第九章:簔口監督退任⇒椎野新監督就任&転勤⇒簔口監督復帰

2008(平成20)年~2009(平成21)年


2008(平成20)年度、1998年度から責任者としてチームを率いてきた簔口達也は39歳を迎えることとなり、ある決断をしました。

その決断とは、40歳になることでひとつの区切りをつけ、チーム責任者の座を椎野晃へと明け渡し、(チームを去るということではなく)一線から退くということでした。その移行期間として2008(平成20)年度を位置づけし、椎野晃が出欠確認とゲーム監督の大役を担うこととなりました。


前年の関所クラブとの合併による部員の流動は落ち着き、この年は春先に元関所クラブ部員である北川陽一が復帰、同時期に後藤健一、方尺宏之、鈴木学が、そして夏前に鈴木高嶺が、といったように、多くの新戦力が加入しました。


東京都大会では初出場の1995(平成6)年以来13年ぶりに、春夏連続で決勝戦まで進出することができました。が、春夏ともにあと一歩のところで敗れてしまいます。世田谷区大会では2年連続で無冠(1994((平成4))年度のAクラス初優勝以来初)と、成績だけ見ますと決して明るい話題ではなさそうですが、新体制の椎野晃監督が機能しなかったのか?ということではありません。その証のひとつとして、この頃から加入してきた部員の定着率が非常に高いことが挙げられます。このことは前年またはそれ以前から簔口達也中心に危機を踏み止まり、それを椎野がうまく引き継いだことに他なりません。一時的な強さがあったとしても内部固めができていないチームが脆いことは明らかです。そういった意味で、この時期はチームにとって“大きな意味がある時期”とすることができたと、1・2年後、すぐに実証されました。


尚、松山剛監督率いる北沢リーグは無敗(2分)で連覇を、なんと9まで伸ばしました。(詳細


年末に行われた恒例の商店街ホールにおける納会で、簔口達也監督の退任式が行われました。「心残りがないと言えば嘘になる」と、退任のあいさつで口にした本人の言葉は正直なところだったでしょうが、2009(平成21)年度から椎野晃監督をチーム責任者として、新生経堂がスタートを切ることとなりました。

そして練習試合も始まり、公式戦へ向けて調整が順調に進みつつあった3月、チームを大きな衝撃が襲いました。


椎野晃、北海道転勤の辞令です。


良い方向にあったチームが一転、ピンチに立たされました。

が、ここで再び簔口達也が立ち上がりました。

見方によっては当たり前に思う方もいるかもしれませんが、1999(平成11)年に次ぐ一大決心でした。もう一度チーム責任者にもどるということは、家庭、仕事をはじめとした生活プランを覆さなければなりません。しかし、このとき椎野晃のことを受け、すぐに決断したとのことです。


このように前監督のスピード復帰という形で2009(平成21)年度は再スタートを切りました。ここ数年で自身と椎野晃が作り上げた流れをそのままに、まず加藤岳を新主将に据えました。加藤岳はそれまで負担が責任者に大きく偏っていた運営を分業制にしていくことで、この年あたりから、各々の役割分担が少しずつ明確に生まれました。

さらに経堂農大通り野球クラブ史上初(?)、専属マネージャーが誕生いたしました。初夏には菊池真奈美、小林由起が、シーズン終盤には早川鮎子と、一気に3名となりました。


そしてこの年は前年まで積み上げた(作り上げた)チーム力を結果で示すこととなりました。東京都春季大会は準決勝戦で1点ビハインドの最終回二死無走者から代打攻勢で大逆転するも、再逆転を許し、敗退してしまいますが、都民体育大会本戦では東京都1部の超強豪チーム東芝府中さんに勝利(つづく日野自動車さんには完敗)(詳細)、東京都夏季大会ではここ数年、勝利することができていなかった同じ世田谷区所属のT-FIVEさんに決勝戦で劇的な勝利を挙げ、第53回高松宮賜杯全日本軟式野球大会1部(Bクラス)に出場することとなりました。この年度の東京都大会の模様は、当HPニュース(2009)に詳しく記載されています。(詳細)

ここ数年新入部員が多く、東京都大会優勝経験者の割合は低くなっていましたが、選手層の厚さはチーム史上最強(当時)です。そんな中、戦い方や選手の起用法にも大きな変化が見られ始めました。選手層がそれほど厚くはなかった頃は、先発メンバーが1試合フル出場することも多かったのですが、この大会では1試合に出場する選手の数が多く、各選手の適材適所を見極め、それぞれの選手の個性を生かしながらの起用法で、より全員で試合に挑めるようになったのではないでしょうか?


5度目の全国大会(東日本大会含む)の出場を控え、加藤の長年の夢だったという“地獄の夏合宿”(チーム史上初?)を実施いたしました。

黒田氏のご厚意に甘え、長野県にある小谷村(黒田氏居住地)にお邪魔し、2泊3日の有意義な時を過ごしました。文字どおりの“地獄”となったかどうはさておき、黒田氏をはじめ小谷村の方々には大変お世話になり、観光・BBQ・川での魚つかみ取りと、至れり尽くせりの夏合宿となりました。(詳細)

9月に行われた全国大会(熊本県熊本市)、このときも農大通り商店街、区商連、世田谷区軟式野球連盟、東京都軟式野球連盟、北沢リーグ野球連盟、近隣の他チーム様から暖かいご支援を頂戴いたしました。 1回戦は長井正徳、方尺宏之の投手リレー、菅井芳人の先制タイムリーなどで、8年ぶりに全国の舞台で勝利を修めることができました。

翌日行われた2回戦では若手主体に挑みましたが、初回に先取点を許し1-4で敗れてしまいました。若手主体でメンバーを組むことができたということで、近年中に必ずこの経験を生かすことができるものと信じています。(詳細)

地元に帰って最初の区大会では3年ぶりに優勝することができました。このときほど、優勝することの難しさと、それを乗り越えることができたときの充実感を得ることのできた区大会はしばらくなかったのではないでしょうか?

前年の2008(平成20)年度まで9連覇中であった北沢リーグでは、夏頃には早くも優勝戦線から脱落し、V10どころかリーグ戦で負け越しをしてしまいました。

第2回北沢リーグトーナメント(2005(平成17)年度以来の開催)では優勝したものの、またV1から出直しです。

布石として早朝監督の大後輩、当時最年少の大木貴寛が商店街の方の紹介で入部しました。松山剛、小野佑尋と不思議な目黒学院トリオが形成されると同時に、若い選手の入部はチーム存続の為にも非常に明るい材料となりました。 

この年の納会は初めて商店街ホールを使用しませんでした。部員数増加により、商店街ホールに入りきらなくなってしまったためでした。会場探しは難航しましたが、加藤岳中心に企画をし、初めてプロジェクターを使っての一年の振り返りや個人表彰等を行い、一次会最後には、加藤岳が作成した全国大会出場記念Tシャツを発表、配布しました。

一次会は経堂、二次会は下北沢で行わざるをえないなどという課題は残りました。しかし、苦労もあった分、とても充実した納会でした。ただし、商店街ホール以外で行うことにより、商店街の方々にご参加いただきにくくなってしまったことは非常に残念でした。


2009(平成21)年度は、椎野晃責任者就任、転勤、簔口達也スピード復帰と、あわただしい始まりで、野球面では全国大会出場、世田谷区3年ぶり優勝、北沢リーグ10年ぶりV逸、初マネージャー誕生、初合宿、納会も初づくしと、まさに激動の1年となりました。


この1年間、簔口達也の功績と並び、新主将加藤岳の活躍が際立っていました。