第四章:経堂農大通り野球クラブ解散?

1999(平成11)年の2月だったでしょうか?経堂農大通り野球クラブの主要部員数名が地元経堂のとある場所へ、黒田氏より大事な話があるということで招集されました。

“話”とはすなわち、黒田氏が「事情によりこの年からチーム運営責任者の役割を担うことができなくなるが、チームを存続させるのか?存続させるのであれば、商店街の一員として活躍し、長年商店街野球部の顧問として尽力してきた黒田氏の退任後、現状のまま経堂“農大通り野球クラブ”でいくのか?またはチーム名を変えて活動していくのか…?」


と、ひととおりの説明が黒田氏からあった後、参加者全員、ひとりひとり率直な考えを述べる運びとなりました。

チーム存続に関して積極的な意見もありましたが、チームとしての士気が落ちていたわけではないのでしょうが、消極的な意見もありました。実は簔口達也も一度、「ゲーム監督はできるけど、チーム運営全体は正直でききれない」と発言したのでした。それほど一草野球チームの運営をしていくことは大変なことです。本業以外にもう一つの職業を加えるようなものだと言っても過言ではありません。当時かかえていた仕事を含め自身の将来のこと、野球に対する思い、それに加え“経堂農大通り野球クラブ”という半世紀近く継続されてきたチームをかかえるプレッシャーなど、この会議中、想像を超えるほどの葛藤が簔口達也にあったに違いありません。


話し合いが進んだ後、チームの今後について決断を迫られる時間となりました。そのとき、


「オレがやる」


言ったのは簔口達也でした。

まさに一大決心。


この状況の中、これほどの決意をしなければならないという経験があること人は多くないでしょう。仕事でもない、家庭でもないことです。

このことは部員全員、自分に置き換え、真剣に想像してみてください。消極的意見を出す選手もいる中で自分だったらそのような決断を下すことができるのか。


こうして、

“経堂農大通り野球クラブ総監督簔口達也”

の誕生となりました。


同時に商店街のチームとして、新たな船出となりました。

ここ10年以内に経堂を知った方は簔口達也が当たり前にチーム代表を務めていると思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

しかし、決してそうではなく、この日、チーム最大の危機を救うために大きな覚悟のもとに誕生したというのが事実です。


そしてこれが、それまで頼りっぱなしであった黒田氏、商店街の運営体制から自立(独立ではない)することへの第一歩でした。

(現在でも黒田氏、商店街の方々に大いにお世話になっていることは言うまでもありません)