第六章:HP開設・東日本大会出場

2001(平成13)年・2002(平成14)年


2000(平成12)年の時点では部員の中の既婚率は2割に満たない状況でした。第3章で部員の多くは学生であると記しましたが、2001(平成13)年の頃になると逆に、学生が少数派になりました。そしてさらに結婚をする部員が出始め、2001年だけでも3名あり、この傾向はその後も続きました。


2001(平成13)年は世田谷区の都民体育大会と秋季大会で優勝しましたが、夏季都大会2部では準決勝戦で、前年の同大会決勝戦の相手である鷺宮製作所さんに敗れ、全国大会出場はなりませんでした。

また冒頭にあったように、2001(平成13)年5月に経堂農大通り野球クラブのHPが開設されました。


2000年と2001年、都大会は夏季のみの出場でしたが、2002(平成14)年からは春季大会も出場させていただくようになりました。


東京都春季大会優勝 → 東日本大会出場

東京都夏季大会優勝 → 全日本大会出場

東京都秋季大会優勝 → 関東大会出場


東京都1~3部がそれぞれ上部A~Cクラスの大会へと対応しています。

そして行われた春季大会2部は1回戦で幸運な勝利を足がかりに勝ち進みました。駒沢球場で行われた東京都春季大会決勝戦、最後はセンター徳江政英の好プレーで勝利し、第24回東日本軟式野球大会1部(Bクラス)への出場権を得ました。

(詳細はこちら)

この都大会で、私は最優秀選手賞をいただきました。受賞者の選定は決勝戦終了直後、勝利チームの(主に)監督が行うため、決勝戦で活躍した選手が選ばれるケースがほとんどのようですが、私は決勝戦の試合に出席はしていましたが出場していません。大会を通じ、試合で活躍したのか?というと、出場こそさせていただいたものの、それほどではありません。こういったケースは異例のことで、連盟の方からも「この選手は決勝戦で出場していませんよね?(そんな選手を選定するなんて)いいチームですね!」とのお言葉を頂戴したとのことです。

私自身が受賞したということ以上に、チームとして最大級の賛辞に値する言葉が思い出深いことでした。

サッカーの日韓共同開催ワールドカップの最中、秋田県横手市へと遠征し、東日本大会へ初出場しました。

1回戦の先発メンバーは以下の通りです。


投手:長井正徳

捕手:宮崎祐司

一塁手:大内啓之

二塁手:簔口達也

三塁手:藤井研策

遊撃手:屋嘉比純

左翼手:近藤直之

中堅主:竹内寛

右翼手:廣田大輔


1・2回戦は現地でハリを打ちながら投げた近藤直之・長井正徳両投手の活躍と、好調な打線の援護もあって勝ち抜き、迎えた準々決勝戦。投手をやることがすでに少なくなっていた竹内寛が先発し、三振の山を築く好投を見せました。バックやベンチも大内啓之・長嶋勇也中心に異常なほどの盛り上がりを1回戦から継続していました。

この試合も先行し、優位に試合を進めていましたが、相手も長野県代表の強豪企業チーム。終盤疲れの見え始めた竹内寛が攻められ、逆転を許し、敗退してしまいました。


非常に悔しい思いをしましたが、この大会でのベンチ、チームの盛り上がりは忘れません。再び個人的なことですが、私も2回戦で投手として出場させていただくことができましたが、マウンドでの投球練習時に内野手が集まってきてくれ、励まされ、試合が始まってからもベンチの声に勇気づけられ、何物にも代えることのできない経験をすることができました。


そしてこの大会で経堂の試合を何かの縁で(グランドキーパーとして)ご覧になっていた方がいらっしゃいました。その方が“経堂”というチームのことを「東京で草野球やるなら面白そうなチームがあるぞ」とご子息にお話しされ、2010(平成22)年にご子息、中川正志選手が“経堂”へと入部してくれたのでした。

もちろん、誰かに見てもらっているという意識を持ちながら大会に挑んでいたわけではありませんが、そのように見てくださる方がいらっしゃったということは、チームとして非常に誇れることでしょう。

2002(平成14)年は東日本大会出場以外にも、世田谷区王座決定戦、北沢リーグ、区商連でも優勝することができました。区商連は8連覇達成となりましたが、この年をもちまして、長い大会の歴史の幕を下ろすこととなりました。経堂農大通り野球クラブがここまで発展してきたのは区商連のおかげであると言っても過言ではないだけに、非常に残念です。



野球の成績において、大きな成果を上げた2002(平成14)年ですが、この年は部員の動きに特筆すべきことが3点ありました。


ひとつ目は藤井研策の復帰です。

実は藤井研策は大学卒業後、経堂に参加できる機会がほぼ、なくなっていたのですが、この年の春先から復帰し、東日本大会出場に大きく貢献しました。そして、その後もさらに多方面でチームに貢献してくれています。


ふたつ目は屋嘉比純の帰郷です。

最も多い時で10名以上の沖縄県出身者が経堂に在籍していましたが、屋嘉比純を最後に0名となってしまいました。一時代を築いた沖縄県出身者がいなくなってしまったことは、とてもさみしいことでした。

そして最後は近藤洋之、風間優一が参加し始めたことです。

近藤直之の実弟である近藤洋之と、その高校の同級生風間優一は両者ともに経堂本町会関所クラブの部員であったため、早朝や練習試合のみの参加ではありましたが、ここから関所クラブとの交流が始まり、さらには経堂の発展へとつながっていったのでした。


これら3点は経堂の歴史を語る上で欠くことのできないことです。