Chapter 6 Contemporary Reservation Society: Multitemporality and Repetition

投稿日: 2012/04/20 13:14:38

(...) チリにおける今日のマプーチェ居留地は、19世紀後半にチリ政府に屈服させられたマプーチェの人々が、1910年代頃までに政府から割り当てられたレドゥクシオン(reduccion)と呼ばれる一連の土地に起源をもつものである。(...) 居留地体制への移行は、当然、マプーチェ社会に深刻な影響をもたらした。第一に、かつて広大な土地で粗放的な牧畜を行っていた彼らは、突如、各レドゥクシオンにつき100ha前後の土地の中で集約的な農耕と牧畜を行わねばならなくなった。こうした状況は、彼らに、チリ社会の生産技術を早急に吸収して全く新たな生業形態を樹立することを強いるものであった。第二に、チリ国家の政治・経済体制に組み込まれたことによって、人々は、居留地をとりまくチリ社会と人的・物質的・文化的レベルにおける接触を継続的に行うことがもはや避けられなくなった。居留地体制の中のマプーチェ社会はこうして、かつてとは大いに異なり、つねに周囲のチリ社会の圧力に抵抗しつつ自らを規定する社会として構成されることになった。第三に、居留地の体制への移行は、居留地内部の政治構造にも大きな影響をもたらした。とりわけ、居留地の認定は拡大家族の家長に対して行われたため、以後のマプーチェ社会は、階層化への力が大きくそぎ落とされた、きわめて水平的な社会となってゆく。

(...) 今日カラフケン湖西北部地域の居留地に住む人々は、居留地体制下でこうして再編成された「マプーチェ的なハビトゥス」と、それを外側から覆う「チリ的なハビトゥス」が交錯する中でその生活を営んでいる。そして後者は、スペイン語の日常的使用という事実にもみられるように、彼らの内面にまで深く侵入してきている。学校教育の浸透(カラフケン湖西北部地域の居留地内には数校の小学校が設けられている)は、そうした彼らの精神面における変化に関する一つの指標とみることができる(...)。現在の居留地社会を取り巻く様々な要因は、教育水準をさらに向上させてゆく傾向にあり、こうしたことは、彼らの内面をますます変容させつつあるということができるだろう。

(...) J・ベンゴアとE・バレンスエラは、マプーチェの経済に関するその優れた著作の中で、[1981年の調査に基づき]居留地のマプーチェの実質収入の平均的構成を示している。(...) まず気がつくのは、農業と牧畜が彼らの生業活動の二つの柱であり、しかも、農業が自家消費に片寄っているのに対して、牧畜は市場経済に片寄っているというという顕著な傾向が見出されることである。このような一般的傾向は、実は、歴史的な視点に立てば容易に理解することができる(...) マプーチェは17世紀以来ずっと、牛や馬などの牧畜を行ってこれをスペイン人に売るという活動を行ってきているのであって、(...) 農業が自家消費的で牧畜が市場志向的であるというのは、数百年間続いてきたパターンの継続なのである。。そのような意味でむしろ注目されるのは、給与収入が13.7%に上っているという事実である。19世紀末まで、広大な土地を占有していたマプーチェは、そこで飼育していた家畜を売るだけですべての必要な現金収入を得ることができた。しかし、「平定」後の居留地認定の際、彼らはかつての土地の約8/9を奪われた上、その後の人口増加に伴った土地の細分化によって、各世帯の所有地は更におよそ1/4(つまり統合前の1/36)にまで縮小している。今日の彼らは、牧畜のために十分な土地はもはや持っていないのであり、それゆえに近くの農園で働いたり、首都サンティアゴやアルゼンチンに出稼ぎに行って現金収入を補完しなければならないところにまで追い込まれている。そして、準原生林がまだ残っているカラフケン湖西北部地域の一部では、樹木を伐採して安価で売り出し、一時しのぎの現金収入を得る、などということも行われている。

