ご挨拶
本日は、私のためにこのような盛大な会を催して頂き、誠にありがとうございます。ご多忙のなか、御来賓の皆様のご臨席を賜り、心より御礼申し上げます。また、会を主催してくださった野田教授、幹事の川崎さん、守屋君に厚く御礼申し上げます。皆様から過分なご祝辞を頂き、身に余る光栄でございます。
光陰矢の如し。私が東京医科歯科大学 難治疾患研究所 分子薬理学分野 助手を拝命してから、8年と8ヶ月が過ぎました。この間、野田先生、江面先生を始めとして、数多くの方々にお世話になりました。今の自分がここにあるのも、皆様のおかげと感謝申し上げる次第です。
最初に、私と難研の出会いからお話しさせていただきます。1991年の夏のことですが、私は、茨城県の自宅で浪人生活を送りながら、将来は基礎医学の研究者になる志を立て、東京大学を目指しておりました。ずっと、田舎に住んでおりましたものですから、東大受験レベルの講義を聞くために、駿台予備校の夏期講習に参加する事にしました。御茶ノ水駅を降りて、駿台予備校への川沿いの細い道を歩いていると、道路の右側に、東京医科歯科大学難治疾患研究所という難解な名称の古めかしい建物がある事に気づきました。当時、私が一体何を思ったのかはよくは覚えておりませんが、難解な名称の研究所にわずかに興味を抱いて、受験雑誌で難研について調べた事を思い出します。当時、野田先生は分子薬理学分野の教授として赴任されたばかりであり、見上げたその建物には、野田先生がすでに辣腕を振るっておられた訳で、その14年後に、まさか自分がこちらにお世話になるとは想像もつかない事でありました。
もう一つ、私と難研を結びつける不思議なエピソードをご紹介したいと思います。身内の話で恐縮ではありますが、私の義母は、静岡県生まれで、高校卒業後は、国立遺伝学研究所で技官として働いておりました。その研究室の先生が、東京医科歯科大学の教授として赴任される事になり、彼女は一緒に東京医科歯科大学にて技官として働くことになりました。義母は結婚に従って退職しますが、その後長女を授かりました。彼女は、将来私と結婚することになります。義母は、お世話になった先生から一字頂いて、長女を水晶の晶に子どもの子、晶子と名付けました。そのお世話になった先生は、東京医科歯科大学難治疾患研究所設立時の細胞遺伝部門の教授で、難研所長も勤められた外村晶教授でした。私がこちらに赴任した時は、野田先生は、難研所長でありまして、何度も所長室で会議を行う事がありました。所長室には、歴代の所長の写真が額に入って飾られているのですが、そこに外村先生の写真を拝見し、妻はこの先生から名前を頂いたのだなと感慨深く思ったのを覚えております。妻は、小学生の頃、外村先生と館山に旅行に行くなど、家族ぐるみのおつき合いをさせていただいたようです。外村先生は、2004年にお亡くなりになりましたが、義母は、現在でも外村先生の奥様と連絡を取り合っているようでございます。このような経緯を思うと、難研との不思議な縁を感じずにはいられません。
次に、野田先生との出会いについてお話しさせていただきます。私は、2001年、東京大学の浅島誠教授の元で、博士を取得し、アメリカに留学しました。アメリカでも、大学院と同じアフリカツメガエルを用いた発生生物学の研究を継続しておりました。最先端のマイクロアレイテクノロジーを用いた研究を行っており、エキサイティングでしたが、なかなかいい研究成果が出ないまま、アメリカ生活も3年を過ぎ、日本での職探しを開始しました。その頃、分子薬理学分野の助手として、UCLAにいた私の親友が候補に上がっていました。しかしながら、彼は、別の国立大学の助教授として赴任する事が決まり、助手のポストは一度白紙に戻ったようでした。私は研究の合間に、アメリカから公募書類を送るという生活を送っていました。