umeten(うめてん)
『愛とユーモアの社会運動論』
一言で言うと、社会運動論というのは一種の信仰告白なのだということが理解できた。
もはや半分以上人生を投げた身としては、このような不安を「共有」することがあまりできたとはいえない。
かつてあったカウンターカルチャーも、カルチャーなき「カウンター」として形骸化して久しい現在、この本のような「夢と希望にあふれた」運動論は、本当に必要とされているのかさえ、疑問に感じられた。
私とこの本との距離は遠く感じられた。いつだってそうなのだ。あの震災でさえ、「たかが災害ごとき」と感じてしまうほどに。そして、事実、「だからどうってことはない」のだ。「たかが震災ごとき」で、社会が変わらないことは原発が再稼働することで既に証明済みだ。
大体、社会が変わるとはどういうことなのか。
著者は社会の力が弱まっているというが、弱まったのは99%の不可視の市民であり、1%の既得権益層ではない。そして、この社会はいま企業社会のもとで、即ち「民間」主義のもと、「民意」によって、「維新」へとドライブしている。もちろん、それは狂った方向性だと断言してもいいものではあるが、その狂気へと突き進む熱量だけはこの社会に渦巻いている。
それに対して、著者が提示する運動は本当に小さく、ささやかで、あまりにもはかなげだ。
うなり声を上げて駆動するテロル機械に対して、想像力をもとめても無駄なことは、大阪を見れば火を見るよりも明らかだ。そしてこの社会全てが炎に包まれる日はもうすぐ目の前まで来ている。
だが、はたして「わたしたち」は連帯する必要があるのだろうか、とさえ思う。
誰もが「お客様」として「賢く」あろうとするその態度こそが、連帯の必要性をも破壊しているのではないのか。
そして憎むべき相手への同化こそが「沈黙」でありテロリズム(抵抗)――サイレントテロとして機能するのなら、いまさら誰も何もする必要など無いのではないか。
「運動しないという運動」によって、狂気の、狂気への自爆テロが炸裂するのなら、それはそれで「愉快」な光景ではないだろうか。
もちろん、そこには文字通りのおびただしい数の死者の群がうずたかく積み上がっているのだろうが。
[死ねばいいのに]というまでもなく、この社会は死ぬ。間違いなく間違いを犯して。
だが、国家は生き延びるだろう、どれほど醜い姿となったとしても。
著者の言う「ユーモア」というのも、「恵まれた」者のアイロニーなき心情からしか生まれ得ないのではないか。少なくとも、私からはアイロニカルな笑いしか生まれてこない。
また、「ユーモア」ははたして「笑い」と直結できる概念なのだろうかとも思う。
過酷な労働環境下では、中途半端さが死を招く。他人のことなどどうでもいいという体制側のロジックを身に付けなければ、もはや「いまここ」を生きることすらままならない。
そして、生きることに、生き残ることに希望を見いだそうとするから、自殺という形で社会に「殺される」のであって、生きることなど無駄という絶望が新たな社会の起点となることに気がつくべきではないのか。
即ち、この社会に残された希望とは、自らの意志でもって自殺することだ。
そう、「孤立した暴動」。大いに結構ではないか。少なくともそれが著者の小さな運動と、いかほどの違いがあるというのだろうか。しかも、それはますます加速し、増加しているのだ。それがどれほどの影響を小さなコミュニティにもたらしているのか。想像するだに、既に日本は、地雷原と化しているのだ。
もはや、この日本で、生き延びたいと考えることこそ間違っているのではないのか。
著者の言うように日和見的な態度を取り、資本主義の「鉄の檻」から抜け出そうというのではなく、むしろ協力さえ惜しまないというのならなおさらそうではないのか。
消費社会においては欲望が生む病のような自殺が存在するというのなら、全ての人間はみな「かろうじて自殺しないでいる人間」だと言えるのではないか。
そして、「消費しないというかたちでの抵抗」や『「働くな」と「買うな」の運動』は、資本主義からの離脱からだけでなく、あるいは福祉へのドロップアウトによっても可能だ。自殺、その他による広義の「連帯」を考える身からすれば、それは実に奇妙な生への執着ではあるが。
また、バートルビー的な「~しない方がよいのですが」という立場からは、イノベーションの放棄という抵抗もあり得るだろう。現状を維持するというそれだけでも、十分な抵抗、そして自殺へと通じる「小さなテロ」となりうる。「法人企業」という巨人に対抗するのなら、個人レベルでのそれからしかないだろう。