(...) シュヴァリエのモデルを念頭に置きつつ[J. M. Chevalier, Civilization and the Stolen Gift]、ベンゴアとバレンスエラによる居留地のマプーチェの収入の平均的構成に関する統計に戻ってみよう。筆者の理解によれば、この統計は、居留地の人々の経済生活の中に、シュヴァリエのいう「非商品生産」、「単純商品生産」、「賃労働」という3つの生産形式が共存していることを示すものである。ここで、「非商品生産」は、基本的には、上記の表における「農産物による収入」の部分に、また「単純商品生産」は「畜産物による収入」と「民芸品・採集物など」の部分に、そして「賃労働」は当然ながら「給与収入」の部分に相当すると考えられる。(...) 居留地のこうした経済構造は、いうまでもなく、そこにおける社会的実践全体の構造と不可分に結びあうものである。明らかに、「非商品生産」は「マプーチェ的なハビトゥス」の経済的側面を表現するものであるし、また「賃労働」は「チリ的なハビトゥス」の経済的側面を表現するものである。それでは、「単純商品生産」は何に対応するのだろうか。次第に明らかにしてゆくように、実は、今日の居留地の社会的実践の中には、「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」のどちらにも完全に属さない、いわば「中間的なハビトゥス」とでも呼ぶべき両生類的なハビトゥスの働きが見出されるのであって、「単純商品生産」は、この「中間的なハビトゥス」の経済的側面を表すものとみることができるのである。

(...) 多くの論者は、市場経済の浸透によって前近代的社会はほとんど自動的に解体され、資本主義経済に統合されるとの見方をしていたが、世界各地で繰り広げられた現実のプロセスは、それほど単純なものではなかった。マプーチェの場合でも、人々は、牧畜の活動を通じてかなり昔から市場経済にある程度親しみ、そして今世紀を通じてさらに本格的に市場経済と接触してきたにもかかわらず、既にみたように、彼らの経済生活には今日も依然として多くの非資本主義的な部分が存在しているのである。C・スミスは、グァテマラの民芸品製作者の経済に関するデータを踏まえつつ、市場経済の階級分離的な力は、ひとたび労働者が生産手段から切り離された後にはじめて発揮されるのであって、自然な条件下では(例えば政府による介入などが行われない場合には)、非資本主義的な生産形式が資本主義的生産形式によって駆逐されることはない、と論じているが(...)、その主張には確かに首肯しうるものがある。

ただ、問題はおそらく、スミスのいう「政府による介入」というものが、スミスが例として挙げるエンクロージャーのような暴力的な手段ではなくて、居留地体制成立後のチリ政府が行ったような「合法的」で、ある意味で「人道的」でさえある諸手段を通じても、かなりの部分なされうるものだということである。つまり、例えば、チリ国家の法規の定める医療面での補助のおかげで、マプーチェ居留地における人口は急速に増大し、しかし他方で居留地の土地を拡大することは不可能であるため、結果として居留地が閉鎖的な経済を営むことはますます不可能になってきている。また、やはりチリ国家の法規に従う最低限の学校制度の普及によって、人々の内面もまた、次第に資本主義的・近代的時間性に向かって開かれてゆくことになる。そして、こうした一連の事柄は、現金収入の必要性の増大、都市への移住の増大を生み、全体として居留地の内と外との人的・物的・文化的交流をますます増大させてゆく。一言でいうなら、マプーチェ居留地がチリ国家の政治経済的枠組の内にある以上は、暴力的どころか、ある意味で模範的とさえいえるような政府の政策が、間接的な形で居留地の経済を資本主義化に向かわせる圧力として働かざるをえない、ということであり、それゆえに、スミスの見解の正当性を認めたうえでなお、マプーチェ居留地において、資本主義的時間性が今後さらに深く浸透してゆくことは、ほとんど避けることができない事態であると考えられるのである。もちろんこのことは、マプーチェ的時間性が完全に払拭されることとは、必ずしも同義ではないのであるが。

