2018年1月15日
阿每多利思北孤(アマタリシヒコ)は実在した。彼が法隆寺釈迦三尊像光背の上宮法皇であることを証明する。後世、上宮法皇は聖徳太子と呼ばれ、信仰の対象となった。本稿ではアマタリシヒコが百済昆支王の子孫であること、その死の原因が国際的な意味を持っていることを示す。
(1)隋書と日本書紀の違い
隋書では裴世清が会った阿每多利思北孤(アマタリシヒコ)は男性王であり、日本書紀では裴世清が会った推古は女帝である。この重大な性別の違いは明解には説明されていない。中国史書はアマタリシヒコの後宮に女六七百人 がいることを確認しているので、王の性別を間違えることはなく、書紀がアマタリシヒコを倭国王として記載していないのである。
隋書より、600年に倭王姓阿每字多利思比孤號阿輩雞彌(オオキミ) は隋に使いを出した。王の妻を「雞彌(キミ)」、太子を「利歌彌多弗利(ワカミタホリ)」というとある。日本書紀は神代紀からミコト、ヒメ、ミコで貫かれている。ミコト、ヒメ、キサキ、ミコが隋書に出てこないのは、日本書紀の用語は多利思比孤治世下では使われていなかったことを示している。ミコト系とオオキミ系があったことになる。同時期に二系統あったのではなく、オオキミ系から後にミコト、ヒメ、キサキ、ミコに移行した。例えば、オオキミは、日本書紀では称号ではなく尊称にのみ使われており、長屋王家木簡の「若翁(ワカンドホリ)」は「太子(利歌彌多弗利)」が転じたことを示しているからである。
また、日本書紀はアマタリシヒコの「秦王国」に触れていない。中国史書は、外国名を表現する場合、侮蔑的な文字を用いやすく、「秦王国」にはなりにくい。「秦王国」と呼ばれた理由も考察しなくてはならない。
さらに、隋書には倭国の冠位12階が大徳、小德,大仁,小仁,大義,小義,大禮,小禮,大智,小智,大信,小信の順に記載されているが、推古紀の冠位12階は、大徳、小德,大仁,小仁,大禮,小禮,大信,小信,大義,小義,大智,小智で、一部順序が異なるのみである。したがって、隋が把握した倭国と推古朝は無関係というわけではない。
隋書を基本にして日本書紀との矛盾を解決することを目標に以下に考察する。
(2)金石文
歴史書以外で、日本国内に残されている600年頃以降の文字資料を検証する(これらの原文はサブページとして貼り付けてある)。
①法隆寺釈迦三尊像光背
623年頃に完成され現存する。法興元卅一年が基準年として使われている。歳次辛巳は621年である。文意は「621年12月上宮法皇の生母鬼前太后が死去。翌月には法皇も病に臥し、干食王后も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とが、法皇の等身大の釈迦像を造ることを発願。しかし、622年2月21日干食王后が、翌日に法皇が相次いで亡くなった。623年3月に釈迦像、脇侍像を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師」である。登場人物の呼称は太后・法皇・王后、他に王子がある。ミコト、ヒメ、ミコ、キサキ、宮名、天皇、治天下は出てこない。
②丈六光銘