「経営家族主義」を唱える裏側で、「他人」とみなされれば容赦のない罰が待っている日本企業においてはなおさらだ。
また「働いたら負けかな」という考えも、様々に応用が可能だ。
「自己実現的な労働」も、その内実が自己啓発的、自分探し的な労働だと見れば、たちまち冷ややかな目線に晒されるものとなろう。それに対抗するにはやはり、自己放棄しかない。
著者は「あなたが投げやりな態度や、希望をもてないでいる気分になっているとしたら、それはあなたの主観性がそのように資本主義的に構成されているから」だというが、頑強な「鉄の檻」から出る方法が「小さな連帯」「とりあえず集まれ」というのでは余りに脆弱だ。そう、万人に行き渡った「檻の鍵」など無いのだから。
そのような中で著者は本来、資本主義的主観性において回避される「特異性」こそが連帯の鍵になるといい、「パフォーマンス芸術の実践」にそれを見いだす。しかし、いわば日常的にパフォーマンスを「強いられる」ような存在がいるとすればどうか。
それこそが障害者だ。だとすれば、それは極めて一方的な目線に映りはしないだろうか。また、それらは「クリエイティビティ」という回路を通じて資本主義に回収されてしまうものかもしれない。時には、エイブルアートとして。
さらに例えば、私のように、連帯できないという「障害」もまたあり得るのではないのか。
ひきこもりやニート、フリーター、ワーキングプア、失業者、生活保護受給者が、そうそう表に出て特異なパフォーマンスをする光景など私には考えられない。
いったい「誰」がパフォーマンスを行い、「誰」が観客となるのか。それが問題だ。
著者の楽観性はいったいどこから来るものなのだろうか。
私にはわからないが、『「新しい連帯」「新しい優しさ」』を持った「愛とユーモアの世界」を著者はめざす。私のようなテロル的な思考からすれば、「楽しい差異」とはありえるものなのだろうか、そして「楽しい」と「新しい」はイコールで結べるのだろうかという疑念がつきまとう。
なにせ次の章で「笑うしかない」事例として紹介されるのが、日雇い労働者の「千円くれ!」という「パフォーマンス」なのだから。その「笑い」は誰にとってのものなのだろうか。
そして、著者は「希望は戦争」論もまた、その延長線上にあるという指摘を引く。そして、いま赤木氏は障害者のもつ架空の「弱者利権」に対してすら敵意を露わにし始めてもいる。
「特異なパフォーマンス」は本当に連帯の鍵になるのだろうか。
そのいずれもがある種の「笑い」をもって迎えられたこの社会で、これを「ユーモア」と感じられるのはいったいどういう「立場」にいられる者に限られるのか。少なくとも、それに余裕を持って応じられるくらいの「立場」にはあるだろう。
著者はいう、
「一方でほっといてくれ、自分たちで勝手にやっていくといいながら、他方では助けてくれどうにかしてくれ、と要求することは、同時にいえば矛盾になる。」
『「その主張は矛盾している!」という指摘は、長い沈黙の末にようやく生まれかけた声を抑圧する力として作用する。声を上げることじたいが抑圧され、沈黙のうちに静かに死んでゆく無数の人達がかつていたし、いまもいる。末期資本主義の巨大な圧力に対抗するためには、矛盾を怖れず声を上げていかなければならない。』
だが、そこで上がった声の受け皿となっているのが、オカルトじみたナショナリズムであるという現状、この社会に必要なのは、声を上げる以前の「発声練習」なのではないか。それが著者の活動なのかもしれないが、「沈黙のうちに静かに死んでゆく」ことで、ボディブローのように社会を崩壊させていくこともまた一つの方法ではないのかという思いが尽きない。
あるいは、もっと派手な死をまき散らし叫ぶことをもって。
著者はその矛盾を手がかりに、「突拍子もない言葉と表現」をもって『希望は「希望」』だという。
その「突拍子もない言葉と表現」のうちのひとつに、サイレントテロが含まれてもいることは、この「突拍子もない言葉と表現」がネット上でじわじわといまでも生き続け、あるいはテレビで取り上げられたこともあることが証明しているともいえる。
なぜみんな生きたがるのか?みんな死ねばいいのに。
サイレントテロとは夢ではない、「現実」を「肯定」し見据えたものだ。「現実肯定」の原則に従えば、もうまもなく日本中がファシズムの炎に包まれるだろう。その結果がどうなるか。
