高橋淳敏(たかはし・あつとし)
経済成長といわれる中、現在ある多くの仕事が形作られてきました。その成長も長らく低迷し、それでも落ちずに、仕事が同じようにあるのは、技術革新や新たな仕事の創出のおかげなんかではなく、金融や人件費(コスト!?)の削減からくるものだと思われます。そのしわ寄せが、新興国発展途上国といわれるような国々や、日本でいえば働き盛りといわれていたような次世代にきているのでしょう。大きな経済はあなたが働いていないからうまく回っていないのではなくて、あなたが働いていないからこそ、それなりに回ってしまっているのかもしれません。わが子のことは心配しても、楽しているように見えるのが妬ましく思う人はいても、ニートが働いて欲しいと本気で望んでいる人なんて数少ないでしょう。そんなんだから、ニートが仕事をしようとしまいと、本人にとっても周りにとっても大した違いはありません。今のままでは仕事をしても、ただくたびれるだけです。ですから、ニートであることを恥じることなんてないでしょう。生活や人間関係すら貧しくても、卑下することもないでしょう。隣にいる特定の誰かがあなたのことを必要としていないのではなくて、日本中の誰もが誰をも必要とはしていないのでしょうから。すべてはここからはじめましょう。この際、働き方に関しては各方面におまかせして、今の生活を振り返り、働かない(働けない、働きたくない)ということについて語り、耳を傾け、身体を動かそうと思ったのです。孤立しているのではなく、集いましょうよ。他で、集まりをして連携してくれる方も歓迎です。
解説:
ニートピアという言葉は、ニート+ユートピアの造語で、中原昌也の小説『ニートピア2010』(文藝春秋、2008年)に由来する。小説のなかでは、ニートピアは「厚生労働省の主催によって2010年に開催される予定であった、無職のための、我が国初の大規模なイベント」のはずだったが、「多くの訴訟問題を引き起こして事実上中止」となった幻のイベントである。その内容はあきらかにされないが、「実際に残っている資料から独自の解釈をさせてもらえば、それは公共事業とは名ばかりの凄惨極まりない死の博覧会だ」という。
カフェコモンズ*では、2010年(ニートの年)2月10日(ニートの日)に、「ニートピア」と称したイベントを開催した。小説のなかでは「凄惨極まりない死の博覧会」として中止されたニートピアを、それとは違ったかたちで、ニートと呼ばれるひとたちが社会的なつながりのなかで生きていく可能性を探るための集まりとして実現することが目指された。その際に、ニートピア開会の言葉として読み上げられたのがここに掲載した「ニートピア宣言」である。ニートをどうにかしなければ、という強迫観念をいったんカッコに括って、経済的には停滞し下降していくことが不可避の社会において、働かないことと生きることをいちから考えなおすことの呼びかけであり、非労働の土台から社会的なかかわりをつくることが目指されている。(渡邊太)