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(...) カラフケン湖西北部地域の今日のマプーチェは、居留地においても、時には靴を履き、時には裸足で歩く。子供たちは時にはサッカーで遊び、時にはパリン(マプーチェ式ホッケー)をする。町で買ってきたパンを食べるかと思うと、小麦をトーストして砕いた、昔ながらのムルケ粉をおいしそうに食べる。普段は古びた洋服を着ているが、雨がちの日にはその上にポンチョを着る。多くの家庭で大抵の会話はスペイン語でなされるが、老人がいるときや形式ばった会話ではマプーチェ語が使われる。人々の日常生活においては、このようにして、マプーチェ的なものとウインカ的なものが様々な形で混じり合っており、その混じり合いが、いわば彼らの生活の基本的なスタイルとなっている。状況に応じてマプーチェのものやウインカのものを様々に取り混ぜて用いるという行動の様式は、ちょうど、状況に応じて商品を自家消費したり市場に販売したりする「単純商品生産」の生産様式と同様に、彼らの間で、既に一つの安定した習慣となっているのである。

(...) こうした「中間的なハビトゥス」において、マプーチェ的なものとウインカ的なものがいかに自然な形で共存しているかは、例えば、人々の墓との関係をみるならばよく理解することができる。かつて、マプーチェの墓には、マプーチェ式十字架が一本立てられていただけであったが、今日では、大半の人々の墓は、周囲のチリ人たちのそれと同様、木製の小ぎれいな枠で囲われたものとなっており(しばしば屋根をつける)、墓標には「ここに○○の遺体静かに眠る」などとスペイン語で書かれている。人々は、カトリックの習慣に倣って、毎年11月1日(諸聖人の日)または11月2日(死者の日)に墓参りを行い、自分の親族の墓にロウソクを立てて花を飾る。しかしながら、彼らが死者に向かって祈りを捧げる瞬間、こうした一見チリ的な実践の内奥に隠れていたもう一つの現実が表出することになる。すなわち、彼らは、墓にロウソクと花を飾ったあと、瓶に入れて持参していたムシャイ酒を取り出し、それを墓に向かって「霧化」しながら、マプーチェ語で、大きな声をあげてニヤトゥンの祈りを行うのである。つけ加えるなら、人々が墓地に入る機会はこれ以外にもう一度だけあるが、それはカマリクンの時の「墓地への挨拶」であって、この時には、墓地はきわめて濃厚にマプーチェ的な空間と化すことになる。

(...) それでは、「法則の静かな国」としての「中間的なハビトゥス」の宇宙論的イメージとは、いかなるものであろうか。実際、「中間的なハビトゥス」は、何らかの宇宙論的イメージを持つことによってはじめて、「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」の一時的な混合ではなく、一つの安定した構造をもった「法則の静かな国」として成立しうるはずである。筆者の理解によれば、この両生類的な「法則の静かな国」の宇宙論的イメージは、次に述べるように、この地域で布教活動を行ったカトリックのカプチン修道会によるマプーチェの宗教の「再解釈」を、マプーチェの人々がさらにもう一度「再解釈」し直すなかで形成されたものである。

(...) 「湖」の祈り手は、マプーチェの洪水神話(cf.1.3.3.2.)について筆者に説明する中で、次のように述べた。マプーチェの伝承は、洪水によって人間たちが罰せられたとき、ツェンツェンの丘が天に向かって伸びて行くことによって、そこにあらかじめ避難していた信心者が救われた、と教えている。私は、聖書の中に、やはり同じように洪水があって、信心者のノアが箱船がに乗って助かったという話があるのを知っている。おそらく、天上の神は、それぞれの地方で、それぞれの仕方で、信心者を救ったのだろう。だから、マプーチェにとってのツェンツェンの丘というのは、聖書のノアの箱船と同じようなものなのだ。 (...) 例はほかにいくつも挙げることができる。これら一連のコメントに共通しているのは、天上の神はそれぞれの集団にそれぞれの教えを与えたのであって、マプーチェとウインカは様々な点でお互いに異なってはいるが、究極的には同じ神を信じているのだ、という、いわばエキュメニカルな宇宙論的イメージである。