「戦争」がはじまるのだ。否応なしに。それも泥沼の内戦が。
いや、もう既に始まっているのだ
著者は「グローバル・アクティヴィズム」を盛んに持ち上げ、全ての社会運動はグローバル性をもつものと見るべきだという。しかし、それはネット上の「祭」に近しいものなのではないか。ライターの火のようについては消え、ついては消えするそれに対してみれば、「現実肯定」の方が圧倒的に持続的・継続的だ。
たとえ「素人の乱」に、「貨幣経済にそれほど依存せずに生きていくための方法論」があったとして、それがあくまでも、自営業という資本主義経済の枠の中にあることは間違いない。さらにいえば、旧来の左派活動家的な意味での玄人ではないかもしれないが、継続的にパフォーマンスを続けているという点で十分に活動家として「玄人」だ。
そのルーツとされる「だめ連」についても、交流できる時点で「だめ」じゃない、と感じられる。
また、「くびくびカフェ」については、私も何度か足を運んだ経験があるが、どうみても「玄人」にしか見えなかった。
これらの活動の原点として著者は「一九七〇年代イタリアのアウトノミア運動」の「運動と生活の拠点としての自立的な空間をつくる営み」を挙げ、その代表的人物、フランコ・ベラルディ(ビフォ)の言葉を引く。
「労働の拒否とは、/資本主義の再編成、技術的な変化、社会的諸制度の一般的転換といったことが、/搾取からひきこもる日常的な行為によってうみだされているということを意味している。」
ここまでラディカルな言葉まで来てようやく、ひきこもりという非活動・非運動が、「活動しない活動」・「運動しない運動」として、意味を持ち始める。
360万人のひきこもり、300万人の失業者、200万人の生活保護受給者、たとえそれらが重なりあっていたとしても、既に地方都市レベルの人数の「活動家」が存在することになる。
サイレントテロ、それは幻ではない。
スペース=空間=場を重視する著者に対して、私はそれすら必要ないのではないかと異議を唱えたい。
また、新しいメディアとしてのインターネットにも希望を向け、「このまま世界が変わらないというのは、思い込みにすぎない」というが、政治家の無知・無理解・無能の露見やカジュアルな犯罪告白すら日常茶飯事となった日本の「残念な」インターネットのどこに希望があるのだろうか。
そして、「ユーモア」。これこそ、あらかじめ選別=限定された場であるからこそのものだろう。「笑い」とは価値観の共有を大前提とした感情のあらわれに他ならない。
「笑いとユーモアは、差異をよろこびへと変化させる」というが、そもそも「笑えない」状況にいる者は、その余裕を見て怒りに震えるやもしれないのだ。
それはあらかじめしくまれた「よろこび」ではないだろうか。
スペース=空間=場の共有=コミューン主義とは、ある意味で小乗の実践といえるだろう。対して、私の考えは「みなしテロリスト」を量産することによる大乗の概念となる。
ただ、『日常的な生活実践と無意識的な習慣としての「習俗」』を変えていかなければならないという点には同意する。徹底的な「現実肯定」という自己破壊を通じて、だが。
そして、破壊のためになら「習俗」ですら「肯定」してしまっても「構わない」のだ。
「とにかく集まれ」と著者はいう。対して私はやはり、「集まれない」者はどうするのかと考える。
「ユーモアと笑いは重要である」と著者はいう。それでもやはり、「ユーモア」と「笑い」は困難な課題として残る。
笑えない人間をどうするのかという問いは、恐らく日雇い労働者のふるまいを冷たく「笑うしかない」ところに落ち着くのだろう。
あるいは、障害者の「特異なパフォーマンス」を「生あたたかく見守る」ような態度でもって。
著者もまた、スペース=空間=場に対する視線がユートピア的であったことに自覚的ではある。やはり、スペース=空間=場は、どのようにあろうと「限定」されてしまうのだ。
希望はそれを感じられる者のポジショントークだと言えばいいすぎだろうか。
労働の対価すら生活費・消費へと消えていくのに、「誰」が自らを変える余裕をもっているのだろうか。
「存在が意識を決定する」。ならば、生活を上書き変更する必要がどこにあるのかわからない。自らの死を思えばそれで事足りるのではないか。
スペース=空間=場ではなく、個人のありのままを絶対視し、それを「連鎖」させれば、変化など必要ないのではないか。そして、その必要の無さのはてに変容を見る。事態は変容させるものではなく、変容してしまうのだ。
