第20回 運行(4)

それぞれの環境には、気流が流れていました。

自然気流

欲望気流

対人気流

生体気流

これらの気流の中で、人は生きています。

気流の中に、人は自己環境という構造で立ち向かいます。

人の構造だけでなく、四界には多くの複合構造があります。

構造はすべて、気流を受け、また気流を発生します。

気流がひどく激しければ、その構造は、瞬(またた)く間に

破壊されてしまいます。

壊れなくても激しく押し流されることになります。

それらの気流に、人はほとんど為すすべがなく、無力です。

強い気流には、通常、従うだけです。

大きな気流には逆らわないのが、無難(ぶなん)です。

方法によっては、うまく気流を乗り継ぐことが可能です。

また、気流の勢いや方向を変えることも出来ます。

そのためには、気流を見定めることが重要です。

見定めるためには、自己環境などの秩序が整っていることが必要です。

自ら気流を引き起こすこともあります。

自らの気流に、翻弄(ほんろう)されることも多くあります。

無理、無謀な気流を起こさない、そのように導かない、

無理、無謀な気流は、自然な気流に導くのが理想です。

ここでも秩序が整っていれば、制御された気流を引き起こすことが

可能となります。

しかしどんな場合も、気流を完全に操(あやつ)ることは不可能です。

そして、油断をすれば、気流に流されてしまいます。

構造が強くても、やがて徐々に影響を受けて、変化させられてしまいます。

変わらないものはなく、また構造は変わり続ける必要があります。

逆に、気流をほとんど受けなければ、パワーが生まれず、

構造はやがて滅びていってしまいます。

人の住まなくなった家が、急に老朽化してしまうのと同じです。

古家の窓をあけ、風を入れると、家や家具もろもろの道具が、

生き返るように思えるのは、人や自然の気が流れたからです。

気流は良くも悪くも環境(構造)にエネルギーを与えます。

ゆえに、乗るべき気流には積極的に乗る必要があります。

もちろん、避けるべき気流は消極的に対応すべきです。

以上から、気流においては、それぞれの気流が出来るだけ相殺せず、

また、相乗して過剰になり過ぎないように、バランスよく流れているのが

理想です。

小さな気流も、やがて大きく全体に影響してくることがあります。

そしてどんな気流も、やがて因果の流れに収束(しゅうそく)して

いってしまいます。

人やものごと、現象を、気流によって理解することが肝心であり、

どんな時もやはり、気流を見落とさず、見抜き、見定めることが重要です。

自然環境(自界)の中で、生命神は生まれました。

生命神は、体内環境(内界)で、生体気流(生きる力)を引き起こします。

そして生命神は、人々の中で、その人単独の自己神となります。

自己神は、精神界において新たな気流を起こします。

その気流は、自己環境秩序を整える方向に導きます。

その構造を、悪影響の気流から守ります。

そして、ストレスを受けた心を癒します。

この自己神の起こす気流を、「志向気流」と名付けましょう。

志向気流は、体内環境から、対外環境(対界)、社会環境(外界)へと

流れていきます。

人によって、この志向気流を強く発する人と、ほとんど発しない人がいます。

人は、本能による欲求をある程度満たすと、やがて意識野での達成欲求を

満たそうとします。

ものごとに対応して、それを成し遂げることで、自己の存在に価値を見い出し、

喜びを得ます。

その達成欲求をさらに満たしやすくするために、人は秩序を求めます。

秩序欲求が生まれ、それを満たそうとします。

秩序を満たそうとする思いが、思考や態度を成熟させます。

生命神もまた命をつなごうとして、環境に秩序を求めています。

人が、自然に、秩序の整ったものに感動し、無秩序に不快を感じるのは、

この気が働いているからです。

この気が、志向気流の始まりです。

人の成熟に応じて、自己神も成熟していきます。

そして秩序を求める人の思考と、自己神の気流が互いに共鳴したとき、

志向気流が、強い勢いとなって流れ出します。

人の自己環境秩序を作りたいと言う思い(顕在意識)が、

生命神の領域(潜在意識)の扉を叩(たた)き、

そして扉が開いて、志向気流が流れ出したとも表現できます。

志向気流は、自己環境を越えて、その回りの大きな環境にまで

影響を及ぼします。