(...) これらの[カプチン修道会の]神父たちは、もちろん、マプーチェの儀礼を廃止してキリスト教に導いてゆくことを究極的な方針としていたが、そのための経路として、しばしば、マプーチェの宗教を旧約聖書におけるユダヤ教と同類のものとみなすという立場をとった 。 居留地体制に組み込まれる中で、ますます勢力を拡大してきたキリスト教と、自分たちの宗教的実践との矛盾の中で大きく動揺していたと考えられる今世紀前半のマプーチェたちにとって、この説明は、きわめて好都合なものであっただろう。そして、カプチン会神父たちにとって皮肉なことに、おそらく大半のマプーチェはユダヤ教とキリスト教の区別など理解しなかったから、ユダヤ教からキリスト教への進展と同じようにしてマプーチェの宗教からキリスト教へと進まねばならない、という神父たちの複雑な論理は、彼らの耳には届かなかったと考えられる。彼らは逆に、神父たちの説明を通じて、つきつめればマプーチェの宗教はキリスト教(ユダヤ教ではなく)の一つのヴァリアントなのだ、だから、キリスト教は敬意を払うべき宗教ではあるが、同時にマプーチェの宗教もまた正しい宗教なのだ、というふうに理解したのだろう。そして、彼らの境遇を見事に説明してくれるこの理論は、きわめて容易に、マプーチェの人々の間に浸透していったのだと考えられる。

(...) しかし、人々がこの「中間的なハビトゥス」によって完全に満足しているわけではない。それは、本質的に「中間的な」ものである以上、マプーチェの人々にとって、彼らの存在の究極的な拠り所を与えてくれるものにはならないのである。それゆえ、完全にウインカになることもできない彼ら(少なくとも彼らの大半)は、どこかで最終的に「マプーチェ的なもの」に寄りかからざるをえない。そしてそこに、「マプーチェ的なハビトゥス」が存続する意義が生まれてくる。

(...) ところで、ここで注目すべきことは、「マプーチェ的なハビトゥス」の方も、本来的に「中間的なハビトゥス」のようなものをある程度許容するものだということである。なぜなら、2.3.でみたように、「想起の原理」によれば、地上界における天上界の秩序の模倣は、基本的に不完全なものであって、それゆえ、地上の人間がマプーチェ的な論理に完全に従わないで行動することは、ある範囲内では不可避なことだからである。この点で特に注目されるのは、2.3.4.でみた秩序の周期的回復という論理であって、つまり、地上界の秩序は時間と共に次第に零落してゆく傾向にあるが、神の意志の反映のもとに、ある時点で再び最初の状態が回帰する、ということである。このような秩序の回帰のきっかけは、非常にしばしば、家族の病気や不幸といった事件の中で生まれてくる。この点は 6.3.で詳細に検討することになるが、結論的に言えば、家族の病気や不幸という事態を前にして、こういうことになったのは、自分がふだんマプーチェ的な伝統を守ってこなかったからではないか、ウインカ的なものに知らず知らずのうちに傾いてしまったからではないか、という考えが彼らの脳裏を駆けめぐる。(...)