丈六光銘の原典は失われ、元興寺伽藍縁起並流記資財帳(747年作) にそのコピーが残っている。裴世清来訪の翌年に記述したとあるので609年に丈六光銘は作成されたとみられる。「天皇名廣庭在斯歸斯麻宮時・・・」「止與彌擧哥斯岐移比彌天皇 在揩井等由羅宮」など天皇名で年代を表わす一方、元興寺を建てた年を基準に「十三年歳次乙丑・・」とあり、銘文としての厳格性を欠く。609年は法隆寺釈迦三尊像光背の法興年代にあたるので、法興年号が記載されてしかるべきだが、コピーにはない。「池邊天皇之子名等與刀禰ゝ大王」は等與刀禰ゝ(豊聡耳)を「大王」と呼称しているが、609年当時、アマタリシヒコが「大王」を号していたのであるから、等與刀禰ゝを「大王」と書くことはありえない。また、「止與彌擧哥斯岐移比彌」は推古天皇の諡号であるので、丈六光銘コピーはアマタリシヒコ大王の没後、かつ、推古天皇の没(628年)以降に作られていることになる。「歳次戊辰(608年)大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之」は裴世清が丈六仏を訪れたことを記しており、隋書の年次や日本書紀の時期とも一致し事実と推定される。
③法隆寺金堂薬師如来像光背銘
「池邊大宮天皇」は用明天皇(~587)のことで、用明天皇が病気のときには、推古はまだ天皇ではないので、推古天皇を大王天皇と書くこの銘文はすくなくとも推古天皇即位後に書かれた。大王天皇の呼称は「大王」がアマタリシヒコの称号であるから、さらにアマタリシヒコの没後に製作年はずれ込む。
④天寿国繡帳
橘大郎女(厩戸皇子の妃)が厩戸皇子の没後すぐに作った文意であるが、文中の「等已弥居加斯支移比弥」は推古天皇の諡号であるから、推古天皇没(628年)以降の作である。銘文の文体・内容が橘大郎女と推古天皇の発言を直接話法で記すなど、縁起文の体裁であることから、厩戸皇子没後かなり時間が経ってからの作成とみられる。厩戸の母を母王と呼び、厩戸を太子、大皇、大王と呼称している。ミコトが使われ、姻戚関係には子、妹、后、大后、大后弟、庶妹、女が用いられている。
⑤塔露盤銘
元興寺伽藍縁起并流記資財帳に「難波天皇之世辛亥正月五日 授塔露盤銘」と題し、紹介されている。「難波天皇之世辛亥」は孝徳天皇の651年にあたり、厩戸没後相当経ってから書かれた。丈六光銘では欽明天皇に「治天下」はつかなかったが、塔露盤銘のコピーでは「大和国天皇斯帰斯麻宮治天下名阿末久爾意斯波羅岐比里爾波彌己等之(世は脱字)」と「治天下」が付いている。孝徳天皇を難波天皇、欽明天皇を大和国天皇と呼ぶ例をほかに見ない。「佐久羅韋等由良宮治天下名等己彌居加斯夜比彌乃彌己等世」のように治天下と世が並存しているのも銘文としての厳格性を欠いている。
⑥元興寺伽藍縁起并流記資財帳
元興寺伽藍縁起并流記資財帳は747年の作とされ、仏教の縁起を記載している。推古と兄妹の関係にある用明を池辺皇子と呼んでいるので、推古は皇女と書くべきであるが、「大大王」と書いている。推古の夫の敏達天皇が亡くなってからは「大后大々王」と呼び、天皇に即位すると、「大大王天皇」と呼称し、大大王を推古の固有名詞として用いている。
⑦上宮聖徳法王帝説
810年以降の作とされる。本文に書かれる厩戸の業績は書紀にも書かれているものである。法隆寺金堂薬師如来像光背銘を全文を引用し、「池辺大宮御宇天皇、大御身労賜、時歳次丙午年、召於大王天皇与太子、而誓願賜、我大御病大平欲坐故、将寺薬師像作仕奉詔、然当時崩賜、造不堪、者少治田大宮御宇大王天皇、及東宮聖徳王大命受賜、而歳次丁卯年仕奉」と、「治天下」をわざわざ「御宇」と書き換えている。続いて、法隆寺釈迦三尊像光背を全文引用し、「法興元卅一年」を「法興元世一年」とコピーし、「後の人は(法興を)年号と思うかもしれないけれどそれは間違い」とまで言い切っている。
