Chapter 2 Imitating the Celestial Order: the Principle of Reminiscence

投稿日: 2012/04/20 13:19:51

M・エリアーデはかつて、古代的人間(homme archaique)にとって「人間の行為の意義や価値は、(・・・) その原初的行為の再生、神話的範例の反復としての性質にある」と書いた。この定式は、マプーチェの伝統的ハビトゥスにおける中心的な同一性原理にもほぼ完全に当てはまる。「全ては天上界で完成しており、我々、地上界の人間は、それを型どおり繰り返すだけである」、これはエリアーデの本からの引用ではなく、「湖」村の祈り手が筆者に力説した言葉である。 マプーチェの人々は、この神話的模範の反復の原理を指すのに、しばしば「コヌンパン(konumpan)」という言葉を用いる。その第一義的な意味は「想起すること」であるが、マプーチェの人々にとって、これはただ記憶を呼び起こすことではない。夢や幻覚をみること、祈りや神話的伝承を唱えること、神や霊的存在に対して捧げものを行うこと、儀礼の踊りを行うこと、など様々な事柄が、この意味深い言葉に全て内包されているのである。2章の中心的主題は、同一性原理としてのコヌンパン(あるいは想起)の全体を把握することである。

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(...) マプーチェの人々は、夢のみならず、ペリモントゥ[白昼夢ないし幻覚]や、病気や近親者の死、天災などを、神と霊的存在の意志の反映であると考えて、いつも注意を払い、それらの事件を通して神や霊的存在が人間に対して放っているメッセージや知識を受けとめようとする。 (...) しかし、夢・幻覚・病気などを通じて神や霊的存在からメッセージを与えられることを、マプーチェの人々は何故、「思い出す」と表現するのであろうか? それは、一言で述べるならば、事例5や事例6からも分かるように、このような形で得られるメッセージや知識は、本来的には、個人個人の人生を超越したレベルで存在するところの、古いメッセージ、古い知識であると考えられているからである。実際、マプーチェにとって、 (...) 「全ては天上界で完成しており、我々、地上界の人間はそれを型どおり繰り返すだけである」のであり、また「湖」村のシャーマンが筆者に確言したように、「新しいものは存在しない (We dungu ngelai)」。正確に言うなら、それらの知識が、口頭伝承という形で一度既に修得されたものであるか、そうでないか、というような問題は、マプーチェにとっては問題ではない。大事なことは、それが既に最初から、つまり原初から存在していた知だということであり、だからこそそれはつねに「想起」されるものとして理解されるのである。

(...) これまで述べてきたことを総合して、マプーチェの人々にとってのコヌンパン、つまり想起のより深遠な定義を述べるなら、それは、(1)天上界の「既に知られている」言葉と物とが、夢などの現象を通して人間の前に立ち現れ、それを人間が認識する(つまり「想起」する)こと、(2)その認識を、然るべき時が来るまで忘れないで保持すること、そして、(3)神(あるいは霊的存在)の意志に従った時と場所において、神(あるいは霊的存在)の意志に従った形で、それが行為に移されることである。そのような形を通してはじめて、天上界の言葉と物とは、地上において可能な限りの形で反復されるのである。それは、過去の記憶を喚起する、という単純な思考過程とは極めて異なった行為であって、身体全てをもって、そして宇宙全体との関わりにおいて天上界の秩序を反復する、という行為だということができるであろう。

(...) マプーチェの人々が、あたかも民主主義の原理を模倣するかのように、事あるごとに議論を通じて物事を解決しようとするのは、きわめて興味深い現象である。我々はここで、またもやプラトン主義との類似しつつ相違する関係に出会うのである。プラトン主義における対話(dialogos)は、論理(logos)を通して(dia-)真実の「想起(anamnesis)」を促すものであった。マプーチェの対話(nutramkan)は、厳密にはダイアログではない。対話者の語りは、二者の間でロゴスを参照点としつつ交わされているのではなく、語りの背後に存在する「古い語り」(kuifi ngutram)を共通の参照領域として交わされているものであり、それは、この「古い語り」を通して、神の真実を共同的に想起(konumpan)しようとする試みなのである。

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このように、マプーチェの人々は、一方で神の意志を反映した自然現象に従いつつ、他方で夢・口頭伝承・占いによって「想起」される真実、それ自体神の意志であるところの真実に従いながら、地上界での生活を営んでいる。それは、大枠において天上界の秩序を反復するものである。しかし、ここで、地上界における天上界の模倣は、決して完全ではありえない、というきわめて重要な点を確認しておかなければならない。この地上界の不完全性は、少なくとも次の三つの側面をもっている。つまり、(1)人間は過ち(yafkan)を犯す存在であり、これが地上界の不完全性の原因である、(2)人間の中には無能力な者が多くおり、それゆえ地上界では過ちは始終なされることになる、(3)完全である天上界と不完全な地上界は様々な形で「仲介」されなければならない、ということである。

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(...) 先ほどは、ガスリーの文章を引きながらマプーチェの神概念を古代ギリシャの神概念と関連づけたが、ここでは、ハヴロックの古代ギリシャの神格に関する指摘が、マプーチェの神概念についての我々の理解をさらに深めてくれる。古代ギリシャの叙事詩の世界は多神教の世界 (...) であり、それぞれ特徴をもった神が登場して、様々な事件の動因をつくることになっているが、ハヴロックは、このような世界観は、叙事詩が語られる形で記憶され伝承される状況にきわめて適合したものであると考える。「多神教は、季節や気候、戦争や災害、人間心理、歴史的状況などの、現実上の多様な経験を、一神教よりもずっと生き生きと描写することを可能にする。なぜなら、多神教の中では、多様な現象の各々を特定の神-その現象だけを活動範囲として他の現象には関わらないような神-と関係づけることができるからである。こうして、外界の動きや人間自身の衝動の内的働きを単純化してしまう危険を避けることができる」。そして、これらの多様な神々は、「物事の因果関係を、聞き手が(感情的)同一化できるような言葉の形式に転換するための道具を与える。物事の因果関係は、こうして模倣可能、記憶可能になる。因果関係の複雑さは簡素化され、抽象的な要因は、強力な人々の介入という形に全て結晶化されるのである」。 (...) 一であるはずの至高神が、マプーチェの祈りや語りの中で、多なる形をとってつねに言及され、そしてその多なる形のそれぞれが、あたかも人格的実在であるかのように「父・母・若者・乙女」というセットと組み合わせて言及される、ということは、様々な自然・社会現象を、過度に単純化することなく説明するとともに、感情的同一化が可能で記憶しやすいような形で描写することを可能にする、きわめて巧妙な手段である、と考えられる (...)

ただ、同時につけ加えておきたいのは、このような機能主義的な説明は、クリビルやガスリーの、より内側からの見方に近い説明によって補われる必要があることである。なぜなら、人々がこのような形で神の多様な表現を捉えることは、それが一方で明らかに口承的心性の支配する世界における記憶の便という問題と関わっているとしても、他方では、確かにそれだけにとどまらないものをも含んでいるからである。つまりそれは、疑いなく、神というもののもたらす感動や畏怖を、何か決まりきった解釈の枠組に還元するのではなく、その多様性・具体性のままに、述語的に理解しようとする、一つの立派な宗教的経験の様式なのである。