第三章:簔口達也(当時26歳)ゲーム監督誕生

1995(平成7年)~1998(平成10年)


1994(平成6)年までチームの運営、ゲーム監督を黒田純一郎氏が全て一人で行っていました。携帯電話が普及の途上段階で、携帯電話によるEメールはおろか、PCによるEメールも一般的ではありませんでした。基本的に個人の連絡手段は自宅への電話(留守番電話含む)のみで行っていた時代でした。

そんな当時、試合ごとの連絡は現在より何倍も大変な業務でした。メンバーの7割が学生だったということもあり、世田谷区軟式野球連盟のほか、早朝の北沢リーク・区商連大会・MWリーグ・暁リーグ、日中の神宮リーグ・サンスポ大会、さらにその他オープン戦と、年間130試合以上行っており、1日3試合ということも珍しくありませんでした。黒田氏は試合がある日ごとに、それぞれの自宅や携帯に電話をかけ、出欠の確認を取っていました。チームの年齢層が現在よりもかなり低かった状況下、何時振り返っても、本当に頭の下がる思いです。


1995(平成7)年、経堂陣営に大きな変化がもたらされました。ゲーム監督の座を、黒田純一郎氏から簔口達也へと引き継いだのです。

近年は監督業に専念する試合も多くなってきましたが、この頃はどんなに勝敗が大事な試合でも、常に試合へ出場しながら采配をふるっていました。当時はほとんど違和感を持っていませんでしたが、すごいことですね。そしてその後、このスタイルが長年続くことになります。

26歳だった簔口達也は血気盛んで試合中のゲキは、現在とは比較にならないものでした。同時に監督1年目とは思えないほどのリーダーシップを発揮し、チームをまとめていきました。

監督交代は見事、スムーズに移行することができ、初年の世田谷区春季大会で、いきなり優勝することができました。この大会の決勝戦最終回、リードした場面でルーキー近藤直之投手(当時19歳、体重70kg)が、エース竹内寛(当時25歳)の後を受けて登板し、胴上げ投手となりました。

前年まで主戦級投手であった仲尾次仁が帰郷し、“新二枚看板”のポジションを担い、近藤直之はこの年18勝を挙げました。

平成7年MWリ-グ(左)近藤直之(右)屋嘉比純

1995(平成7)年と、翌1996(平成8)年は世田谷区軟式野球連盟での大会メンバーをある程度固定できていました。


投手:竹内寛・近藤直之

捕手:喜屋武洋(長髪の名捕手)

一塁手:島田章徳

二塁手:簔口達也

三塁手:平良一暁(強肩・豪打の名三塁手)

遊撃手:屋嘉比純

左翼手:近藤直之・竹内寛

中堅手:長嶋勇也(次の塁を狙う走塁センス抜群)

右翼手:村吉大一・上間理博(若手リーダー同い年コンビ)


前章でも触れましたが沖縄県出身の学生が多く、沖縄の人たちは決まってなぜか酒好きでした。早朝野球後も午前8時から、当たり前のようにファミレスで生ビール3~4杯飲んでいました。

左から屋嘉比、喜屋武、花城、村吉

当時の経堂には主将制度はありませんでしたが、実質上、村吉大一氏が主将のような役割を担っていました。プレー以外のところでも存在感を発揮するタイプの選手で、試合中の成績などで目立つということは多くなかったものの、若手のまとめ役として上間理博や島袋俊哉と共に、黒田純一郎氏、簔口達也や若手から大きな信頼を得ていました。

チームの状態とともに成績も安定し、簔口達也新監督は順調なすべり出しに成功したのでした。

しかし、1997(平成9)年になると、様相が変わってきます。

村吉大一氏をはじめとした沖縄県出身学生の大学卒業による帰郷などが重なり、ある程度固定できていたメンバーも流動的になってきました。

それ以前も世田谷区の試合で人数に余裕があったわけではありませんでしたが、前述メンバーの中からも数名抜けてしまい、中でも特に前出の村吉大一氏が抜けたことはチームにとって大きな痛手でした。また、都大会も全国大会に出場したのち、どうせやるなら上部でという思惑のもと都大会1部で参加することとなりましたが、1部の強豪の前になかなか勝利することができず、都大会への参加意義も揺らぎつつあるような状況でした。


こうしてチームは一転、不安定な時期へと入ってしまい、不戦敗という最もあってはならないことも犯してしまうのでした。


もちろん悪いことばかりではなく、村上秀行、長井正徳、藤井研策といった、のちにチームの中核を担う選手たちが入部してきた時期でもありました。

村上秀行は商店街とのつながりを強くするために大きく貢献しています。この当時、藤井研策が連れてきた友人たちによってチームが救われたことも幾度となくありました。都立新宿高校硬式野球部監督だった長井正徳は、数年後に新宿高校から自分の教え子を入部させ、“経堂新宿”ラインを形成することとなるのでした。


このような状況の中、1999(平成11)年シーズン前に、経堂農大通り野球クラブを大きく変える会議が行われたのでした。


議題は「チーム存続について」…………。