渡邊太(わたなべ・ふとし)
「人間ですらないもの、卑しいもの、取るに足らないものたちの価値と意味」という副題が示す通り、『不穏なるものたちの存在論』は卑しく蔑まれ、貶められる不穏な存在たちをとおして存在の意味を考える存在論を試みている。それは高貴なものも卑しいものも、すべての位階を消滅させ一つの平面に位置づけて(「存在論的平面化」)、不穏なるものたちの巨大な海の深淵へと私たちを引きずりこみ浸水させる。そうして「新しい様式」「新しい世界」「新しい生」への覚醒へと誘う。
本書の不穏性とは、偉大さと卓越さを称揚する「あちらの人たち」が、粗末でちっぽけであるにもかかわらず堂々と現れて卓越者の視線を無視し侵犯するものたちに思いがけず出くわした時に感じる気分のことを指す。不穏性は戸惑いと不安な予感からなる感情的複合体である。だがそれは、単に反感と嫌悪をもたらすだけではなく、反感とともに共感も入り混じった複雑な感情で、侵入者に対して不安を持ちながらも魅惑される、「反感的共感」へと向かってもいる。だからこそ不穏なるものとの出会いは魅惑的で、新しい生へと誘う感覚的覚醒をもたらすものでもある。
李珍景は、卓越した存在者をあつかうハイデガー的な存在論を批判し、「いかなる存在者であれ、自らの特性/所有物(property)に対しよく与えがちな卓越性や優位性の観念を笑い飛ばせないのなら、存在論は決して存在の深淵へ、音なき沈黙に到達することはできないと私は信じる」(62頁)という。卓越した存在者(人間!)を特権的位置に置くことの傲慢さよ。さらに李珍景は、存在の深淵の沈黙を、静謐なる無としての沈黙ではなく、無数のノイズが鳴り響く「百色騒音」としてとらえる。「沈黙はいかなる音も特権化せず、いかなる音でもあるがままに聞こえさせる」(62頁)。
あらゆる音が一つの平面で非特権的に無数に鳴り響く。この騒音のなかに沈黙の存在へ至る道を見出すこと。「おそらくそれは、ジョン・ケージが「四分三三秒」間の沈黙を通して聞かせる音よりも、あらゆる騒音が入り混じった「一〇代の暴動(Teenage riot)」を扇動したソニック・ユース(Sonic Youth)の音に近いのかもしれない。沈黙の魅惑を通して存在の声に耳を傾けるよりは、言っても聞こえない沈黙に閉じこめられた存在者たちの声を増幅させて入り混じらせ、いつのまにかわたしたち自身を蚕食し、わたしたちの目の前でざわめく別の音へと変調(modulation)させたい」(38頁)。
こうした視点から、本書では障害者(第三章)、バクテリア(第四章)、サイボーグ(第五章)、オンコマウス(第六章)、フェティシスト(第七章)、プレカリアート(第八章)について自在に論じられる。
障害者は迷惑をかけると言われるが迷惑をかけない存在者などいるのか。あらゆる存在者は他の無数の(宇宙全体にまでひろがる)存在者に迷惑をかけて生きているが、その障害の陰にあらゆる存在者の連環として存在が宿っている(第三章)。
私たちはバクテリアである。進化の先端に位置するとされる「高等」生物でさえバクテリアたちの巨大な共同体であり、バクテリアが他のものと出会う一元的平面では、排除と攻撃の免疫作用だけでなく異質なものや外部者との共生能力としての免疫も機能する(第四章)。
有機体と機械が一つのように作動するものがサイボーグであるならば、スマートフォンの地図を見ながら歩く人もサイボーグである。道具の使用による身体の変容。情報の海で汚染された「わたし」はそのつど何度も死にながら生きていく(第五章)。
遺伝子工学によって癌細胞を生まれ持つようにつくられたオンコマウスは手段として作られた生命である。『わたしを離さないで』の「提供者」たちや『ブレードランナー』の「レプリカント」も同じ。だが、複製はかならず原本を超過し抵抗するのであり、「機械奴隷」や「生物奴隷」たちの反乱、解放を考えねばならない(第六章)。
