Chapter 5 Repetition and Genesis: Theoretical Considerations

投稿日: 2012/04/20 13:15:55

(...) 「想起の原理」と「力の原理」の原理の人間的限界の問題に対する相異なる解決法は、両者を、それぞれ違った仕方で「反復」へと開いてゆくことになる。「想起の原理」は、いわば「高い」原理であって、人間に対して高い理想を求める、すなわち、超越的同一性そのものの実現を求めるものである。しかし、まさにそのために、同一性の実現は不可能な作業となってしまうのであって、それゆえ現実に人間が行う「想起」の中には様々な差異が入り込んで、結果としてそれは「反復」と化してしまう。他方、少なくとも地上界の人間に対してあまり大きな理想を押しつけない、いわば「低い」原理であるところの「力の原理」は、超越性の問題を未来に先送りすることによって、人間的限界とうまく折り合いをつける。しかしこの場合には、人間の反対物(¬人間)としての超越的同一性の定義があまりにルースであるため、そちらの側から差異が入り込んで、やはり「反復」と化してしまうのである。

(...) 6章と7章では、こうした「マプーチェ的なハビトゥス」に、さらに「チリ的なハビトゥス」が重なり合わさった中で生み出されてくるところの、今日のマプーチェの人々の社会的実践について扱うことになる。それらの実践が、同一性原理によっては把握することが困難な、「反復」の様相をますます強く帯びてくることは、言うまでもないであろう。それらを真に生成的な形で把握するためにも、今や、「反復」という現象がいかなる性質を持つものであるのかについて、根本的な検討を行うべき時である。

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(...) 自己と世界の間断なき変化と生成のプロセスにもかかわらず、我々の言語的及び身体的習慣は、つねに対象を同一的なものとして捉えようとする。こうした同一化は、ある範囲内では対象をうまく把握し続けるのであるが、ひとたび対象がその範囲を越えるや破綻をきたし、変化と生成に屈せざるをえない。(...)[眼前に急に何か物を突き付けられて目を閉じる」という1章の例について言えば] 突きつけられたものが手であったり、小さな棒切れであったりするなら、目を閉じるという同一の反応ですむのであるが、それがナイフである場合には、それを手や棒とは異なるものとして把握し、少なくとも自らの手で目を覆うという、新たな反応に出ることになる。出現したナイフが、通常の反応を行うべき範囲を越えていたために、身体的習慣は、現実の生成性に譲歩して、自ら新たな反応を生み出さざるをえなかったわけである。

(...) アリストテレスを念頭に置きつつ、キルケゴールは、「『非存在』でありながらそこに在るというようなそのような存在、これこそ可能性にほかならないのだ。そして、『存在』としてそこに在る存在は、まさに現実の存在であって、現実性にほかならない。とすれば生成の変化とは、可能性から現実性への移行なのである」と述べている。これを踏まえて言うなら、同一性として把握されるものの内には常に可能的なものが包まれているが、それは、同一性からの差異として認識されていない限りにおいては「非存在」に過ぎない。突きつけられるものが手であろうと棒であろうと、それがある程度以上の危険性の印を帯びていない限りにおいては、同一性にとって、非存在にすぎない。しかし、そこにナイフが現れるとき、手や棒からナイフが差異化されて、非存在から存在へ、可能性から現実性への、生成の変化が現れるのである。

(...) 生成の問題を正面から捉えるために必要なことは、もはや明らかだろう。それは、我々の考察を「現実性」の枠内に限定すること(そのために「可能性」は我々にとって不可視となり、生成はただ「変化」の局面においてしか把握できなくなる)をやめて、「現実性」と「可能性」が交流しあう全体に目を向けることである。この点で、哲学者G・ドゥルーズが、『差異と反復』において、現実を「同一性」とそこからの「変化」-あるいはそれに対する「矛盾」-として捉える弁証法的な枠組から脱出するという意図のもと、「反復」(repetition)の概念-及びそれと密接に関連するところの「差異」の概念-を提起し、それによって現実をその生成的全体性において把握する可能性を開いたことは、ここできわめて大きな意義をもってくる。実際、我々がふだん言語的・身体的習慣に従って同一的なものとして把握してしまうものは、この「反復」の概念によって捉え直してゆくことによって、同一性の枠から解き放たれ、我々はそこで、現実性と可能性の絶え間ない交流、反復と差異との絶え間ない交流に正面から向き合ってゆくことが可能になるのである。