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(...) 「想起の原理」に基づく天上界の模倣は、2.3.3.で述べたように、完全なものではありえず、人間は常に過ちを犯す危険にさらされている。そして、神や精霊を相手に、「過ちを犯す」(yafkan)、「間違ったことを言う」(weludungun)、あるいは「間違ったことを行う」(welutrekan)ことは、その報いとして自らの死をも招きかねない、たいへん危険なものと考えられている。(...) このような一見些細にみえる「過ち」が、何故これほど重大な結果を招くと考えられるのであろうか。それは、神や精霊たちは、自分が忘れられたり粗末に扱われたりすることにひどく腹を立てると考えられているからである。このマプーチェ的な「過ち」の概念は、基本的には、道徳性とは無関係なものである。(...) マプーチェの神や精霊にとって、「過ち」は情状酌量の余地なく「過ち」なのであって、一度犯されてしまった以上は罰を免れる余地はないものだということである。マプーチェの神や精霊は、マプーチェの人々自身と同様に)、自らが軽んじられることを極度に嫌う存在であり、彼らに対する「過ち」の重大さは、基本的には、その行為の動機とは関係ないのである。

(...) 今日の居留地に住む人々は、「マプーチェ的なハビトゥス」と「中間的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」が隣合わせに共存する多時間的な世界に生きており、そのどれを欠くこともできない。このような状況は、日常生活においてはそれほど不都合を感じさせないにせよ、根本のところで人々をどこか落ち着かなくさせるものである。そうした不安は、自らの存在を揺さぶられるような何らかの出来事を機に、人々の中に表面化してくるのであるが、「過ち」の概念は、まさにそうした局面において、一つの強力な説明原理として機能することになる。『マプーチェたるもの、ウインカの物事にあまりに首を突っ込むならば、過ちの連鎖に捕らわれて、いずれ悲惨な結末を招くことになってしまう』...

(...) こうして、多時間的混在を生きる彼らの中では、ある種の、かなり強制的な伝統維持の心理的メカニズムが成立していることが明らかになってくる。つまり、マプーチェ的な時間性とウインカ的な(様々な)時間性との間で引き裂かれたマプーチェの人々の内面は、潜在的な存在論的不安に囚われており、それがしばしば、伝統的な「過ち」の概念によって決定的な形を与えられることになる。その結果彼らは、ある面において、自分はマプーチェの神や精霊に対して何か重大な「過ち」を犯してしまったのではないか、という不安にいつも駆られながら、日々の生活を送ることになるのであり、それがマプーチェ的な伝統を彼らに維持させる強い推進力となっているのである。今日のカラフケン湖西北部地域において、マプーチェ語の使用を含め、日常生活の中でマプーチェ的なものがますますウインカ的なものに浸食されつつあるにもかかわらず、3.2.でみたような複雑きわまりないカマリクン儀礼が現在も維持されていることは、もちろん、こうした罰への恐怖感と無関係ではありえないだろう。

(...) 古典学者E・R・ドッズは、『ギリシア人と非理性』の中で、ホメーロス的な世界(前8世紀以前)からアルカイック期のギリシア(前7~5世紀)にかけての宗教的変容について論じている(Dodds 1963[1951]:1-63)。ドッズによれば、ホメーロスの英雄たちの行動は、神々の力によって支配されていたが、そうした介入は神々の気まぐれに基づくものであって、そこに道徳的な意味合いはなかった。しかし、前7~6世紀のギリシアの政治経済的激動の中で、より道徳的な性質をもった「罪の文化」とでもいうべきものが生まれていったのである。ここで考察してみたいのは、マプーチェ社会を取り巻く今日の状況が、ある意味でこれと類似した方向での宗教的変容をもたらしつつあるのではないか、ということである。

(...) 「過ち」という行為の持つ意味の変化は、この点を明確に示すものである。6.3.1.でみたように、マプーチェにとって、人間がそもそも「過ち」を犯すのは、良からぬ精霊に支配された結果、神や精霊を立腹させるような行動を起こしてしまうからであった。つまり、論理的に言えば、「過ち」を犯している際に本人は主体的にそれを行っているのではなく、悪霊に支配されているのだということになる。しかし今日、人々の生活の中にウインカの物事が全面的に侵入し、「過ち」を犯すことがマプーチェの物事をおろそかにすることと事実上同義になってきているという状況は、人々の「過ち」についての考えにも微妙に影響を与えてきているということができる。なぜなら、こうした状況の中では、マプーチェの物事を尊重し続けるか否かは、悪霊の支配に関わる問題というより、何よりも個人の主体的選択と関わった問題であることは、誰の目にも明らかだからである。