いずれ遠くないそのうちに。
社会運動においても、新しいスタイルの運動は「ユーモア」にあふれているという。しかし、あるものを「笑う」にはそれだけの「能力」が必要とされる。即ち、笑いへのハードルがそこにはある。
また、ユーモアと笑いの「たいせつ」さは、政治的なセキュリティホールと表裏一体でもある。お笑い芸人が何人も政治家になるこの日本の社会では特に。
「人間は、世界を笑いによってリセットすることができる」。確かにそう見える。文字通り、現在の日本は「お笑い芸人」によってリセットされかかっている。はたしてそれは笑っていられる状況なのだろうか。
『笑いは「愉快な無」である』というが、いままさに繰り広げられている「政治的痛快活劇」は誰が笑い、誰が沈黙しているのだろうか。
「笑いは/世界をリスタートさせる」というが、この日本ではポピュリズムとして既に実体化している。
「笑いの中でわたしたちが出会うのは、未知のものが未知のままに出現するさまである」。その通りだろう。だが、いわばバクチを打つような行為によって「新しい特異性を生きる」ことはできるのだろうか。
笑いのもつ政治性について、著者はいささか楽観的すぎるように思える。
カルチャー・ジャミングという方法にしても、そのような楽しい抵抗をするのにも余裕が必要であり、私にとってはどこまでもそれが視界につきまとう。
運動と運動しない運動は、どこまでもすれ違い続けるかに見える。
が、
「運動のテロは国家の対抗テロを呼び込むことになり、結果的に運動の解体を導いてしまう」
という点で、運動しないことをテロリズムとみなすサイレントテロは、その点で奇妙に有効に機能しており、非運動的運動として接点をもつのではないだろうか。
「ルサンチマンの感情」は「不毛な暴力を呼び寄せる」という点でも、活動しないこと、運動しないことの「意義」が浮かび上がってくる。
とはいえ、「祝祭空間の大笑い」は、常に場所と運動に縛られてもいる。本当に「笑えない」現実の生活を送る者はやはり「沈黙」するしかないのだ。「いまここ」の絶対観を抱いて。
50年前には、この社会にもストライキへの共感があったという事例も示されるが、それもまた、戦後という特殊な条件があったからこそではないか。そして、いま仮にその共感が甦っているのだとすれば、それはやはり原発の爆発という大惨事=敗戦=「戦争」のあとだからではないのか。あるいは、「失われた20年」という経済的敗戦のあとだからか。
しかし、著者は「信じている」という。
そして、
「わたしは、資本主義のさらなる発展に荷担するとともに、資本の運動を超える社会的な力を発揮するという二枚舌的な運動の可能性を見いだしたい」
という。
それを著者は「アナルコ日和見主義」と称している。
この矛盾を正面から堂々と引き受ける態度に、現実への諦観、絶対観の共有を感じる。
なぜなら、サイレントテロもまた、ネオリベ的な現実を受け入れることで、自爆テロ的に社会の破壊を目論むという二枚舌的な性質をもつものだからだ。
生きることでの変化を求めるか、「死ぬ」ことでの変化を求めるか。両者の違いはその点にある。
「死んだひとびと」に対して、私が提供したのがサイレントテロだ。
著者の「アナルコ日和見主義」は「生きて」いてこそのものだろう。
生きていたい人、生きていられる人はこれが信じられるのだろう。
<追記>
カフェ太陽。文字通りの民家にしか見えないそのあやしげな空間に、私はあと一歩の所まで進んだのだが、あまりにも怪しげすぎて引き替えした覚えがある。
その後、縁あってカフェコモンズというビルの5階にあるカフェで行われている「コモンズ大学」に参加するようになったわけだが、参加している割には上記の書評が批判的にすぎると我ながら思われる。
根っこにあるのはやはり、著者と自分との間の「不安定さの大小」であり、私から見れば著者は言うなれば「リア充」なのだ。もういつ死んでもいいような私に、愛とユーモアを語られてもそれは馬耳東風も致し方ないではないか。
コモンズ大学にも、時折、文字通りの「リア充」が来る時があり、その時の感覚はまさに苦痛でしかない。
開かれてはいるが、開かれすぎているために、苦痛をもたらす場としても機能しているのが「コモンズ大学」だというのが私の感想だ。なぜなら彼らは、自分のことのみで自意識が膨張し、他人のことなど想像もしないからだ。「直接的な関係性をもたない他者が死ぬことを気にもしないのであれば社会は不要である。」というが、私は常にそれをまなざしている。