Chapter 1 Introduction

投稿日: 2012/04/20 13:20:47

この論文は二つの主な目的を持っている。第一の目的は、マプーチェの人々の社会文化的的実践の体系が、現在いかなる形で生きられ、また未来に向かっていかなる形で展開しうるかを、その体系がもつ生成的な可能性をできるだけ盛り込みながら把握し、記述することである。もちろん、ある社会文化的実践の体系を完全に生成的な形で把握することは、原理的に言って不可能な作業であり、それを近似的な形にせよ実現するためには、何らかの入念に準備された理論装置が必要である。論文中で導入される「反復」の概念は、まさにそのような理論装置としての役割を果たすはずのものであって、論文の第二の目的は、この「反復」の概念が、社会文化的実践を生成的な形で把握し、記述してゆくための装置として、きわめて有効に機能しうることを、その様々な具体的適用の中で示すことである。

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民族誌とは、個々の文化についての叙述的研究であるといわれる。ごく最近まで、この定義の意味するところは、民族誌家にとってほぼ自明なものだったはずである。しかし、マルクスとエンゲルスがかつて「あらゆる堅固なものが空気の中に溶けてゆく」と形容した近代社会のダイナミズムは、現在、世界のすべての社会をますます激しく、そして絶え間なく揺り動かしている。比較的静かなところに身を落ちつけて個々の文化の込み入った仕組みを記述する作業に従事することの多かった民族誌家も、そうした文化自体が「空気の中に溶けてゆく」プロセスの荒波の中で揺り動かされている事実を無視することは今や不可能になってきているといえる。今日の民族誌家は、もはや精巧なジグソー・パズルではなく、動くたびに模様を変える万華鏡の世界のように捉えがたい「文化」と直面しつつあるのであり、そうした中で、民族誌家の認識の対象としての文化の概念そのものが再考を迫られていると言っても過言ではないだろう。

(...) 社会的生成は、本当にブルデューが考えるように、生存のための諸条件と実践(pratique)の間の、客観的な両立と適応の関係に基づいた相互作用によって理解しうるものであろうか。筆者はこれに否定的な答を与えざるをえない。実際、社会の根本的な変化の局面の中で、生存のための「客観的」な諸条件自体が疑問に付されるような状況を考えるなら、そこで「物質的であれ象徴的であれ利潤の最大の極大化を目指す経済的実践」というような原則が宙に浮いてしまうことは明らかだからである。スペインの哲学者E・トリアスは、(社会が)「その臨界点、回帰不能の地平に到達するとき、(・・・) 一連の精神的価値を基盤とした社会がもはや了解することのできないような、事例性・特異性・変則性・怪異性が、むき出しの直接性をもって現前する」と書いている。確かに、こうした究極的な変化の局面においては、実践(praxis)は、時代や階級に固有のスタイルとは無関係に、その「むき出しの直接性」において把握する以外にない。そして、この「むき出しの直接性」こそ、ブルデュー理論があえて近寄ろうとしない、実践(praxis)の原初的な姿なのである。

(...) ブルデューは、社会学的法則性を導くことを主な関心としてもっていたために、ハビトゥスを一つの全体として扱い、その内的構造を解明しようとすることはなかった。しかし、具体性・直接性に向かおうとするならば、彼がハビトゥスと呼んだものの内側に目を向けなければならない。 少し考えれば分かるように、ハビトゥスの内的構造は、決して単純なものでも均質なものでもありえない。実際には、その中に、身体=生理的な習慣性のレベルから、身体の社会的な習慣性のレベル、無意識的な習慣性のレベル、そして様々な種類の社会的言説=実践のレベルまで、いくつものレベルに及ぶ実に多様な習慣性を包み込んだものであるはずである。こうした多様な習慣性は、いうなれば、それぞれ「持続性をもち移調が可能」である特徴を持っているという点でのみ共通するものであって、それらが全体としてのハビトゥスの内部で相互にぶつかり合い、影響を与え合う中で、最終的に、かろうじて一つの体系をなしているかのような外見を与えているものであるといえるだろう。ブルデューはおそらく、こうした複雑な総体を相手にするのを避けるために、ハビトゥスの内的構造に深入りせずに、全体としての構造のみを語ろうとしたのである。しかし、ひとたび社会学的境界の彼方に向かう決意を行ったならば、何が出てこようとも、あくまでも現実に密着した形で考察を続けてゆかねばならない。

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(...) 少し考えれば分かるように、ハビトゥスの内的構造は、決して単純なものでも均質なものでもありえない。実際には、その中に、身体=生理的な習慣性のレベルから、身体の社会的な習慣性のレベル、無意識的な習慣性のレベル、そして様々な種類の社会的言説=実践のレベルまで、いくつものレベルに及ぶ実に多様な習慣性を包み込んだものであるはずである。こうした多様な習慣性は、いうなれば、それぞれ「持続性をもち移調が可能」である特徴を持っているという点でのみ共通するものであって、それらが全体としてのハビトゥスの内部で相互にぶつかり合い、影響を与え合う中で、最終的に、かろうじて一つの体系をなしているかのような外見を与えているものであるといえるだろう。ブルデューはおそらく、こうした複雑な総体を相手にするのを避けるために、ハビトゥスの内的構造に深入りせずに、全体としての構造のみを語ろうとしたのである。しかし、ひとたび社会学的境界の彼方に向かう決意を行ったならば、何が出てこようとも、あくまでも現実に密着した形で考察を続けてゆかねばならない。