魅惑による受動的な愛。愛の欲望は性の二分法的境界を超え、さらに脱生殖的、脱異性愛的で脱人間化された物への愛へと突き進む。ついには性欲すら離脱した、物への非性的な愛に至る。商品経済のなかで私たちは十分に物を愛することができていないのだ。物の魅惑を通して見知らぬ深淵に誘われたい(第七章)。
資本主義の全面的展開は、新しい不安定階級としてのプレカリアートを出現させた。階級からの潜在的離脱のベクトルを抱えたプレカリアートは、「脱階級」であり不安定にさせる階級だ。プレカリアートは労働者階級の規定を消去し、空っぽにする。その離脱のベクトルから再定義されるのは無限に延期されたプロレタリアートである。「プロレタリアートを絶えず空っぽにして再誕生させる、この永遠なる反復に、わたしたちはマルクスが提案した『永久革命』という概念を与えることができるだろう」(293頁)(第八章)。
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李珍景は、韓国での自主管理の研究スペース「スユノモN」の活動で知られる。スユノモの経緯や活動は、金友子編訳『歩きながら問う』(インパクト出版会、2008年)や、李珍景「コミューンの構成における空間−機械の問題」(『インパクション』173号、2010年)、尹汝一「生のための死」(『インパクション』178号、2011年)などで知ることができる。私も何度かスユノモNを訪ねて李珍景その人にも会い、にこにこ笑いながらつねに冗談をとばしているチャーミングな人柄に大いに魅惑されてきた。
それもあってか、本書を読んでいて「……と言わねばならない」という表現が印象に残った。「ねばならない」という強い表現と、李珍景さんの笑顔とのあいだに隔絶とまではいかなくとも何かしらの溝やズレのようなものを感じて一瞬戸惑ってしまったのである。
「現在的出現からくる戸惑い、到来するかもしれない浸水に対する不安な予感、この二つの相違した感情の複合体を、不穏性と言わねばならない」(18頁)。「存在論がなんらかの『一般性』を持ちうるのであれば、それはあらゆる存在者を包括できるという外延的な意味のみならず、存在に近づく道を方向付ける特異な存在者さえもが、決して特権的な卓越性や位階を持たないといういいを、やはり含むと言わねばならない」(62頁)。「存在とは、知らない場所で思いもよらぬことをしてくれているがゆえに『他者』と呼ぶにふさわしいものたちが、数多くの他者が、それぞれの存在者を『外から支えていること』を意味すると言わねばならない」(78頁)。「性欲が資本の欲望とともに日のあたるところに出てきたとき、それは最初から、異性愛的性欲はもちろん、『人間的』性欲の限界を超えていたと言わねばならない」(222頁)等々。他にももっとあるが、いずれにしてもこれらの「言わねばならない」という表現の強さが気になった。
2015年8月27日、京都の同志社大学で『不穏なものたちの存在論』出版記念の書評セッションが開かれた。その際、李珍景は書評者への応答のなかで、自らの恥ずべき体験として、ある移住労働者の友人との会話について話した。その会話のなかで、李珍景は労働運動や移住労働者についてそれなりに知識と理解があり、知っていると思っていたはずなのに、じつはまったく何もわかっていないことを思い知らされたという。その後、友人は強制退去させられた。その経験が、本書へとつながっている。かなり思いきった言い切りと、「ねばならない」という強い表現をもつ本書は、それにもかかわらずその核心にある繊細な弱さの経験を抱えながら書かれたものだったのかもしれない。
「だ」「である」と言い切るよりも、「言わねばならない」という表現にはより強く著者の意志が刻まれているように感じられる。しかし著者に言わねばならなくさせているのは誰なのか。言葉に埋め込まれた論理の力によって、所与の前提と条件から自ずと次に言うべきことが決まり、別様に言うことが論理的に不可能であるがゆえに「言わねばならない」というわけではおそらくないだろう。著者に言わねばならなくさせているのはいったい誰なのか。
