沼袋チエ(ぬまぶくろ・ちえ)
「山形」には特別な時間が流れている。
普段からは考えられない異様な集中力で朝から晩まで映画三昧。食事はそっちのけ、語り合う友人がいれば睡眠さえも削られてしまうけれど(残念ながら今回はその機会には恵まれなかったが...)、東京に戻って実感するのは、自分の強度が増したという感覚だ。映画が纏うそれぞれの「愛」に力をもらうことができるのだ。仕事のやるせなさも、友人との温度差も、満員電車も、さみしい懐具合も、(不)健康診断の結果でさえどんと来いである。映画があって「山形」があって本当によかったとしみじみ思うのだった。
さて、今回私が行ったのは最後の2日間なので、観たのはほとんどが受賞作品で、ロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞したペドロ・コスタの『ホース・マネー』も運良く観られた訳だが、これがものすごかった。はっきりいって何が起こっているのか全くわからない。しかしどうしても触れずにはいられないので少しだけ。
主役のヴェントゥーラが移民として経験したカーネーション革命以後の苦悩に満ちた記憶を、牢獄のような病院、廃墟となった工場などを舞台に再構築する。記憶というものは曖昧であるがそれでいて、あるいはそれ故に確かな「真実」である。本人しかわかり得ない、本人でさえ全貌がつかめない霞のような「真実」を、事実を積み上げていくような手法ではなく、ヴェントゥーラの心に広がるカオスそのままに再現を試みている。時空はゆがみ、亡霊さえ現れる。一つ一つのショットは絵画のように美しく、緊張感が漲っている。目に写るのは冷たい印象さえ持ちうる突き放すようなシーンの連続なのに、愛を感じるのは何故なのだろう?安易な共感など受け付けないが、わからなかったといって簡単に投げ出せるものでもない。この衝撃をなんとかつなぎ止めていつまでも持っておきたいと思わせる、観た後の生活に波紋を残すような作品であった。
以下、アジア千波万波で印象深い2作品を取り上げる。『ラダック それぞれの物語』と『たむろする男たち』である。
『ラダック それぞれの物語』
インド北部のラダック地方に口承で伝わる「ケサル物語」を、少年2人が夏休みの宿題として調べるというフィクションを導入し、村の大人たちに話を聞いて廻るというもの。主に監督がインタビュー形式で村人に話を聞く場面と、少年たちが出演する短いフィクション場面との二重構造で話は進む。そのインタビューの中で、実は「ケサル物語」を知る人はほとんどいないという事実が早々に種明かしされる。当初のもくろみはあっけなく崩されるわけだが、村人たちの持つそれぞれの物語が語られていく。しかしこのあらすじを念頭に観ていると、なぜか違和感を感じてしまう自分がいる。なぜなのだろうと考えてふと思い至る。
監督と村人たちは打ち解けた関係とは言いがたいのだ。監督は探り探り、相手の気分を害さないように質問し、相手もできるだけ誠実に正直に答えようとするものの、深くは踏み込ませていないように感じる。ここぞという話題には顔を曇らせ沈黙し、詳細に話すことをやんわり拒否したり、若干面倒がってお茶をにごすというような。もちろん語られる話の内容に善し悪しがある訳ではない。それぞれの人生が垣間見えるエピソードや歌を披露してくれたり、ライフスタイルの変化による伝統の断絶といったことも見え隠れする。けれどもそこに注意を払いすぎると、違和感の元を見落としてしまう気がする。
そもそもこの作品は滞在型のアート・プロジェクトで2週間ほどで制作されたものらしい。ほとんど初対面といってもよい関係性の中での撮影であり、監督自身が「異邦人」というキーワードを挙げているように、唐突に現われた訪問者への村人の素直な反応をとらえているのではないか。さらに言えば、対象との距離感を慎重に推し量り、安易にジャッジせずその自然なあり方を受けとめようとする監督の姿も映し出されている。主役の少年たちは、子どもらしい好奇心と適応能力で、両者の間をとりもつ使者のようでもある。だとすればこれは、短い制作期間を逆手に取った「出会い」についてのドキュメントであるといえるのではないだろうか。
人が未知のものと出会うとき、得体の知れなさに不安と緊張を覚えながらも、そこには期待や好奇心が多少なりとも潜んでいるはずだ。意識的に平常心を保とうとする話し振りとは裏腹に、無意識に表れる表情や体の動き、目線、クセなどが、語られる話以上にそれぞれの性格や人生を反映しているのかもしれない。それらを丁寧に汲取り、押したり引いたりを繰り返しながら少しずつ距離を縮めようとするもどかしさ。確立された信頼関係の帰結としてではなく、普通は写されないはずのはじまりが映されていたからこそ、いつの間にか前者に慣れていた私は混乱したのだろうと思う。独特のぎこちなさをみせる大人とは対照的に、フィクションとはいえ、心の赴くまま自然に振る舞ってみせる子どもたちのように、どれだけ心を解放していられるだろうかと、つい自分に置き換えて考えてしまう。