一度だけ、東大教養学部助手の面接に呼ばれましたが、残念ながら不採用となり、海外から職を探す事の大変さを痛感し、浅島先生にお願いして、浅島研の21世紀COE研究員として雇っていただくことになりました。日本に帰る目処がついたので、アメリカで残りの仕事をまとめておりましたところ、ある方の紹介で、東大医学部の宮園浩平教授の所でポスドク研究員のお話をいただきました。宮園先生は、TGF-ßシグナル研究の第一人者であり、今回の研究はスウェーデンとの共同研究事業であり、非常に有り難いお話でした。しかしながら、すでに浅島研に戻る事が決まっていた事もあり、熟慮を重ねた結果、丁重にお断りしました。そしてその直後に、浅島先生から、東京医科歯科大の野田教授が助手候補を探しておられるというお話を伺いました。野田先生は、東京医科歯科大学で21世紀COEプログラムの代表を務めておられ、Nature, PNAS, JEMなどトップジャーナルに論文を出しておられ、日本の骨代謝研究の第一人者であることはすぐに分かりました。今まで、私は、骨に関して全く何も知らず、野田先生の論文を拝読してもよくわからず、全く未知の分野でレベルの高い研究についていけるだろうかと悩みましたが、野田先生に研究業績書と履歴書を送り、電話で面接をさせていただいた結果、採用して頂きました。履歴書と電話一本で私を採用してくださった野田先生のご勇断に、感謝申し上げる次第でございます。
紆余曲折を経て東京医科歯科大学に赴任する事が決まったものの、非常に基礎的な分野にいた私にとって、全く研究した事のない骨代謝研究が務まるかどうか、野田先生が望まれるような理想の助手になれるかどうか、また、研究室の大学院生に受け入れてもらえるかどうか、はなはだ不安でした。しかしながら、野田先生を始め、江面先生、中島先生、大学院生の方々(当時は、及川さん、斎田君、川俣さんの代がいらっしゃいました)が、暖かく迎え入れてくださったのを覚えております。学生の皆さんは、社会を一度経験しているせいか、とても礼儀正しく、協調性に富んでいた印象がありました。最初の私の仕事は、研究室の方々一人一人の研究内容を聞いて回るという事でしたが、みなさん、ご自分の研究内容をパワーポイントにまとめておられて、大変感心し、レベルの高さを感じました。同時に、私の事を、「先生」と呼んで、慕って下さいました。理系の研究室では、先生と呼ばれる人は、教授だけで、それ以下は、全て「さん」付けだったので、当初は戸惑いましたが、そのうち先生と呼ばれることになれている自分に気づき、そして、この研究室のために力を尽くそうと、ささやかな決意をした次第であります。
分子薬理学での研究を開始した当初、毎朝8時半から1時間から2時間近く行われるセミナーに圧倒されました。それまでの10年間、朝行く時間は決まっておらず、セミナーも週に1回、長くて1時間半という状況でしたので、正直慣れるのにかなり時間がかかりました。何度も遅刻した事お詫び申し上げます。セミナーの内容もかなり細かいところまで質問され、大学院生が答えられないで、数分間も沈黙が続くということもありました。また、大学院生がセミナーの準備をする時は、まず、レファレンスのPDFファイルを全部ダウンロードするところから始めているのを見たりしてカルチャーショックを受けました。「これは大変なところに来てしまった」と思いました。私も、野田先生の質問攻めにあう訳ですが、骨代謝が専門の野田先生が、私の専門分野の事をよくご存知で、その深い知識と知的好奇心に驚きましたし、いつの頃からか、野田先生の質問に全部答えて差し上げようと考え、質問されそうな箇所をとことん調べた事を覚えています。そして、「後で調べて、メールで流しておいてください」という言葉が無かった時は、密かに「勝った」と心の中でガッツポーズを決めておりました。ジャーナルクラブ、プログレスそれぞれ50回以上させていただきましたが、おかげさまで、少しはプレゼンテーション力、対話力が身に付いたのではないかと思っております。