あらためて読み直すと、本書の著者の言葉には無数の言葉が響きわたっていることに気づく。
わたしの声とわたしに近づいてくる声が、区別できないほど入り混じり、結局わたしの声が『わたし』の位置を喪失し、わたしの声であることを取りやめ、わたしもまたわたしであることを取りやめる場所が。それゆえ、無数の音がわたしの声に割り込み、わたしの声のように話し出し、わたしを通してそれらが現れる瞬間がありえるのではないか?(36頁)
私の言葉は、誰かの言葉、無数の言葉と交わり、私が話すというよりは私を通して誰かが、何かが話しだす。その声にはたとえば若き日に李珍景を突き動かした幽霊たちの存在も含まれている。
わたしは幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存していることを確信する。たとえば一九八〇年代初め、わたしが入学した大学には少なからぬ幽霊が存在していた。一九七〇年の清渓川で「勤労基準法を守れ!」と叫びながら焼身自殺をした全泰一の幽霊、一九八〇年の光州で死んでいった二〇〇〇人余りの市民たちの幽霊が。その幽霊たちによってわたしは、またわたしの友人たちは、思いもよらぬ生へと巻き込まれていった。素朴な青年の夢があった場所には血と涙が流れる陰鬱で思い生が入り込み、ペンを持たねばならない手にはいつのまにか石礫が、あるいは火炎瓶が掴まれていた。幽霊たちでなかったら、そこに魅惑されなければ、一体だれがそんなことをしえただろうか? わたしたちが叫ぶとき、実際はかれらが叫んでおり、わたしたちが駆けるとき、かれらがわたしたちとともに駆けていた。誰がこの幽霊たちの存在を否定できるだろうか?(141頁)
私の声をつうじて話し出す無数の存在を語る存在論。崇高な「私」に行き着かない存在論。ただひとつの声が真理を語るのではなく、すべての声がすべてを通して語る存在論。著者は語るのでは語らされている。だからこそ、「言わねばならない」ことを余儀なくされるのだ。
出会いの出来事を通して、わたしが見えなかったものを見て、思いもよらない場所へと行けるような、そのような出会い――二人称はもちろん、三人称で喋るときさえ、実際は「わたし」の口で喋っているのではなく、その反対に「わたし」と言うときさえ、実際はわたしではないそれが、無数の「それ」らが押し寄せてきて、わたしの口で言わしめる、そのような思惟の言語――わたしに近づいてくる新しい可能性を通して、わたしの生の方向を定める場合においても、わたしが慣れ親しんだ世界の呼びかけにわたしを任せるような存在論ではなく、わたしがわたしと別の世界に属すると思っていたものたちに、取るにたらず大したことのないものたちに、避けたく遠ざかりたいものたちに、いつの間にか巻き込まれ、わたしが属していた世界を離れさせる、そのような存在論。(54頁)
「言わねばならない」と著者に言わせるのは、無数のノイズ、無数の声であり、幽霊たちであり、亡き友やもう二度と会うことができないかもしれない友たちの声である。存在論的平面にさざめく無数の声。「言わねばならない」は混じり合う声の表現として受け取ることもできる。
そう考えると、無数の声が混じり合っているのは何も「言わねばならない」という表現だけに限られない。本書の至るところに無数の騒音が鳴り響いている。われわれは障害者だ、われわれはバクテリアだ、サイボーグだ、もっとフェティシストにならねばならない……。著者はもちろん障害者を代表しているわけではないし、バクテリアを代表しているわけでもない。存在の騒音が著者の声に混じり合い、著者を通じて砂漠の海の騒音を届けるのだ。本書の文字はざわざわざわとオカルティックに泡立っている。
巻き込まれるという受動性においてどこまでも能動的な姿勢によって、有機物無機物問わず何もかもが渦巻く砂漠の海に沈みながら浮かびあがる身体性。海には無数の騒音が泡立っている。無限に多様なものが無限に多様な仕方であらわれる。G・バタイユの笑いの爆発のように。