たいらひとし
1 ニート
ニート(NEET)とは、仕事に就かず(Not in Employment)、学校にも通わず(in Education)、職業訓練も受けていない(in Training)青年層をあらわす造語で、英国の労働政策のなかで生まれ、後に日本の労働政策にも取り込まれた。この言葉が広く知られるきっかけとなったのは、労働経済学者・玄田有史とライター・曲沼美恵の共著書『ニート——フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎、2004年)である。この本は、ニート概念の普及に寄与し、その後テレビのニュース番組やワイドショーでしばらくの間、「ニート」という言葉が面白おかしく取り上げられることになった。テレビ番組でニートが取り上げられるときには、たいていは働く意思のない怠惰な若者というイメージでニートが語られ、ある番組の取材でニートとされる青年が発言したとされる「働いたら負け」というフレーズがニートに対する悪印象を決定づけた。
しかし、玄田と曲沼の著書じたいは、ニートを否定的に描こうとするものではなかった。著者たちのスタンスは、次の一文によくあらわれている。「ニートは『働かない』のではない。『働けない』のだ。ニートは『働きたくない』のではなく、なぜか『働くために動き出すことができない』でいるだけだ。動き出すために、未知の誰かからの早い時点でのきっかけを必要としているのだ」(p.254、以下、引用は文庫版から)。
著者たちが描き出すニート像は、働きたくても働けない若者。厚生労働省がUFJ総研に委託して実施した調査「若年者のキャリア支援に係る調査研究」の結果によると、「ニートの6割以上が仕事をしていないことに焦りを感じている」(p.43)。一度も求職活動をしたことがないニートに、求職活動をしなかった理由を尋ねると、「人づきあいなど会社生活をうまくやっていける自信がないから(43.1%)」(p.44)。求職活動をしたことはあるが現在はしていないニートに、求職活動をしない理由を尋ねると、「なんとなく(43.4%)」(p.46)。働きたいけど働けないニートというイメージは、本書のニートへのインタビューでも確証されてゆく。ここに登場するのは、典型的に真面目だけど不器用な若者たち。
では、ニートの増大を防ぐためにどのような対策が可能か。玄田・曲沼が提案するのは、14歳の職業体験「トライやる・ウィーク」事業の徹底である。著者たちは、一週間の「トライやる・ウィーク」を実施する兵庫県と富山県の事例を紹介し、14歳の少年少女たちが、たとえば、「何より、ちゃんと『あいさつ』さえできれば、自分は否定されない存在となりえる」(p.146)ことを体験することに大きな意味があるという。やればできる、という自分への信頼感や、ちゃんとやれば受け入れてくれる、という社会への信頼感。そうした体験を経ないまま大人になると、どこかで「社会経験の穴」(p.256)が空いたようになってしまい、働くことへの一歩が踏み出せなくなる。だから、14歳の体験が大切だ、と。(しかし、これをニート対策とするのであれば、いま存在するニートたちはどうすればいいのか……中学生からやり直すわけにはいかないのだから)。
テレビのワイドショーが徹底的にニートを否定的に描いたのとは対照的に、本書は善意に充ちている。著者たちがニートに向けるまなざしは優しい。文庫版解説で、キャリア・カウンセラーの小島貴子は、こう書いている。「玄田有史は、絶対に人や社会を悪者にしない。いつも自分に何が出来るかだけを模索している。きっと大人ひとりひとりが自分に出来ることを少しずつやると日本が変わるのだろう。玄田有史はそれを信じている一人だと思う」(p.290)。しかし、この善意と優しさは、問題含みでもある。
すでに、本田由紀・内藤朝雄らが『「ニート」って言うな!』(光文社、2006年)を出版し、若者に対する集合的憎悪を煽るニート概念のイデオロギー性やニート対策事業に絡む利権の問題を指摘している。どれだけ優しい態度であっても、ニートという言葉を流通させ、結果的に若年失業者・不安定労働者たちに対するステレオタイプ的な見方を生み出したことには問題がある。そもそも政府の研究会の座長を務めるような東大エリートの労働経済学者がニートに対して優しいまなざしを向ける、というのは、それ自体いかがわしいことだ、というのは言い過ぎであるとしても、この本でのニートの描き方というのは、エドワード・サイードによるオリエンタリズム批判以前の文化人類学者が原住民に向けるまなざしに似ている。未開のニートに向けられた文明人の優しいまなざし。言うまでもなく、それは植民地主義的なまなざしである。彼らは未開人を文明へと導いてくれるというわけだ。
仕事がない。だから働けない。働くつもりで仕事を探していたけど見つからずあきらめた。家庭の事情で仕事に出ることができない。求職活動をしていない(できない)無業者(それがニートという言葉で指し示される)たちには、それぞれに異なる様々な理由がある。新しい言葉による指し示しは、問題の解決ではなく、問題のうえに新しい問題をかぶせるようなことになることもある。ニート概念をめぐる一連の騒動は、典型的な事例であったように思える。
2 レイブル