これらをまとめると、法隆寺釈迦三尊像光背(①)にでる人物は法皇・太后・王后と王子であり、スメラミコト・ミコト・ミコ・ヒメミコ・キサキは出てこない。また、年次は元号を用いている。②~⑦の銘文はすべて天皇名を用いて年代を表しているので、天皇号が使われてはじめてから作成、あるいはコピーされたとできる。法隆寺釈迦三尊像光背はそれ以外のものとは別系統と判断される。法隆寺釈迦三尊像光背が作られた時代は、天皇の治世下ではない。法隆寺釈迦三尊像光背銘は現存しており、歴史の不動点である。
写真:法隆寺釈迦三尊像光背銘拓本
(3)上宮法皇政権の存在
上宮聖徳法王帝説(⑦)は、法隆寺釈迦三尊像光背を引用し、「法興元卅一年」を「法興元世一年」と読み替え、法興は元号でないと説明した。しかし、同銘文中に「世」の文字はあり、「卅」の文字とあきらかに異なる。よって「法興元世一年」とするのは無理で、「法興元卅一年」であり、「法興」は年号である。上宮聖徳法王帝説は「法興」を年号と認めないと主張したかったのである。上宮聖徳法王帝説の主張は、現代の大化以前の年号を私年号とする考え方に踏襲されている。私年号とは公年号に対する言葉で、法興年号を称した政権を私的な政権、あるいは、現政権からの連続性を認められない政権と言っているのである。法隆寺釈迦三尊像光背銘の読み替えを試みた上宮聖徳法王帝説は、歴史修正主義である。書紀によって法隆寺釈迦三尊像光背を説明できないのは、書紀が歴史を改竄しているからである。書紀の記述に無くとも法興年号を定めた政権は実在し、上宮法皇、鬼前大后、干食王后は実在したのである。
上宮聖徳法王帝説は、鬼前=神前とし、鬼前大后=穴太部間人王、干食王后=膳大刀自とし、姻戚関係にある人物を同一化して、上宮法皇=厩戸皇子だと結論付けようとしている。しかし、鬼前太后がなぜ穴太部間人王に結びつくかの説明はなく、上宮法皇の后が厩戸皇子の后に一致する説明もない。上宮法皇=厩戸皇子なら、法皇、母、后について、死亡日が一致しなければならないが、以下のとおり食い違いがある。
(a)釈迦三尊像光背では、上宮法皇の母の死亡日は法興31年(621年)12月(日付はない)、上宮法皇は法興32年(622年)2月22日、王后は法興32年(622年)2月21日。
(b)書紀では厩戸皇子は推古29年(621年)2月5日に死亡、他の二人の死亡記述がない。
(c)天寿国繍帳では孔部間人母王の死亡日は推古29年(621年)12月21日、太子の死亡日は推古30年(622年)2月22日、后は亡くなった記述がない。
「法興元世一年」と読み替える行為は稚拙で、主張は最初から破綻しており、上宮法皇≠厩戸皇子である。上宮聖徳法王帝説は上宮法皇=厩戸皇子とすることによって上宮法皇実在の否定を目的としているとせざるを得ない。書紀が上宮法皇を記載しないのであるから、上宮聖徳法王帝説以前にも、上宮法皇を歴史上消す行為があったものと考えられる。法隆寺釈迦三尊像光背以外の史料が上宮法皇没後に作成されたり、コピーされたのは上宮法皇の存在を消す目的ではないかと考えられる。そうだとすれば、その対象は、上宮法皇にとどまらず、上宮法皇にいたる系列もその対象である。人物画像鏡には「日十大王」が確認されるがこれも書紀には現れない。大王系列というのが実在していて、書紀はその存在を否定したのであろう。現に既に述べたように書紀では「大王」は単なる尊称としてしか使われていない。また、上宮聖徳法王帝説が「治天下」を「御宇」に書き換えたのは、「治天下」が稲荷山鉄剣(獲加多支鹵大王)にあるように、大王系の用語だったからであろう。
(4)上宮法皇=アマタリシヒコ大王