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(...) 日常的な精神=身体の習慣が破綻した地平において、魂が「既に知っていた」はずの本質的なものが「想起」される、という考え方は、プラトン主義に限らず、一般にアルカイックな社会に多かれ少なかれ広く見いだされるものである。例えば、これまで何度も見てきたように、マプーチェの「想起」(konumpan)は、日常的な精神=身体の習慣が破綻したところに立ち現れてくる夢・幻覚・病気といった現象を契機とし、むき出しの現実と接触する中で、ある種の驚きと感動をもって、精神=身体と宇宙との「既に知っていた」調和を再発見する行為であった。もちろん、こうしたアルカイックな社会における一連の「想起説」は、それぞれ異なるものであり、例えば、無意識的=身体的現象を媒介とするコヌンパンと、論理的思考を媒介とするプラトン的想起との間には、本質的な相違が存在するといえる。しかしながら、エリアーデが示したように、多くのアルカイックな「想起説」は、真実が日常的な現実の彼岸にあるところの永遠の過去に由来するものであるとする点で、決定的な共通点を持っている。キルケゴールはプラトン主義を「異教徒的な人生観」と形容したが、この言葉は、従って、おそらく彼が意図したよりもずっと広い意味で理解することができるわけである。

(...) プラトン主義は、それぞれの人間が最初から真理を理解する能力を与えられていることを想定するために、その「想起」は、既に完成した真理を時間とは無関係に認識するという行為となってしまう。それゆえ、端的に言えば、それぞれの人間の生に特別な意味は存在しないことになってしまうのである。これに対してキルケゴールは、人生の中に「絶対に異質なもの」が現れて理性が動けなくなってしまう「瞬間」に、人間ははじめて永遠者(すなわち神)から真理を悟る能力を新たに受け取るのだと考える。だからこそ、キルケゴールにとって、「反復」は、単なる「認識」の問題ではなく、「人生」の問題であり、同時に、神の真理をわが身に引き受けること、すなわち「信仰」の問題でもあることになる。

(...) スペインの哲学者E・トリアスは、『未来の哲学』の中で、「想起」についてこのような角度から考察するためにきわめて重要な指摘を行っている。彼は言う。「記憶力は、現実的実体化に向かって上向する推進力を保持しており、そこから現在及び未来の方向性のための示唆を引き出してくる。(・・・) 記憶力とは、それが本来の記憶力である限り、未来を創造する能力なのだ」と述べる。これに対して、「記憶力の不在は、個人であろうと集合体であろうと、主体を、その『運命』の奴隷にする」。(...)再びトリアスを引こう。「主体が過去に向かってその記憶力を張りつめれば張りつめるほど、つまり、主体が自らの記憶力の働きを洗練・選択・明確化・検証すればするほど、新しいものに向かっての、詩的・言語的創造に向かっての、そして行動・言葉・生産におけるエロス的完遂に向かっての、『飛躍』が実現可能となる。そして、差異を含んだ持続のための、より大きな可能性が開けてくる」。

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(...)ヘーゲルはかつて、物事を分別して同一性を作り出す能力を悟性(Verstand)と呼び、この悟性によって捉えられた現象から抽出された一般性であるところの法則(Gesetz)が、一つの統合された「法則の静かな国」をなすと考えた。ヘーゲルは、古典力学によって認識される世界を念頭に置いてこの概念を提起したのであるが、(...) トリアスは、科学的認識の世界だけでなく、ある社会における認識と行動の領域全体(近代社会ではそれらは広義での科学と道徳の領域に当たる)に「法則の静かな国」の概念を拡張して、人間を取り巻く世界の全体を理解するための枠組にしようとする。

