【第一章:経堂農大通り商店街の野球部“経堂農大通り野球クラブ”創部】
【第一章:経堂農大通り商店街の野球部“経堂農大通り野球クラブ”創部】
経堂農大通り野球クラブは、東京都世田谷区、小田急線・経堂駅南口の「経堂農大通り商店街」の事業の一環として、1954(昭和29)年に創部されました。
当時中学生だった、故・終身名誉監督の黒田氏も、助っ人として試合に参加していたそうです。黒田氏によれば、当時はキャッチボールすら満足にできない部員も少なくなかったとのことです。
当初の主な活動は、「世田谷区商店街連盟(通称:区商連)」が主催する大会への参加でした。区商連での優勝がチームの目標であり、それが選手一人ひとりの技術向上、そしてチーム全体の強化の礎となったのでしょう。
そして創部5年目の1958(昭和33)年、ついに区商連大会で初優勝を飾りました。
商店街系野球連盟が最も活発だった時期には、世田谷区内にとどまらず、東京都全体を対象とした「都商連」――すなわち東京都大会も存在しており、そのレベルは非常に高いものだったと伝えられています。
私の幼少期の記憶や人づての話から想像するに、かつては全国的に、各商店街がまるでひとつの企業であるかのような強い結束力を持ち、他の商店街に対する対抗意識も非常に強かったのではないかと思われます。
毎年7月に開催されている「経堂まつり」をご覧になったことのある方はおわかりかと思いますが、そうした背景の中で、経堂農大通り商店街は、現在に至るまで当時の強固な結束力を維持し続けています。
そしてその結束力は、野球へのモチベーションにもつながり、やがて“区商連”という枠を超えた活躍へと発展していくことになるのです。
ちなみに、1969年(昭和44年)には、区商連北沢支部から派生して「北沢野球連盟(通称:北沢リーグ)」が発足し、現在に至るまで続く、羽根木公園での早朝野球への参加が始まりました。
そして、チーム結成から約30年が経過した昭和末期の1988年(昭和63年)、区商連や北沢リーグだけでなく、さらに広い舞台での挑戦を求めるようになった“経堂”は、新たな一歩として世田谷区軟式野球連盟への加入を決断することになります。
「旧・経堂の歴史」では、「商店街の2世たちが奮起し、友が友を呼び強くなっていき」と記されていますが、おそらく黒田氏がここで言う“2世”とは、現・総監督の簔口達也氏や、商店街理事の村上秀行氏の世代を指しているものと思われます。なお、彼らは“3世”にあたる可能性もあります。
自身の祖父がチームの創設に関わり、そのチームを自らが総監督として率いている。そこには、単なるチームへの愛情だけでなく、責任感、あるいはプレッシャーといった、他の草野球チームの総監督とは一線を画す重みがあると言えるでしょう。
この“重み”こそが、“経堂”の強みであり、現在の部員全員にも常に意識していてほしい、大切な部分です。
少し話が逸れましたが、この章でご紹介した内容こそが、チームの“根幹”であり、チーム内外を問わず、最も知っておいていただきたい、そして決して忘れてはならない、我々が誇るべき要素であることは間違いありません。
本来であれば、1987年(昭和62年)時点で結成から33年が経ち、その歴史は現時点(2011年4月)で57年に及びます。そして、その大半を占めるこの初期の歴史こそが、経堂の精神的な土台であるとも言えるでしょう。
しかしながら、年月の経過とともに、当時の資料や関係者からの情報が不足しており、細部については把握が難しい状況です。最も大事な時期であることは間違いありませんが、先述の理由により詳述できないのは、非常に残念でなりません。