上宮法皇を歴史上の人物に同定する。法皇は政権の最高位の人物が出家した称号である。アマタリシヒコ大王は倭国王である。彼が出家したと思わせる記述が隋書にある。アマタリシヒコは遣隋使(607)を通じて「海の西の菩薩天子が仏法を重んじ興すと聞き、よって朝拜し兼ねて僧侶数十名をつかわし仏法を学ばせに来た」といった。倭国の仏教は百済からのものであった。隋の文帝は仏教治国策をとり、煬帝は受戒していた。アマタリシヒコ大王は百済仏教をおしすすめ、仏教による統治を志向し、さらに隋に仏法を求めた。608年に来訪した裴清にアマタリシヒコ大王は言った「我は聞く、海の西に大隋が有り,禮義の國ゆえ,遣いをやって朝貢した。・・・請い願わくは大國の惟新の化を聞くことを」。裴世清は言った「皇帝の徳と儀が四海に流れ世界を慕わせる。故に使をやらせ、これに諭を宣す」。裴世清は使いをやって伝えた「朝命既達,請即戒塗」。「戒塗」は仏教用語の「受戒塗香」のことで、戒をまもり香を塗り身を清める意味である。「於是設宴享以遣清」はアマタリシヒコ大王が「戒塗」を受け入れた、すなわちアマタリシヒコ大王は受戒塗香したと読める。大王が仏門に入れば法皇となる。法皇となれる最高位人物はアマタリシヒコ大王しかないので、上宮法皇=アマタリシヒコ大王と結論される。
伊予湯岡碑の銘文にも、上宮法皇が登場する。この銘文は伊予風土記にあり、「法興六年十月歳在丙辰我法王大王与恵慈法師及葛城臣逍遥夷与村正観神井歎世妙験欲叙意聊作碑文一首・・・」と、そのコピーが釈日本紀などに残る。法興6年(596年)に法王大王が三宝の棟梁の恵慈法師と大和の葛城臣をしたがえて伊予を逍遥した記録である。法隆寺釈迦三尊像光背と同じ法興年号であるから、法王大王=上宮法皇(=アマタリシヒコ大王)である。
(5)アマタリシヒコ大王=聖徳太子
裴清の来訪経路は「度百濟,行至竹島,南望耽羅國,經都斯麻國,乃在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同于華夏,以爲夷洲,疑不能明也。又經十余國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。」である。「至」の最後が秦王国であるから、大王の居所は秦王国である。秦王国から十餘國を経て海岸に達する。筑紫より東で、十餘國を経て海岸(絶海?)に達する国といえば、畿内となる。筑紫より東はみな俀に着き従っている。俀は日本列島の中心的な地域で秦王国はその中心的な国である。隋書は秦王国の人は夏(=中国)と同じ人で、なぜ、夷洲というのか解らないという。この解釈は次節で述べる。
上宮聖徳法王帝説が上宮法皇と厩戸皇子を同定しようとしたのであるから、日本書紀に書かれる厩戸皇子の事跡はすべて上宮法皇(=アマタリシヒコ大王)の事跡と見る事が出来る。仏教公伝にまつわる物部と蘇我の戦いでは蘇我は若きアマタリシヒコを担いだのである。崇仏派と廃仏派の争い (588年)は、崇仏派が勝ち、仏教が政治に根を下ろした。仏教は、文化的には文字を、建築では、塔、瓦葺、礎石、伽藍をもたらした。仏教以前の社会は自然崇拝、呪術、占い、人身御供の世界で、政治は豪族を主体としていた。アマタリシヒコ治世下で、冠位12階が定められ、登用人事に移行した。十七条憲法はアマタリシヒコ治世下で制定したもので、政治を行う者の心得であり、それまでの倫理観を否定する。伊予風土記の「法王大王」の呼称は、アマタリシヒコが仏教統治を目指した人物であることを示している。三経義疏を講じたのはアマタリシヒコの仏教家としての行動である。
