ビリヤードの謎

T君は,どんな実験をやるか相談しているときに,ビリヤードでよく知られている難易度の非対称の話を持ち出しました.ビリヤードでは,キューと呼ばれる棒で玉を突き別の玉にあてて,それをポケットに入れます。キューでつく玉は手玉,手玉によって当てられる玉は先玉と呼ばれるそうです。いま,先玉と手玉の位置が図1の関係にあり(手玉の位置がA,Bいずれか),先玉をポケットに入れることを考えます。この場合,手玉を先玉に斜めに当てる必要がありますが,先玉の位置から手玉の中心をどの程度ずらすかの指標として厚みというものを考えるとのことです。厚みは,狙うべき位置に仮想的に考えた玉と実際の先玉の位置のずれです(図2)。この厚みを考慮して手玉をつくことで,先玉を適切な角度で転がすことが可能となるわけです。厚みを考慮して手玉を突くためには,まず先玉とポケットを結ぶ直線を考えその線上で先玉と接する仮想的な玉を想定し,手玉とその仮想的な玉を結ぶ直線に沿うように手玉を突く角度を決めるわけです。

 さて,難易度の非対称です。図1ABを比べて見て下さい。いずれも先玉(白玉で表現されている)の位置は同じで,狙うポケットも同じです。ただ手玉(黒玉で表現されている)の位置が異なります(灰色は厚みを考慮するために,プレイヤーが仮想的に考えるものを図示)。ポケットと先玉を結ぶ直線から同じ角度ですが,逆方向にずれています。もちろん先玉からの距離は同じとします。また,手玉の位置は十分に縁に近ため,手玉をつくための行動には差がないとします。このときA条件ではB条件よりも先玉をポケットに入れることは難しいという。これはビリヤードプレイヤーにはよく知られていることという話ですが,その原因はどこにあるのであろうかとT君は考えたわけです.その原因の究明のために実験を行いました.

 まずプレイをするときに利用すると考えられる手掛かりについてまとめてみます。これらの状況では手玉を先玉にまっすぐ当ててはポケットに入らないため,上記の厚みを考える必要があります。図2の灰色の玉が,その想定した手玉の先玉に当たる位置で,破線が想定された手玉の移動経路,実線が先玉の移動経路です。また灰色の太線は先玉と手玉を結ぶ先です。プレイヤーが必要とする情報は,θ1あるいはθ2,それに基づき想定される手玉の先玉にぶつかるべき位置でしょう。想定される手玉位置はおそらく先玉と手玉を結ぶ先からのずれ,θ3によって決めることができます。


 ここで2つの条件での成功率の差の原因の主なものはθ1,θ2,θ3の角度(図2参照)の認識の正しさの違いと考えられます。その他,θ3の方向の効果(先玉の右にずらすか左にずらすか),キューを持つ手とθ3の方向の関係などもありえますが,次の理由でここでは,これらの効果については考えないことにします。図1,2の例と対称な位置(図3)について考えると,そこでも同様の非対称性があるといいます。つまりA条件でB条件より難しいということです。この場合,先玉の右にずらすか,左にずらすかと,とキューを持つ手とずらす方向は図3の例とは逆になる。したがって,これらが手玉の位置による難易の原因とは考えにくいわけです。

 T君は非対称性の原因を調べるために以下の実験を企画しました。実験では人工クッションを使ってθ1,θ2の条件が同一になるような条件を設定しました。具体的にはAの条件で,図4に示すような位置に人工クッションを置きました(図4は全体の概略を示します)。オリジナル条件のAθ2Bθ1を利用して先玉からポケットへのルートを計算しているとすると,人工クッションを置くことによりA条件でもθ2をもとにルートの計算をすることになるため,条件間の差がなくなると考えられます。

 実験は,A,Bの手玉条件に対して,人工クッションの有無とA,Bの手玉位置の組合わせの4条件に対して,先玉をポケットに入れることに対する成功回数を調べました。被験者は4名で,それぞれの条件に対して一人12回あるいは13回ずつ計50回の試行を行いました。各玉のおおよその位置,人工クッションの大きさなどは図5に示す通りです。

 クッションなしのA条件とB条件とを比較する,明らかな非対称が見られます。A条件で8%であるのに対して,B条件では38%の成功率です。それに対して,人工クッションを置いた条件では,両者の条件はずっと小さく26%36%です。人工クッションをおいた影響はB条件ではほとんど見られませんが,A条件では成功率が3倍を越えました。それでもA条件の結果はB条件より10%低い結果ですので,完全に非対称性が取り除かれているとはいえませんが,その差をもたらす主要な要因が取り除かれていると判断できます。

 ここまでで,クッションと先玉,ポケットの位置の効果が重要であることは明らかであると思いますが,それですべてとはいえないようです。前述のように実験結果をみると,人工クッションの条件でも条件の間には10%の成功率の開きがあるからです。もちろん,これはクッションが全く同一でないことによるかもしれません。しかし,T君と筆者は,別の理由があると考えました。それは,ここで扱った配置に限らず,一般的に先玉の右に手玉をあてるのはその逆より難しいという効果です。図1と図3の配置では同じ効果があると書きましたが,T君によると体験的には図3においてその効果は顕著であるといいます。その原因としてこの右に当てる方が左に当てるより難しいためではないかといいます。

 この実験から,ビリヤードでの玉の移動方向の推定処理がが,おそらく基準とするクッションからの角度に依存するであろうことがわかります。このクッションからの角度が,角度そのものであるのか,あるいはクッションまでの距離が間接的に影響するのか,もっと別の奥行き方向の長さなどの影響なのかなどいろいろな可能性があります。いずれにしても,3次元空間での直線や角度の推定の問題であり,我々の知っている視覚実験の結果から簡単には予測できないように思います。この実験結果を最初に聞いたときには,人工クッションの効果が非常に明確に現れているのに驚きました。難しい条件での成功率の向上のみでなく,もう一方の条件で成功率がほぼ同程度であることもその点を強く印象づけられました。

 ちなみにこの話は大変おもしろいと思ったので,何らかの形で公表できないかと思い続けていました.実際の実験は2000年の5月に行われましたが,その後T君の卒業前に,内容の確認をしついでに写真を撮ってもらいました.その後さらに月日がたってしまったのですが,こういう形ではありますが,公表できてよかったと思っています.