分子薬理学においては様々な経験をさせていただきました。学会参加では、ASBMRには7回、日本骨代謝学会には5回発表させていただき、野田先生が会長の骨形態計測学会やCOEのシンポジウムでは、司会進行をさせていただき、昨年神戸で行われた国際骨代謝学会の開催準備を間近に見ることができました。さらに、日本学術振興会先端研究拠点形成事業でハーバード大学に2ヶ月間派遣していただきました。分子薬理学を訪れる数多くの日本人、外国人研究者との交流の機会も設定していただき、通常ではなかなかお話しする機会のない著明な研究者と接することができて、刺激を受けました。また、医師または歯科医師である皆様に囲まれた環境で仕事をさせていただき、医療現場の話や、患者さんの事など、医療従事者の方々の生の声を聞くことができたのは、私にとって大きな財産です。
分子薬理学における研究では、やはりDullard遺伝子との出会いがあげられます。Dullardは、浅島研が研究していた遺伝子で、2006年末にDevelopmental Cellに、BMPシグナルを抑制する分子として発表されました。この論文をセミナーで発表した後に、教授室に呼ばれて、「早田君、あの遺伝子面白いね。やってみたらどうですか?」ということで、浅島先生や熊本大の西中村先生に連絡を取り始め、Dullard研究が始まりました。Dullardのfloxマウスは、現在作成中との事でしたので、まずは、MC3T3-E1細胞を使って、Dullardが骨芽細胞でもBMPシグナルを抑制するかどうか調べる事にしましたが、報告通りにDullardはBMPシグナルを抑制しました。Developmental Cellの論文では、Dullardは、受容体の分解や脱リン酸化に作用し、恒常活性型BMP受容体のシグナルや、アクチビン/TGF-ßシグナルを抑制しないということが報告されていたので、骨芽細胞でもそうだろうと思っていました。しかしながら、野田先生が「一応調べておいた方がいいですね」と言われたので、骨芽細胞でも同じ事だろうと半信半疑で実験してみると、何とDullardは、その両方のシグナルを抑制しました。この結果が、後のDullardノックアウトマウスの解析でも功を奏し、BMPシグナルにこだわる事無く、TGF-ßシグナルについても当然のように調べてみると、軟骨細胞においては、Dullardは、BMPではなく、TGF-ßシグナルの抑制分子として機能していると言う事を見出す事ができました。あの「一応調べておいた方がいいですね」という一言がなければ、ノックアウトマウスの解析もスムーズにはいかなかったと思い、改めて野田先生の「研究力」に脱帽した次第です。Dullard研究は学会で賞を3つもいただき、論文も何とか通りそうです。最初のきっかけから7年とかなり時間がかかってしまいましたが、研究期間中たゆまぬご支援をくださった野田先生に感謝申し上げる次第です。
2014年8月31日の任期満了を目前に筑波大学のポストが内定し、ほっとしていると中、分子薬理学辞職の日が近づくにつれ、果たして、私は、この分子薬理学のために少しは役に立てたのだろうか?と思う事が多くなりました。特に、最初の数年間は、私自身骨の研究になれるのに大変苦労し、皆様のお役に立てなかったのではないかと思っています。その後は、多少、骨の研究が分かるようになり、これまでの自分の経験も活かして、皆さんの質問に答え、知識、実験技術や研究方針をお伝えする事ができたのではないかと思っております。いつの頃からか、新人の実習また医学部の選択実習で、MC3T3-E1細胞の培養とBMPの薬理作用をアルカリフォスファターゼアッセイで検討するという実験を担当させていただきました。この仕事は、私にとって、実にいい経験でした。知っていてもうまく教えられなかったり、あるいは、知っていたと思うことも、実はその根拠を知らなかったりしたりしました。今年入学の方は、私の仕事が忙しいこともあり、野田先生のご配慮で、山田君に担当していただきました。時間はかかっていたようですが、何とかこなしている様子で、新人の学生さん達も充実した研究生活をスタートできたようでした。また、他にも、川崎さん、守屋君、白川君などが、新人の方々の指導や助言をしているところをみて、「若い世代は育っている、私は心置きなく分子薬理学を後にし、自信を持って、後任の方に大学院生を任せられる」と安堵しました。将来、分子薬理学の卒業生の皆様が、様々な分野でご活躍されるのを楽しみしています。