(...) このことはおそらく、次の印象的な事実と無関係ではないだろう。つまり、今日のマプーチェの人々の間では、「過ち」(yafkan)という言葉に代わって、スペイン語からの借用語である「罰」(castigo)という言葉がより多く用いられるようになってきているのである*46。例えば、事例50の若者の言葉を思い起こそう。「マプーチェである以上は、ウインカに染まりすぎれば罰を受けることは避けられない。僕はそのことを身をもって知っている」。彼は、居留地の外で、ウインカの人々と一緒に賃金労働に従事する中でも、そうした生活がマプーチェとして正しいものではないという負い目をどこかで持っている。それは、悪霊の影響で心ならずも犯してしまう「過ち」とはほど遠いものであり、確かに、「罰」という言葉こそが、彼のこうした負い目を最もよく表現してくれるものなのである。

(...) もちろん、居留地の中で暮らしているマプーチェの人々にとっても、事情はそれほどかわらない。彼らは、日々の生活の中で、それが必ずしも祖先の教えと合致するものでないことを知りつつも、「中間的なハビトゥス」や「チリ的なハビトゥス」に従って行動をせざるをえない。「草原」のあるマプーチェは、様々な人の被った罰について話していた時、筆者に向かって次のように言った。「私たちは、誰一人例外なく、何らかの罰を背負って生きているのです。私たちの生活はウインカの物事だらけになってしまっているから、これはもう避けようがないのです」。リクールは、罰が予期され、内化され、あらかじめ意識の上にのしかかってくるような状態を、罪性(culpabilite)として捉えている(Ricoeur 1988[1960]:256)。マプーチェの人々にとっての「罰」もまた、今や、「予期され、内化され、あらかじめ意識の上にのしかかってくる」ようなものになっていることは、疑い得ない事実なのである。

(...) 伝統的な宗教的実践が袋小路に入り込む中で、もし「湖」の祈り手のようにほとんど英雄的な伝統主義を奉じるのでないならば(しかし、事例49のマヌエルのように、無知ゆえにすぐに過ちを犯してしまう大半のマプーチェにとっては、こうした伝統主義はしばしば自殺行為と化してしまう)、何らかの形でマプーチェの宗教体系自体の改変を求めてゆかない限り、未来は完全に閉ざされてしまう。そのような意味で、セバスティアン(事例5)による精霊信仰の批判、アントニオ(事例52)とパブロ(事例53)によるプロテスタントへの改宗は、確かに、このような状況の中から何とか出口を見出そうとする試みとして理解することができるものである。

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(...) 1950年代から60年代にかけての時代は、カラフケン湖西北部地域全体において、旧来の信仰体系が大きく揺さぶられたと考えられる時期だからである。事実、儀礼場に悪霊が住んでいるので「掃除」しなければならない、というような騒ぎは、この時期に、「丘」だけでなく「草原」でも起こっているし、また、「川」では、それより少し前から、「青い少女」の住処であるところのコナ・タフの丘に悪霊が住んでいるとする見方が広まっている(6.3.1.の事例45を参照)。さて、こうした動きが発生していた1950年代から60年代にかけての時期に、「丘」で、パンギプジのカプチン修道会の後押しのもとに、礼拝堂ができ、学校ができているのは、明らかに偶然の一致ではない。カプチン会は、一方で、6.2.2.2.でみたようなエキュメニカルなマプーチェの宗教の解釈を広めつつ、他方では、そうしたマプーチェの宗教の中のとりわけ精霊信仰あるいは祖霊信仰の部分を除去し、最終的にカトリックのミサに人々を導いてゆくことを目指していたのであった。

