高橋淳敏(たかはし・あつとし)
NEETとは「イギリスでは、生活保護、病気、不登校、失業などを含め、教育も、就業も、訓練も受けていない状況にある16歳から18歳の人々をすべてで(p30)」この二年間の未成年者を対象としたようであるが、玄田さんらはその言葉を日本に持ってきた際に、「職に就こうと活動している失業者や、仕事につきたくても病気やケガでつけないために無職となっている人は、含まない(p30)」とし、18歳以上35歳未満の無職独身者のほぼ成年者を対象としている。本書はその日本版「ニート」の普及をするため調査と報告をしているようにみえる。
新しい言葉ができるならまだしも、概念の違う強引な言葉の持ち込みをして「ニートにまつわる問題の大きさは、個々状況を把握するのがきわめてむずかしいこともある(p28)」との認識の中で本書は何を伝えたいのか。その中盤は「ニート」とする若者との出会いや兵庫県や富山県での中学校の就業体験における「ニート」予防の効果についての報告がある。ここにでてくる「ニート」とする若者のほとんどがアルバイトかまたは職に就こうという意識があるように思し、いろいろやっている人もいるし、やろうとしてもがいてもいる。玄田さんらも各所で本人の甘えだけではないという言い方をしている。ならば、変えていかなければならないのは、受け入れる側の社会でもあって企業でもあるだろう。「ニート」と名をつけてそれを予防するため、「ニート」にならないため、(トライやるウィークの試みが悪いとは思わないが)自己責任のような視点で論じて、最後には社会はロクでもないことがあるよとやりたくないことでもやりなさいとおじさんの説教みたいな形で終わるのは中途半端ではないだろうか。
そんな中で第6章「誰もがニートになるかもしれない」といわれても、それは世の中に警鐘を鳴らすというよりも、自分もそうならないかと個人的な不安だけを煽り、逆に「ニート」とされた人に対して偏見をもたらすことになりはしないか。実際、日本版「ニート」が流布しだして5年ほどになるのだろうか、世間では仕事もしない怠け者というような、自分だけでどうにかしろというようなイメージでしか語られてきていないように思われる。
それでも「ニート、ひきこもりや不登校といった若者にはそんな、他者とのゆるやかで広いつながりが、決定的に欠けている(p250)」とし、他人との関わり、孤立の問題を指摘しているのは賛同したい。玄田さんや曲沼さん自身も本書では「ニート」といわれる人に会ったことをより多く報告している。僕としては若者同士の断絶というか、ひきこもりや「ニート」と呼ばれる人たちが就職している人と交流できなかったり、就職している人たちも同じような人たちとしか交流していなかったりする、孤立であり社会全般的な交流のなさを問題にしたい。僕らの世代やその下の世代が、今の親の世代やその上の世代が作ってきた社会をそのまんままるごと踏襲するという視点でだけ語られるのは、誰にとっても、もしかしたら親世代以上にとっても、もう面白くないだろうと思うのだが、どうなんだろうか。