第八章:経堂本町会関所クラブとの合併

2006(平成18)年~2007(平成19)年


前年の全国大会出場、世田谷区秋季大会優勝に続き、2006(平成18)年度の開幕戦とも言うべき都民体育大会(世田谷)でも優勝を飾ることができました。

そしてこの年参加したSG名球会リーグ戦では全勝優勝、北沢リーグ7連覇を達成するという2006(平成18)年度シーズンでした。

竹内寛は110打数11本塁打と、本塁打率(1本の本塁打を打つのに要する打数)10.0打数という、驚異的な数字を記録しました。


一見、順風満帆な1年のようですが、簔口達也のチーム運営は決して楽なものではありませんでした。深刻というほどではないものの、若干の人数不足もさることながら、部員の高齢化は進む一方でした。51年会(経堂における昭和51((1976))年生まれ部員の総称)の年齢がほぼ、チームの平均年齢になってから数年が経っていました。このことは、チームの平均年齢が年々、単調増加の途を辿っていることに他なりません。

チームの方向性を考えなければならない時期かもしれません。例えば5年後、10年後を考えたとき、チームの存続は前提として、引き続き全国大会優勝を目標とするのか、勝ち負け以前に野球をすること自体を目的とし、そのための運営をしていくのかなど。


そんな折、もっとチーム運営に重い悩みをかかえたチームがありました。世田谷区軟式野球連盟に所属し、同じく経堂を拠点として活動している経堂本町会関所クラブ(以下、関所クラブ)、そうです、2002(平成14)年頃から親交の深かった風間優一率いるチームです。

経堂駅から南東に伸びる本町会通り商店街の飲み屋“関所”の飲み仲間が結成し20年ほどの歴史を持つこのチームは当時24歳の風間優一チーム責任者(実質最高齢)となり、同年齢の菅井芳人、小野佑尋を中心に世田谷区1部昇格と、さらにその上を目指す経堂(以下、経堂農大通り野球クラブを示す)の好敵手で、経堂も大会で敗戦したこともある、発展途上のチームです。


経堂に比べるとかなり年齢層の低いチームでしたが、2007(平成19)年度から、大学卒業して就職を控えているなど、生活環境が変わり、出席することが難しくなることがわかっている主力選手が数名いました。

2007(平成19)年は人数不足のため、1部昇格を目指す以前に1試合戦うのにも大きな困難に会う可能性すらありました。20歳の時から責任者(それだけでも表敬に値します)を務める風間優一は交流のあった、関所クラブよりは高齢で構成されているチームである経堂の責任者、簔口達也に相談を持ちかけることが多々あったとのことです。

その相談のひとつとして「一緒にやらせてもらえないか」との旨、風間優一、菅井芳人、小野佑尋の3名で簔口達也宅に話を持ちかけに行きました。2007年1月のことです。

お互いチームを背負う者同士、関所クラブというチームも、できることなら残したいという立場から、チーム名を変えて合併という形や、連盟登録を2チームにし、総責任者簔口達也のもと別チームとして参加するなどの案も出されました。

その場で結論を出すことはできませんでしたが、連盟登録の時期である2月、関所クラブメンバーのみで1チーム形成することが困難であると判断した風間優一は決断したのでした。毎年2月に行われる世田谷区連盟の恒例行事である審判講習会の日、当日出席した関所クラブの選手に対し「今年度から経堂の一員として野球をしよう」と告げました。関所クラブ部員の反応は一様でありませんでしたが、結果、10名弱の関所クラブの部員が経堂の部員として活動してくれることとなりました。

こうして経堂と関所クラブはひとつのチームとして新しいスタートを切ることとなったのです。

これを機に2007(平成19)年の活動には、いくつかの改革がなされました。

そのひとつめとしては、2000(平成12)年以来使用していたユニフォームを変えることでした。パンツや帽子はそれまでのものを流用し、シャツをそれまでの白から紺色をベースとしたものに変更することで、現在のユニフォームとなりました。

もうひとつは試合数を増やすことでした。ひとりひとりの出場機会を確保しなければ、部員の定着は難しいと考えたのでした。それまで経堂はダブルヘッダーを組むことはあまりありませんでしたが、積極的に組んでいきました。そして、初めてストロングリーグさんのリーグ戦に参加しました。ストロングリーグの登録名のみ、チーム名を“経堂農大通りSK”とし、“関所クラブ”を表す文字を付けました。


このように運営方法を模索しながら2007(平成19)年度シーズンを開始しましたが、すぐに結果として良いものが現れるというわけにはいきませんでした。

一緒にプレーすることとなった元関所クラブ部員は、前年までチームの主力としてやっていた選手ばかりで、それがもう一度レギュラー争いを強いられたり、あまり試合に出場することができなくなったり、また関所クラブでは最年長であった24歳が、経堂では最年少に近いという環境の変化に戸惑う部員もいたようです。

さらに、元関所クラブの責任者であった風間優一が仕事等の都合により、この年からあまり参加できなくなってしまい、大きなパイプ役を欠いてしまったことも痛手でした。代わりに間に入ることになった菅井芳人、小野佑尋は大きな苦労をしたことでしょう。簔口達也の苦労の大きさは言うまでもありません。


野球の成績としては、春季都大会初戦敗退、夏季都大会準々決勝戦敗退、さらに世田谷区の大会では4年ぶりに無冠となってしまいました。

個人成績では長年エース投手として活躍してきた近藤直之の持病である肩痛が悪化してしまい、前年9勝(最多勝)を挙げたのに対し、この年は2勝のみ、長井正徳も5勝止まりということも大きく響きました。危機感を覚えた経堂は、ホームページのトップに「即戦力投手募集」と掲載したのでした。


チームの高齢化を防ぐためにも、この合併を良い方向にもっていくという課題は、初年の2007年度だけで解決することはできませんでしたが、この後のチームの充実は、この合併なしにはありえなかったと断言できます。

何か良いものを作るには、その陰で苦労をしている人達がいることを忘れてはなりません。


ちなみにこの年から若林勇介、春日忠彦が加入しました。