栄屋タイチ(さかえや・たいち)
つくづくうんざりしながらも毎日毎日、国会中継を聞いている間に夏が終わった。人民を愚弄する安倍首相、中谷大臣らのすました顔を見ていると腹が立って仕方がない。大きな力を背景に、傍若無人なふるまいをする人間の表情には共通の醜さが見出だせる。「粛々と」という言葉に象徴的に表現されているように、他者からのいっさいの意見にも批判にも応じるつもりはない。「まさに」で始まり、同じ言葉を繰り返し、質問に答えず、はぐらかす首相の答弁。前言を翻す矛盾した発言を次から次へと繰り返し、論理的な回答を用意できない大臣。コミュニケーションは最初から皆無。これが現在のニッポン政治。うんざりして嫌気がさして、もう何も考えたくなくなる。無力、無関心。それこそが政権の狙い。「テロでも起きないかね」と誰かが言った。すでに戦時下である。
精神科医の中井久夫は、思考や情念の実行への移行(行動化)について「踏み越え」(transgression)の概念で把握する。*
踏み越えは、慎重で合理的な思考の結果として起こるというよりは、観念や情念が突然、行動化されてしまい、物事がある程度すすんでしまってから、事後的に理由づけがなされるものである。無数の条件が精妙に作用して踏み越えが起こるので、当人でさえなぜそうしたのかその瞬間にはわからない。物語は後から作られる。後からふりかえって、あのときが分岐点だったとわかる。行動化は、そこを過ぎてしまえばもう後戻りができなくなる帰還不能点が踏み越えられることである。
踏み越えは、何かの拍子にふと犯してしまった犯罪や、きっかけは些細なことであるにもかかわらず長期化することで後戻り困難になるひきこもりのケースなどの個人的な事例ばかりでなく、組織犯罪や戦争など集団・国家のレベルでも起こる。
戦争へと「踏み越える」際の「引き返し不能点」は政治的よりも心理的に決定されると私は思う。戦争は避けられないという無力感が世を覆うようになることである。この独特の無力感を引き起こすことこそ、戦争を起こしたい勢力がもっとも重視し努力するものである。それは「心理的引き返し不能点」を手前に引き寄せる試みである。その手段は多様で持続的なものでなければならない。宣伝だけでなく、動員をはじめ、種々のしめつけや言論統制である。**
中井は、太平洋戦争が始まる直前の苦しさを覚えているという。「もういっそ始まってほしい。今の状態には耐えられない。蛇の生殺しである」という感覚。踏み越えるか、踏みとどまるかの逡巡は息苦しい。その息苦しさが踏み越えを促す。踏み越えると、あとは先へ進むほかない。進むことは容易だが、後戻りはもちろん途中で止めることさえ困難になる。戦争は始めることよりも終わらせることのほうが難しい。はじめの高揚感は数週間から数ヶ月もつかもしれないが、その後は重苦しく耐えるばかり。
差別的な言葉で中国人を侮辱しながら中国の脅威を煽り、米軍を最強の軍隊と賞賛してアメリカに協調することが「安全保障」であると考える人たちは、踏みとどまることの苦しみに耐える力を持たない。軍事力を増強し、世界最強の軍隊と共同訓練し、武力を背景に力強い態度で近隣諸国に立ち向かう姿勢は、勇ましく思えるのだろう。おごり高ぶったふるまいに過ぎないにもかかわらず。
平和の理想を堅持し武力によらず地道な対話と個別具体的な人道的貢献によって平和をつくっていくという営みを持続することには並々ならぬ労力を要する。
平和、幸福、善(規範内の生活)、健康、踏み外さないでいることは、輪郭がはっきりせず、取り立てていうほどのことがない、いつまでもという期限がないというメンテナンスである。それは、いつ起こるかもしれない不幸、悪、病い、踏み越え(踏み外し)などに慢性的に脅かされている。緊張は続き、怒りの種は多く、腹の底から笑える体験は少ない。強力な味方は「心身の健康を目指し、維持する自然回復力」すなわち生命的なものであって、これは今後も決して侮れない力を持つであろうが、しかし、現在、充分認知され、尊重されているとはいえない。***
すでに現政権は従来の憲法解釈を踏み越えた。いったんタガが外れると、もう後戻りはできない。格差社会といわれ貧困運動が盛り上がったにもかかわらず、アベノミクスで格差はますます拡大する。原子力発電所の大事故が起きたにもかかわらず、地震と噴火が多発する国で原発再稼働が粛々とすすめられる。国会前に何万人が集まって反対の声をあげても何も止めることができない。「仕方がない」「やむをえない」「こういうご時勢だから」という感覚が支配する。無党派層の諦めを前提として粛々と進められるニッポン政治。
私たちが感じる無力感、重苦しい気分は今後ますますふくらんでいくだろう。事態はますます悪化する。それでもなお、踏みとどまる。死にたくない、殺したくない、生きたい。いまは生命的なものの自然の強さだけが頼みだ。赤ん坊は笑う。自分の手で何かをつかんだとき。自分の足で立ち上がったとき。誰かの存在を見つけたとき。うれしくて笑うのだ。赤ん坊の笑いに倣いたい。
註
* 中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房、2004年。
** 同上、309頁。
** 同上、322頁。