そんななか、最近、レイブルという言葉があらわれた。この耳慣れない響きの言葉は「遅咲き」を意味する「late bloomer」の略語。働く意志をもちつつも仕事をするに至っていない若者を支援する取り組みのなかでつくられた造語である。レイブル・キャンペーンをくり広げる大阪一丸プロジェクトは、大阪府主催、運営をNPO法人トイボックス、NPO法人スマイルスタイルが担う*。
大阪一丸プロジェクトが作成したレイブルキャンペーンのCMでは、「ニートと呼ばないで〜」という歌が流されている。その意図は、いまやどうしようもなく否定的な意味あいを帯びたニートという言葉に換えて、レイブルという新しい言葉を用いることでポジティヴな色彩を付与し、就労支援を進めようということだと思われる。
だが、この新しい言葉を素直に祝福する気分にはなれない。レイブルが取って代わろうとしているニート概念もやはり同じように、新しい言葉をつくることで若者を窮地から救済しようとする試みだったからであり、同じことがくりかえされるだけではないかと危惧する。とくに、「ニートと呼ばないで〜」と連呼するキャンペーンCMの出来は凄惨だ。内容は、真面目そうだけれども頼りなさげな若者が、ネクタイがうまく結べない、切符を買おうとして小銭を落としてしまう、交差点でひとにぶつかる等の「ドジ」を見せて、会社の面接に向かう、というショートコントである。玄田・曲沼の著書『ニート』がニートを真面目だけれども不器用な若者と描いたのと同じ路線であるが、より喜劇化されている。
レイブルという言葉のイデオロギー性にも注意しておきたい。この言葉は、「遅咲き」を意味すると説明されている。「咲き遅れ」ではなく「遅咲き」である。まだ咲いていないけれど、いつかは咲くものとして期待されている。大阪一丸プロジェクトは、レイブルの職業的自立を目標として様々なプログラムを組んでいる。要はレイブルを就職させることが「咲く」ことを意味しているのである。しかし、10代後半から20代前半の若者の失業率と非正規雇用率がとりわけ高いなかで、個別に若者を支援するプログラムを組んだとしても、「咲く」ことができるひとは限られているだろう。
生田武志は、失業が自己責任ではなく構造的問題であることを示すために、「いす取りゲーム」の比喩を用いている**。ゲームの参加者数よりもいすの数が少ないなかで、みんながいっせいにいすに座ろうとすると、かならず誰かがあぶれてゲームの敗者となる。どれだけ頑張ったとしても、かならずあぶれる者がでる。運良くいすに座れた者は、じぶんの努力で座れたとうぬぼれ、運悪くあぶれた者は努力が足りなかったのだと反省する。しかし、参加者数よりもいすの数が少ないのだから、百倍努力をしてもかならず誰かがあぶれるのである。ここでの椅子は就労の比喩である。レイブルを励まし、コミュニケーション能力を高める訓練を受けさせ、キャリア・カウンセリングをどれだけくり返したとしても、いすの数が足りなければかならず誰かがあぶれる。レイブルに対する個別支援は、「いす取りゲーム」で参加者に個別にサポーターがつくようなもので、どれだけサポートしてもいすの数が足りなければ、構造化された状況は変わらない(むしろサポーターが座るからいすはますます少なくなる?)。
** http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/game2.htm
「咲く」ことができないにもかかわらず、「咲く」ことが期待されている。ただ遅いだけなんだ、というかたちで時間を稼ぎながら。だが、構造的に「咲く」ことができないのであれば、「咲く」こととは異なる生存の方法を模索するしかないのではないか。高度経済成長によってたまたま完全雇用が実現した第二次世界大戦後の数十年間の生存戦略をモデルとした就労支援を、金融恐慌が頻発する現在に適用するのは無理がある。レイブルという言葉には、あいかわらずの高度経済成長的イデオロギーが染みこんでいるのである。
そして、それは結局だれのためのレイブル支援なのか、という話になる。大阪一丸プロジェクトのウェブサイトには、「なぜ、今この問題を考えるべきか」に対する回答として、「ニート・ひきこもり問題は他人事ではありません。以下のような問題に直結しているとても身近な問題です。生活保護費の増大/労働人口の減少/産業競争力の低下/所得格差の増大」と記されている。これは、支援対象の若年無業者たちに向けられた言葉ではない。かつて高度経済成長期に若者を「金の卵」として、文句をいわず従順に働く低賃金労働力であるかぎりにおいて大切にした経済界の論理がここに再び顔をあらわしている。よりよい労働条件を求めたとたん、「金の卵」たちは「腐った卵」になり、厄介払いされる。求められているのは、ひたすら従順であるかぎりの労働力。
レイブルは、せいぜい柔軟な不安定労働力として動員されるだけだろう。ニート概念においてもレイブル概念においても見失われているのは敵対性の感覚である。若年無業者たちの労働の拒否は、「労働人口の減少」「産業競争力の低下」として資本家たちを怯えさえ、「生活保護費の増大」「所得格差の増大」(格差増大は暴動につながるかもしれない社会的不安定性を意味する)によって資産をもつ中産階級を不安にさせている。ニートやレイブルとしてどれだけ弱々しく描かれたとしても、若年無業者層は潜在的に不穏な存在である。