とはいえ、出会うことよりも関係を続けることの方が何倍もむつかしい。無責任なことを言うようだけれど、プロジェクトを越えて今後も交流を続けていってほしい。そして可能ならばまた映画で、彼らのその後を、あるいはまた別の顔を、私も知りたい。
少年たちが宿題の成果を発表するラストシーン。ささやかな“事件”の結末に、はにかむように笑い合う少年たち。未来の「物語」を予感させてくれる、いい笑顔だった。
『たむろする男たち』
舞台はフランス、パリ。長距離電話を格安でかけられるコールショップには、中東からの出稼ぎ労働者がたむろっている。定点観測のように店を映し出す抑制された画面。服装から辛うじて季節がわかる程度で、時の流れが滞っているかのようにほとんど変化がない。入口ではたばこをふかし、中ではケーキやコーヒーを口にしながら、仕事の話、家族の話、テレビの話、ほほえましい小競り合いが日々繰り返される。
ムスタファもアルジェリアから出稼ぎに来て14年。いつものように仲間の世間話に静かに耳を傾ける。元々の強面に偏頭痛が重なり時々しかめ面を見せているが、心根の優しさが伺える。彼もまた、この店から頻繁に故郷の家族に電話をかける。おそらく週に1度くらいは電話しているのではなかろうか。家族が順調に日々を営んでいることを心から望んでいるのだろう、細かな心配を投げかけ続ける。母親や親族の体の心配、妹家族のこと、パリから届ける薬や日用品について...、自分の近況はほとんど話さないまま、電話の度に似たような会話が繰り返されている。しかし彼にとっては、どれだけ細かく問いかけようと、自分の不在を埋めるには全然足りないのかもしれない。
劇中、手紙の朗読が差し込まれる。故郷の家族にあて、自分の近況を伝え、家族の状況を聞く。手紙や荷物が届いたか心配し、親戚が会いに来てくれたことを心から喜び、手紙の返事を懇願する。実はこの手紙は、レバノン人である監督の父親が70年代にフランスに出稼ぎに来た頃のものだった。時空を飛び越えて、ムスタファの書いた手紙かと思われるほどリンクしていた。
遠くにいるということはそれだけで、家族の時の流れから除外されてしまうことを意味する。日常は、離れて暮らす家族に伝えるほどではないと思っている間に積み重なり、いつの間にか変化していく。彼らにはそれがわかっているからこそ、変化を変化として感じる前に、日常のまま受け取ろうと努力する。一方で自分にもまた、別の時の流れがあることに気付かざるを得ないはずだ。恐らく故郷を出た時と比べて異国に馴染む部分も増えていることだろう。家族と話していて噛み合ないこともあるかもしれない。それでも、文化も風土も言葉も違う場所で100%溶け込むことなどありえない。日々自分の存在を揺るがされながら生きる中で、支えとなるのは同じ血を分けた家族であり、当たり前の感覚を共有できた頃の記憶なのだろうと思う。それは単なる郷愁という以上に、自分が拠って立つルーツであり、心身に刻み込まれた幸せの形なのではないだろうか。本来家族とともにあるはずだった時間が彼らの中に理想郷のように存在しているのを感じる。時が経つほど重みを増す「過去」と帰るべき「未来」に挟まれた、途方もない「いま」を彼らは生きているのだ。つながっていたいという強い願いも虚しく、つながっていたはずの根っこを切り離されながら。
ムスタファに訪れた、待ちに待った一時帰国。故郷に帰っている間、監督と電話でやりとりする。帰郷した気持ちを、気遣いつつ率直に聞く監督に、日々友人との再会でお祭り騒ぎだと喜びながらも、いつまでもお客さん扱いだととまどいを見せるムスタファ。しかしその声は家族と電話する時よりも明るくリラックスしているようだ。それは故郷にいるからなのか、気心の知れた友人と話しているからなのか。宙に浮いたように存在する「いま」にも確実に時は流れている。ムスタファと監督の会話を聞きながら、「いま」この時の複雑な心境を共有することのできる“仲間”の存在を感じた。新たにできたつながりが彼の切なさを和らげてくれることを願わずにはいられない。
数週間の滞在を終え、パリの小さな店に戻ったムスタファの行動は以前とほとんど変わらない。相変わらずパリかどうかもはっきりしない景色の中で、同郷の男たちのアラビア語の会話をBGMに、ぼんやりとたたずんでいた。