(...) ここでは、筆者は、ハビトゥスについて次の二つの予備的な仮定を行って、そこから民族誌についての新たな方法を模索しようと思う。(1) ハビトゥスのもつ「持続性をもち移調が可能な」特性は、ハビトゥスが、「同一性」と「反復」という、相互に深く関係しあった二つのものの混合物(すなわち{同一性+反復})から構成されると考えることによって理解することができる。 (2) 人間の行動は、様々なレベルの{同一性+反復}のセットが、人間に対して多重的に作用することによって生み出される。ハビトゥスとは、こうした {同一性+反復}の諸セットの働きの総和にほかならない。

(...) 同一性とは、一般に、「A=A」ということであるが、ここではこの等式を、左右対称な等式ではなく、「左項は先在する右項AによってAとして定義された形で存在する」ことを意味するものとして理解する。そして、そのような「A=A」の関係を成立させ、あるいは持続させる力を「同一性の原理」(あるいは単に「同一性」)と呼ぶことにする。さて、このような同一性の関係及び原理に対し、他方でもう一つの関係「A'–A"」を考え、これを反復と呼んで、「左項A'は右項A"に類似する」として理解することにする。この反復の関係において注意すべきことは、(i)「A=A」の場合と異なって、ここでは、右項と左項の関係は相互的であること(つまり「左項A'は右項A"に類似する」ことはまた「右項A"は左項A'に類似する」ことでもあること)、(ii)反復においては、同一性におけるように関係と原理が明確に区別されないこと(つまり反復は関係であると同時に原理でもある)、の二つである。( (...) この「反復」の概念については5章でより根本的な理論的検討を行うことになる。しかし、そのためにはいくつかの準備が必要なので、ここでは、不十分ではあるが、上の導入的な定義を与えるにとどめておく。)

(...) 「マプーチェ的なハビトゥス」は、基本的に、「想起(konumpan)」の概念を核とする同一性原理(以下では「想起の原理」と呼ぶ)、「力(newen)」の概念を核とする同一性原理(以下では「力の原理」と呼ぶ)、そして「水平性の原理」と呼びうるような同一性原理の三つの原理から構成されるものと考えることができる。この三つの原理のうちで、今日、最も表だったイデオロギーとして存在しているのが「想起の原理」であり、 (...) 2章において語りと宇宙観の問題を、3章において儀礼体系の問題を取りあげながら、この「想起の原理」を詳細に検討してゆくことになる。 しかし、3章の検討は、彼らの儀礼的実践が、実は、「想起の原理」とともに「力の原理」とも深く関係するものであることを明るみに出すであろう。 (...) 3章の後半では、歴史的文献やトゥピ=グァラニー諸族についての人類学的文献などをも参考にしながら、今日のマプーチェの人々の言説の中でしばしば覆い隠されがちなこの「力の原理」の本質を解明することを試みる。 このようなイデオロギー的領域における二つの同一性原理は、ある時には共存して相補的関係を営み、ある時には対立し合う。4章の主題は、人々の日常生活を形成するところの親族と政治の領域において、二つの同一性原理がいかなる形で絡み合いながら彼らの実践を生み出しているか、というものである。4章における人々の日常的な社会的実践の検討は、さらに、ほとんど言説化されることがないがしかし重要性において決して劣ることのないような第三の同一性原理、すなわち「水平性の原理」について考察を行うことを余儀なくさせるであろう。

(...) 続く5章は、論文の前半と後半をつなぐ蝶番的な章であるとともに、論文全体の理論的な基盤を据え直す章でもある。そこでは、それまでの「マプーチェ的なハビトゥス」についての検討を経験的な素材の一部として利用しつつ、「反復」という現象を我々がどのように理解し、その理解を社会の生成的過程の把握にどのように役立てることができるかを、理論的に検討することになる。この章で筆者は、哲学者G・ドゥルーズの「反復」に関する議論を土台としつつ、独自の理論構築を行って、この概念を、社会現象一般を生成的な形で把握するための理論装置として鋳造しなおすことを試みる。

(...) 6章では、2~4章の民族誌的考察と5章の理論的考察との上に立ち、今日のカラフケン湖西北部地域における「居留地的なハビトゥス」の全体を概観することを試みる。この章の前半では、彼らの経済生活・政治生活・日常生活・精神生活の様々な側面において、「チリ的な諸ハビトゥス」と「中間的なハビトゥス」が、「マプーチェ的なハビトゥス」といかなる関係を営みながら展開しているかについて検討を行うことになる。 (...) 6章の後半では、今日の居留地のこうした状況が、「マプーチェ的なハビトゥス」をいかなる方向に変容させているかが、様々な具体的ケースとともに検討される。ところで、逆説的な言い方になるが、このようにして「居留地的なハビトゥス」について論じるだけでは、今日の居留地の人々の生活の全体を理解したことにはならない、ということも、述べておかねばならない。なぜなら、マプーチェの人々は、もうかなり以前から都市などに出稼ぎに行ったり移住したりすることをその社会的実践の一部としており、そのような意味で、彼らの社会的ハビトゥスの中には「都市的なハビトゥス」が既に内包されているからである。 (...) 7章では、そのような理由から、まず、都市に移住したマプーチェたちの実践の体系(それは理論上は「移行的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」の二つに分けることができる)について検討する。そのあと筆者は、今世紀のマプーチェ知識層に属する幾人かの言動の分析を行い、それを通じて、「チリ的なハビトゥス」を身につけたマプーチェの人々が自らの内なる「マプーチェ的なもの」をどのように再解釈していったか、その軌跡を辿ることにする。こうした作業は、「マプーチェ的なハビトゥス」と「チリ的なハビトゥス」という相互に矛盾するハビトゥスを、創造的な「反復」の実践を通して、いかにして同時に、そして深く生きることができるのか、というきわめて重要かつ困難な問題について、我々の理解を深めてゆくことになるであろう。