今後の事ですが、5月から筑波大学教育イニシアティブ機構准教授を拝命することになりました。仕事の内容を簡単に説明しますと、筑波大学でライフイノベーション学位プログラムという大学院の教育課程を新設することになり、その立ち上げに参画することになりました。このプログラムでは、つくば市にある企業と連携し、食品、創薬などのライフサイエンス分野で国際的に活躍するリーダー的人材の育成を行い、世界各国から優秀な学生を募り、筑波大学から世界にむけて情報発信することを目標としております。私は、茨城県で生まれ育ち、毎日筑波山を眺めて、小中高と過ごしました。筑波山は、見る角度によって姿を変えますが、私は、故郷から見る筑波山が一番美しいと思っています。中学一年生の時は、つくばで開かれた科学万博に10回以上も足しげく通いました。つくば万博は、中学生の私に、科学の魅力を十分伝えてくれました。当然、高校に入学後に進学したいと最初に思った大学も、筑波大学でした。この度、その筑波大学で仕事をすることができる歓びを感じております。筑波大学は、これまで斬新なアイデアで大学改革を進めてきた大学で、図らずも私と同い年であります。新設大学院の成果が出るのには、相当の年数がかかるとは思いますが、TSUKUBAが世界から注目されるように、全力を尽くす所存であります。
最後に、若い大学院生に贈る言葉を。東野圭吾の「真夏の方程式」の中で、湯川博士が少年に対して発する言葉です。
「人類が正しい道を進むためには、この世界がどうなっているのかを教えてくれる詳しい地図が必要だ。ところが我々が持っている地図はまだまだ未完成で、殆ど使い物にならない。だから二十一世紀になったというのに、人類は相変わらず間違いをしでかす。戦争がなくならないのも、環境を破壊してしまうのも、欠陥だらけの地図しか持っていないからだ。その欠けた部分を解明するのが科学者の使命だ」と。
私は、科学とは芸術家が作品を生み出すような極めて個人的な営みだと思っておりました。だから、作品である論文には丹精を尽くす。同時に妥協するところもある。しかしながら、現代の科学研究が、国民の税金や第3者の資金で支援されている以上、科学とは極めて公的な行いであり、科学者の仕事は、人類が道を誤らないようにするための地図作りではないかと考えるようになりました。自戒の意味もこめて、自分たち一人一人が、科学研究を通して、人類が正しい道を進むための地図作りを行っているのだという気概と誇りを持って、歩んでいくべきではないかと思います。また、湯川博士はこうも言っています。少年が「ねえ、科学の研究なんて楽しい?」と聞くと、「この上なくね。君は科学の楽しさを知らないだけだ。この世は謎に満ちあふれている。ほんの些細な謎であっても、それを自分の力で解明できた時の歓びは、ほかの何物にもかえがたい」と。これから研究を開始するような人は、その歓びをいつか味わえるのを楽しみに、そして、今研究に疲れてしまっている人は、実験結果を世界で初めて自分が見た時の歓びを思い出して、研究生活を歩んでいってほしいと思います。
8年8ヶ月の長きに渡り苦楽を共にしてきた皆様に深く感謝し、今後の皆様のご活躍、御健康、ご多幸を祈念し、今後とも皆様のご指導ご鞭撻を賜りますよう、お願い申し上げまして、辞職のご挨拶と代えさせていただきます。
平成26年4月18日
早田匡芳