第二章:世田谷区軟式野球連盟加入から全日本軟式野球連盟大会初出場
第二章:世田谷区軟式野球連盟加入から全日本軟式野球連盟大会初出場
1988(昭和63)年~1994(平成6)年
1989(昭和63)年に、“経堂農大通り野球クラブ”は世田谷区軟式野球連盟(以下、世田谷区連盟とする箇所あり)に加入しました。前述のとおり、それまでは区商連、北沢リーグが主な活動でしたが、チーム力も向上し、他のところでも挑戦したくなったのです。(推測ながら)更にもっと言うと、「もっとたくさん野球をしたくなった」のでしょう。そしてこのころからチームの方向性は“新たなもの”へとなっていきました。ちなみにこの年は、竹内寛が堀越高校の4番打者兼エースピッチャーとして甲子園に出場した年でした。
当時も世田谷区軟式野球連盟は4部制(A・B・C・DでAが最上部)を布いており、当然、初年は最下部であるDクラスからスタートとなりました。北沢リーグの強豪にもまれ、力をつけていた“経堂”は連盟の試合でも勝利を重ね、順調にクラスを上げていきました。
まず初年の1988(昭和63)年にDクラスで準優勝しました。
そして2年目の1989(平成元)年は2チームで出場しました。“経堂Aチーム”はCクラス春季大会で準優勝、“経堂Bチーム”はDクラス夏季大会で優勝し、(当時の昇格制度規定により)この年のうちにCクラスへと昇格したのでした。ということで、秋季大会はAチーム、BチームともにCクラスでの出場となりました。そして、Aチームがベスト4進出を逃がす中、Bチームが3位入賞を果たしました。
これによって下剋上があったかどうかは定かではありませんが、3年目の1990(平成2)年からは1チーム出場に戻し、Bクラスにおいて春季大会・秋季大会で3位という結果を残し、1991(平成3)年から最上部であるAクラスへ昇格することとなりました。
連盟加入4年目、Aクラス1年目では最上部の壁にあたったのでしょうか?上位進出を果たすことができませんでしたが、2年目の1992(平成4)年の“世田谷区体育祭”という大会で優勝し、ついに記念すべき世田谷初制覇となりました。連盟加入5年目とはいえ、チーム結成39年目での快挙でした。
H4.世田谷区体育祭優勝祝賀会
当時の監督である黒田氏は、世田谷区軟式野球連盟の理事を務め、活躍していました。また、この頃から現在の総監督である簔口達也が本格的にチームに参加するようになりました。
1994(平成6)年、世田谷区代表として東京都軟式野球連盟の大会(以下、東京都大会とする箇所あり)の3部に初出場させていただきました。そこでも、世田谷区で連盟加入から一気にAクラス優勝まで駆け上がった勢いそのままに、東京都大会3部で優勝、しかも春夏連覇をしてしまったのでした。
H6.東京都夏季大会優勝
東京都大会優勝、ということは……。
そうです。全国大会初出場です。
高松宮賜杯第38回全日本軟式野球大会2部(クラスはC)へ東京都代表として出場させていただけることとなりました。おそらくチームとしての大規模な遠征(この大会は福井県で開催)は初めての経験で、戸惑うことも多かったことでしょう。
しかし、ここで“経堂農大通り野球クラブ”が、他の草野球クラブチームにはあまりないであろう強み(ありがたいところ)が出ます。すまわち、“経堂農大通り商店街”のバックアップです。グランドで一緒にプレーをする機会は少なくなってしまっていましたが、お忙しい中、福井まで応援にも来て下さいました。商店街には「全国大会出場」の横断幕を掲げて盛り上げてくださり、選手一同、とても勇気づけられたとのことです。
商店街からのバックアップは現在でも続いており、それに対する具体的な恩返しは、毎年7月に行われる“経堂祭り”の手伝いをさせていただくことや、野球を通じて商店街の名前を売り込むことくらいでしかできませんが、常に感謝の意を忘れることはありません。
当時は部員の中に沖縄県出身の選手が多くいました。この大会の1回戦は沖縄県代表のチームで、“経堂”のスターティングメンバー発表時、東京都代表にもかかわらず沖縄県出身者特有の名前が何名か入っているのを見て、相手ベンチからヤジが飛ぶという一幕もありました。
写真は高松宮賜杯全日本軟式野球大会に初出場したときのものである。
大会の成績としては、この年から入部した右の竹内と、左の仲尾次の2枚看板の投打にわたる活躍などにより、“ベスト8”というものでした。この“全国大会出場”という経験が(もちろんチーム全体そうですが)、当時チーム主将簔口達也の心を動かし、現在でも大きな目標である「全国大会優勝」というものを強く意識することとなるのでした。
ちなみに、この全国大会出場を機にユニフォームを一新し、首里高校のサブマリンこと島袋俊哉らプロデュースによる、現在のユニフォームの原型が出来上がったのでした。
世田谷区軟式野球連盟加入から一気に全国大会出場まで果たしたこの8年間、すべてにおいて現在の“経堂”の方向付けがなされたといってもよいでしょう。