(...) トリアスが言うように、一般に「法則の静かな国」とは、ある宇宙論的イメージ(imagen cosmologica)のもとで、現実から非同一性、不安定性を除去しつつ構築された世界であり、それは現実をある観点から切りとったものに過ぎない。しかし、それがもつイデオロギー的な作用によって、トリアスが言うように、その中で生活する人々は、それを現実そのものと混同してしまうことが多い。「知的または道徳的構築物の『法則の静かな国』の内部で生きている人は、その構築物の宇宙を、唯一の可能な宇宙、つまり宇宙そのものとして理解する傾向がある。(...)その構築物は、自然で、自明で、常識に合った構築物となるのである」。(...) 2~4章において検討した「想起(コヌンパン)の原理」、「力の原理」、そして「水平性の原理」は、上のような意味での「法則の静かな国」を形成するものと考えることができる。つまりそこでは、「想起(コヌンパン)」、「力」、「水平性」が、頂上の宇宙論的イメージを形成し、それが日常生活及び儀礼生活の中の様々な法則や、現実の状況を扱う上での様々な規則を生み出しているのである。そのような意味で、2~4章の記述は、「マプーチェ的なハビトゥス」の世界におけるこれら三つの「法則の静かな国」の描写であるということができるであろう。

(...)「現実性」のぎりぎりの範囲内で思考を続けようとするブルデュー理論を逸脱することは、とりもなおさず、本質的に法則性・客観性の枠外にあるところの「可能性(=力)」の領域に足を踏み入れることであるからである。一言で言って、「現実性」についての学問的言説と「可能性」についての学問的言説は、ハイゼンベルクの意味で相補的である、といえるかもしれない。つまり、光について、それを波動として捉えるなら粒子としての側面が見えなくなり、また粒子として捉えれば波動としての側面が見えなくなってしまうのと同じように、「現実性」を把握しようとすれば「可能性(=力)」は見えなくなり、「可能性(=力)」を把握しようとすれば「現実性」は背景に退いてしまうと考えられるのである。この論文における筆者の立場は、いわば折衷的なものであって、ある程度は「現実性」の分析と記述を行いつつも、ブルデューのようにそうした「現実性」の社会的実践への拘束的な力について強調するのではなく、むしろ、「現実性」の背後に控えている「可能性(=力)」に注目してゆこうとする。それゆえ、(...) 筆者にとっての「ハビトゥス」は、一定の状況下では拘束的な力を持ちうるものでありつつ、しかし本質的には非一義的・複数的なものであり、そして、ブルデューが決して容認しないような「可能性(=力)」に向かって開かれたものなのである。

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(...) ベンヤミンは、こうして、反復の理論にとっても決定的な重要性をもつ一つの事実を指し示す。それは、我々がこれまで存在論的反復と呼んできた経験は、こうした近代的な経験の構造の中でのみその全貌(つまりキルケゴール的あるいはニーチェ的な反復を含めた全体)を把握することが可能になるものだということである。キルケゴールは、「反復と想起とは同一の運動である、ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって想起されるのである」と書いた。前近代的社会における存在論的反復の典型的な形態である「想起」(プラトン的な、あるいはマプーチェ的な)は、万物が照応し、個人的記憶と集合的記憶が交流しあうような調和的な宇宙においてなされるものであり、それは、たとえ驚きをともなうものであっても、ある必然性のもとで、完成された過去を志向する経験とならざるをえない。これに対して、すべての近代人は、サン・プルーとともに、「あらゆるものが時々刻々変わり」、「善いもの、悪いもの、美しいもの、醜いもの、真理、美徳、それらは局部的に、場所を限られて存在しているにすぎない」ことを知っているのであり、そこでは、万物照応の前提は近代社会の絶え間ない運動によって引き裂かれてしまっている。従って近代人は、「前方に向かって想起する」(つまり前に進みつつ後ろを振り返る)、というかなり逆説的な反復を行わざるをえないのである。(...) このような逆説的な行為を通して、近代人は、ある意味では、前近代の人々が持ち得なかったような原初的な経験を行う。なぜなら、近代社会の絶え間ない運動によって引き裂かれた宇宙は、「先史時代の息吹はなく、アウラもまだない」ような、「大地がむき出しの原始状態」の宇宙だからであり、従って存在論的反復は、それがこうした近代の時間性の中で行われる場合にのみ、言葉の真の意味で「赤裸々な体験」となりうるからである。