第12回 宿業(しゅくごう)

他の多くの生物と同じように、人類にとっても生きることは戦いでした。

太古、人々は食料を求めて狩りに出かけ、獲物(えもの)がとれなければ、

ひもじさに耐(た)えるだけでした。

餓(う)えたまま、体力を振り絞って、獲物を追い求める日々でした。

人は、環境に対応する意識を手に入れました。

その意識の原動力は、苦痛です。

意識はたえず、自分によってムチ打たれるのです。

ムチ打たれ、意識は身に降りかかった問題に対処します。

他の生物よりも、人は、意識(精神)を持ったため、苦痛を多く感じるのです。

対処がうまくいけば、達成の喜びを得ます。

かって人にとって、生きることは苦痛で、その中で喜びがぽつんぽつんと、

浮かび上がってくるようなものでした。

そのアメとムチで、人類は環境を変えてきました。

人に降りかかってきた様々な問題に対処してきました。

ゆえに生活は豊かになり、文明は進み、多くの人がその日の食料に

困るというようなことはなくなりました。

先進国では、人は、生活上、安楽に生きることが可能になりました。

しかし人の、生きることが苦痛であるという根底は変わってはいません。

豊かな生活をしていても、意識(精神)は、自分にムチ打たれるのです。

疲労苦、不快苦、劣等苦、不満苦、貧乏苦

老苦、病苦、死苦、別離苦、孤独苦

ムチ打たれても、対処できないことはあります。

やがて意識は、打たれても耐えれるように、ヨロイを身に着けます。

それが、「業(ごう)」です。

そしてそのヨロイを身に着けてしまったために、

人は不合理や理不尽(りふじん)なことでも、

平然とやってしまえるようになったのです。

意識回路は、認識・記憶野~欲求野~感情野~意識野から

出来ていると述べました。

それぞれの分野の反応の度合いで、いろいろな性格が作られます。

認識・記憶野・・・敏感型 ― 厳密 慎重(心配性) 気が利く おせっかい

鈍感型 ― 大雑把 軽率 思い込み 惰性的

欲求野・・・・・・・・快楽追及型 ― 自己中心 自己顕示 怠け者

欲張り(不満)

不快苦回避型 ― 臆病 内向(消極)的 無気力

自己弁護

感情野・・・・・・・・過反応型 ― 感情的 悲観的 神経質 気分屋

未反応型 ―冷静 楽観的 大胆 陰気

意識野・・・・・・・・完璧型 ― 頑固 まじめ 知的 理屈っぽい

ルーズ型 ― 短絡的(中途半端) 融通性 感覚的

衝動的

意識回路を、バランス良く情報が流れ、その情報に対して、

それぞれの分野の反応は、問題の対応に適切でなければなりません。

しかし、それぞれの人の遺伝的性質・能力、環境、経験、学習によって、

それらの反応は、偏向(へんこう)します。

それが性格となって、人それぞれの特徴的反応性となります。

これらの性格は、反応の偏向であるから、人はそれを修正するように、

努力しなければいけません。

しかし、人が、苦痛を避け、また傷つくことを恐れて、この性格の殻の中に、

閉じこもってしまうと、それは「業」となります。

「業」はさらに偏向が進むと、神経症などの病的反応となります。

人は、苦痛をまともに受ける必要はありません。

すべてをまともに受けていては、精神がもちません。

心のヨロイは必要ですが、それは「自己秩序」でなければなりません。

しかし、多くの人が「自己秩序」を目指さず、自分の「業」に埋もれ、

かたくなに身を守って生きています。

「業」のヨロイの中には、生命神も入ることは出来ません。

自分も、生命神も、ほとんど成長できず、ただ刹那(せつな)的に

人生を費(つい)やしていきます。

生きることは苦痛ですが、それは成長の糧(かて)であることを

忘れてしまいます。

「業」は年齢とともに、やがて「宿業(しゅくごう)」となって、自分の回り、

自分の将来の環境に、悪影響を与えます。

※「宿業」は、仏教用語では「過去世からの因果」を表しますが、

ここではその人の、「生物的要素」「遺伝的要素」や

生まれ育ったその人の過去の「環境的要素」から

生み出された性質、「業」がその人に長く宿(やど)ってしまった

状態を表しています。

人は、自分の「業」や「宿業」に早く気づくべきです。

耳を塞(ふさ)いだ手を離し、生命神の声に耳を傾けるべきです。