(...) こうして、「丘」の儀礼場を「掃除」し、別の儀礼場を作る、という、あたかも純粋にマプーチェ的な物事の領域で起こったかのようにみえる事件は、実は、カラフケン湖西北部地域への「中間的なハビトゥス」・「チリ的なハビトゥス」の浸透という歴史的なプロセスの中で生起したと考えることができる。「文明化」の担い手であったアンブロシオが、「丘」の人々が犯したこの一連の「過ち」に自ら関与したのも、その意味では当然のことであったのである。彼らは、周囲のチリ社会と折り合いをつけながら暮らして行くことが不可避となってくるなかで、読み書きを学ぶことは不可欠であり、またそうしたマプーチェの必要に答えようとしていた唯一の集団がカプチン会のミッションであった以上、彼らと手を結んでゆく以外には方法はなかった。しかし、そうした形でウインカの物事を導入してゆくことは、知らず知らずの内にマプーチェの物事を扱う彼らの思考と行動にも影響を与えてゆく。ここまでくれば明白なように、儀礼場をめぐる「丘」の人々の「過ち」の構造は、6.4.2.でみた、祈り手を務めるように求められた時のアンブロシオの「過ち」の構造と完全な同型をなすものであり、それは、今日のマプーチェの人々が抱えている、存在の条件の根源的矛盾を表現するものである。アンブロシオと「丘」の人々は、今日の状況の中での自らの生活を何とか改善するために、「文明化」を行ってゆこうとする。そしてそれは、他方で、ほとんど不可避的に、マプーチェの神と精霊を怒らせる行動へと彼らを導いてしまうのである。

(...) 「一体、神は何故マプーチェなどというものをお造りになったのだろうか?」というマルガリータの言葉、また、「しかしお前は、祈り手になる運命にあるのだから、それに逆らうこともまた危険なのだ」というホベルに対するイリスメニアの言葉が、どこかギリシア悲劇を想起させるような響きを含んでいることは、まさにこのような角度から理解することができるだろう。リクールは、「悲劇(tragedie)とは、『悪意ある神』(dieu mechant)と『英雄』(heros)という二重の問題性を、破綻の地点にまで高揚させるなかで生まれるものである」と述べている。マプーチェの人々が、今日の彼らの存在の条件の中で、いつも自らの犯した「過ち」に苛まれる運命にあることに気付くとき、彼らの神はほとんど「悪意ある神」であるかのようにもみえてくる。しかし、彼らは、そうした運命の中で、自分にできる限りのことを行う以外にないのである。神の怒りを買う危険を犯しながらも、「丘」に学校を作って村人たちに読み書きを広めようとしたアンブロシオ、そしてその遠い結末として、長い間病床に伏した末に息を引き取ったアンブロシオの姿には、確かに、どこか「英雄」的なものが漂っているということができよう。それはあたかも、ゼウスの怒りを買う危険を犯しながら人間に火と文明をもたらし、その結果として岩山に縛り付けられた、アイスキュロスの描くプロメテウスのようであると言えば、誇張になるであろうか。

(...) しかし結局は、アンブロシオは一人の人間であって、プロメテウスのような英雄ではない。プロメテウスが本質的に自発的かつ積極的な行為として火と文明を人間にもたらし、そして悲劇的な運命を甘受したとすれば、アンブロシオが「丘」に学校と文明をもたらした行為は、今日の状況になんとか適応するための、ある意味で受動的な行為に過ぎず、そこに勇敢さはあっても、プロメテウスのような偉大さは存在しない。一言でいえば、アンブロシオの悲劇には、ニーチェがかつてギリシア悲劇の中に見出したような「喜び」と「自己肯定」が、ほとんど欠けている。そして、それゆえに、このマプーチェ的な悲劇のあとには、ただ重苦しさだけが残るのである。