渡邊太(わたなべ・ふとし)
山形国際ドキュメンタリー映画祭で観たなかで印象的だった映画『燃えたぎる時』("La Hora de los Hornos" 監督、脚本:オクタビオ・ヘティノ、フェルナンド・ソラナス/アルゼンチン /1968/スペイン語/モノクロ/35mm/260分)。4時間を超える3部作の長編だが、映画的なカタルシスも感じられ、よい映画を観たという充実感があった。
この映画は、第一部でアルゼンチンの近現代史を解説するとともに、第二部、第三部では独立後も依然として継続する植民地主義的支配体制に対する人民の闘争をそのポテンシャルを最大化すべく描き出している。映画のなかで、人民は闘う。街路に出て、物を投げ、行進し、怒りを表現する。たいまつを手にした人民が広場に結集する場面がクライマックスである。人民は傷つき、帝国主義的軍事力の前に敗北するが、挫けず闘い続ける。
映画は、まるで植民地主義とそれに対する民衆闘争の歴史の教科書のようで、アルゼンチン近現代史の学習に役立つばかりでなく、いま何を為すべきか、何を考えるべきかを示唆し、民衆闘争としての共闘へと誘う。この映画さえ観ておけば、とりあえず闘争の準備としては十分だ。こういう映画、日本でもできないだろうか。
『燃えたぎる時』は、鑑賞のための映画ではなく、実践のための映画であり、映画のなかでも「この映画は鑑賞のための映画でもなくスペクタクルでもない。この闘争が自分の闘争であると感じる人々のための映画である。……ここで映画を中断し、討論のための時間を開始しよう」と呼びかけられる。実際、アルゼンチンだけでなくラテンアメリカ諸国でゲリラ的に小規模な上映会が開かれ、その都度、参加者たちは映画を観て闘争の方針や戦術をめぐって議論を交わしたという。映画は、内容において閉じた作品としてではなく、内容と地続きの現在の社会的闘争と接続し、闘争をより豊かに実りあるものとするための行為=実践として機能した。
これが、ソラナスとヘティノがいうところの「第三の映画」である。ブルジョア的な世界観を伝道する「第一の映画」とも、ヌーヴェル・ヴァーグに代表される作家の自由な表現をめざした「第二の映画」とも異なる「第三の映画」。それは帝国主義に対する闘争の映画であり、植民地解放後も継続する支配体制に対する文化闘争としての映画である。映画は全体主義に奉仕するばかりの従順なメディアではない。民衆が映画をつくるとき、闘争は新しい局面を迎える。「カメラは、映像=武器のあくなき調達者であり、映写機は、1秒に24コマ打ち込む銃である」*。
* フェルナンド・ソラナス、オクタヴィオ・ヘティノ「第三世界の映画に向って―ハリウッド帝国主義に抗する戦闘的映画人のテーゼ―」山形国際ドキュメンタリー映画祭2015ビラ『ラテンアメリカ――人々とその時間:記憶、情熱、労働と人生』ビラ裏面
「第三の映画」が批判するのは、ハリウッド的な消費主義だけではない。制作のスタイルにおいても、独創的なアーティストと専門的テクノクラートによる技術と表現の独占体制が批判され、創造的な大衆の共同作業こそが「天才」や「芸術家」の神話を解体すべきことがめざされる。それは特別な指導者による革命の先導に対する拒否でもあり、真に創造的な大衆ラディカリズムの肯定でもある。
現在の日本の社会運動を想起させる場面がいくつもあるように思えた。第二部、第三部では暴力の問題が討論のトピックとして挙げられる。闘争のなかで暴力の行使をどう評価すべきか。物理的な暴力の行使は控えるべきだという立場もある。だが、映画のなかでは「暴力に対してはさらなる暴力を!」「抑圧に対しては愛による暴力を!」と呼びかけられる。暴力に頼らず合法的な手段によって政治的影響力を行使すべきだという穏健な見解に対しては、敵が剥き出しの暴力を行使しているなかで、話し合いによる解決を目指すのは馬鹿げている、合法性の罠に陥るな、と諭される。
非暴力が敵に利するだけでしかない状況では、暴力に対しては直接的な暴力こそがむしろ結果としての非暴力を実現可能にする。圧倒的に非対称な関係性においては、暴力を暴力だからという理由で否定することは、支配と抑圧への同調・強化を帰結するばかりであるだろう。戦車に対して透析する民衆の暴力は無力であるが、その無力な暴力を抑圧しようとする理屈に対しては納得してはいけない。
映画では具体的な手段についても教示される。軍事車両をパンクさせるために路上に釘を撒くのだが、その釘を互い違いに直角に曲げる細工を施す。こうすることで、道路に撒いたとき、どの角度でも尖った先が上を向き、タイヤをパンクさせることができる。きわめて実践的な、というか映画そのものが実践なのである。
「われらが時代は、命題の時代というより仮説の時代であり、絶えず進行する作業の時代である。一方の手でカメラを握り、他方の手に石塊を握りながら遂行する、終りもなく、秩序立ってもいない、荒々しい仕事の時代なのだ」**。
** 前掲ビラ。
これは革命映画の実験であり、文化の実験こそ、手探りの闘争を切り開いていくために必要とされている。1968年の宣言はいまも有効である。日本語字幕をつけて、いつでも誰もが観られる環境が整えられることを切実に臨みたい映画である。