流と縁があると思われる武術(棒術ほか)を研究してきました。

 さらには、陰流系統の新陰流兵法、直心影流剣術等を学ぶことで陰流の本質とは何かを追及してきました。

 その後、縁があり山北竹任師範の弟である小田長可(おだながよし)師範の伝承を学んだことで、様々な疑問が解消され、さらに研究が深まりました。

 これらの研究成果を取りまとめ、山北竹任師範の許可を得て、「タイ捨流兵法」として体系化いたしました。なお、この「タイ捨流兵法」は、研究途中ではありましたが、平成19年8月に一般公開を行いました。

 このような経緯から、タイ捨流剣法第13代宗家山北竹任師範からの伝えられた剣技はそのまま正しく「タイ捨流剣法」として後世に伝えることとし、また、第12代宗家小田夕可師範の伝承(山北師範と異なる伝承あり)などの様々な研究成果については、「タイ捨流兵法」として伝えてまいります。


<当会の教伝内容>

【タイ捨流剣法】

タイ捨流剣法第13代宗家である故山北竹任師範より伝授された剣法と居合心術等をそのまま教伝します。

・剣法、居合心術、手裏剣術、伝書講義、その他剣術・居合心術・短刀術・手裏剣

・剣術を応用した体術、補手術・組術討、棒術、槍術、短剣術ほか、そして、変化技、保寿剣、風勢剣、剣道、日本剣道形・大日本帝国剣道形、銃剣道、二刀破りの術、小田応変流、天気予報、算盤、地震予知、占い、伝書講義、御経、おまじない、そしてタイ捨流の哲学ほか

※師範免許及び支部第1号を印可された「平成19年6月1日より、『タイ捨流剣法』の名称を使用」しています。


【タイ捨流兵法】

「上泉伊勢守藤原信綱、そして丸目蔵人佐や伝林坊頼慶は、いったいどんな武術をつかっていたのか‥」。この素朴な疑問から、陰(影)流系統の研究を重ねて参りました。

 道場長が研究した第12代宗家故小田夕可先生の伝承。山北竹任師範の弟である小田長可(おだながよし)師範の伝承。故渋谷敦先生の伝承。さらには、各地に伝わっていたタイ捨流の末流と思われる武術を研究・交流し、それらを総合した武術を伝えます。結果的に武器が多岐に渡る内容になったため、この別伝については、「タイ捨流兵法」と称することにしました。なお、山北竹任師範の許可を得て、平成19年8月に当タイ捨流兵法の一般公開を行っています。

・槍術、棒術、薙刀術、捕手術・組討術(拳法体術)、その他の伝書講義、その他

※免許皆伝を受けた「平成19年8月11日より、『タイ捨流兵法』の名称を使用」しています。

9.道場長インタビュー

 タイ捨流研究の第一人者である道場長のインタビュー集です。

 タイ捨流についてより深く詳細に説明されています。よろしかったらどうぞ。

道場長インタビュー