書紀によれば厩戸皇子は河内の磯長に葬られた。磯長の叡福寺古墳は聖徳太子廟といわれており、明治時代の調査で三棺が葬られていることが判っている。三棺は聖徳太子と母と后のものと伝承されている。母と后と連続死した上宮法皇の事実に合致する。
夾紵棺は、布と漆を交互に塗り重ねて作られた棺で、身分の高い人物に限って使用された。阿武山古墳は20枚、牽牛子塚古墳は35枚の麻を重ねて作られているが、柏原市安福寺保管の夾紵棺(部分)は絹布を45枚も重ねたもので、もっとも丁寧に作られている。叡福寺古墳の石室内は明治12年に調査され、夾紵棺の断片が36ℓあった(その後行方不明)。安福寺の夾紵棺は幅1mの棺と復元できる。阿武山古墳の夾紵棺の幅は62cm、牽牛子塚古墳の棺台の幅が78cm、天武天皇の棺台の幅も75cm、安福寺夾紵棺よりもかなり小さい。聖徳太子の棺台の幅は111cmとわかっているので、聖徳太子墓ならば幅1mの棺がうまく納まる。安福寺の夾紵棺が叡福寺古墳の棺ではないかと考えられているのである。
これらから、聖徳太子廟はアマタリシヒコ大王の墓所である。
写真:叡福寺聖徳太子廟 古墳の形式は岩屋山式で年代は7世紀第2四半期以降とされる。石棺ではない。改葬されたものと見られる。
(6)アマタリシヒコ大王の出自
獲加多支鹵は全国統一をし、「治天下」を用い、「大王」と号していた(「倭の五王」参照)。獲加多支鹵大王(=武?)の後には日十大王(昆支系)が就任した(「継体天皇」参照)。日十大王がアマタリシヒコ大王(574~622、574=聖徳太子の出生年)につながると出来るのは、貴族は、自身が支える王族をみずから変更することはありえないからである。アマタリシヒコ(=聖徳太子)を支えた蘇我馬子の祖は昆支王を支えた蘇我満智(木刕満致)である。したがって、アマタリシヒコは昆支王系であると類推される。昆支王は渡来した百済王族で、百済はのちの扶余隆墓誌にあるように辰朝を自任しており、辰国の後裔としている。すなわち辰王というわけである。アマタリシヒコの出自は百済であるから、辰王を自任したのではないか。
中国史書では、辰韓を秦韓とも書く。これに倣えば秦王国=辰王国(=辰国)である。辰国は三韓の前身である。三韓時代になっても、辰王は存在し、常に馬韓から輩出していた。「アマタリシヒコ」は天孫降臨を現している名前で辰王の系統を引くことを意識しており、そこから、隋書の「秦王国」が生まれたのではないだろうか。アマタリシヒコは河内国に居たので秦王国は河内のことと思われる。
隋の使者が秦王国の人を夏と同じ人と判断したのは、アマタリシヒコが長身であったからだろう。長身であったことは、釈迦三尊像がアマタリシヒコ(=上宮法皇)をモデルとしており(銘文により釈迦三尊像は上宮法皇がモデル)、長身で、倭人の特徴を持たなかったからである。
(7) 大和の歴史の実体
アマタリシヒコ大王は煬帝(604~618)の大業三年(607)にも朝貢した。国書の「日出處天子致書日沒處天子無恙」をみて、煬帝は面白く思わず、外務卿に「蠻夷の書は無礼である、再び聞くことはない」といったが、裴清を遣わした。日本書紀では推古天皇が裴清に会っており、小野妹子が隋の煬帝から授かった書を百済で掠め取られたとする。国書を掠め取られることは絶対にないので、国書紛失話は「推古天皇と裴清の面会は事実だが、その証拠は残っていない」と、虚偽を真実だと申し立てる論法であろう。一国の訪問に国書を2通作成することもありえないだろうから、裴清が会った倭国王はアマタリシヒコしかない。書紀が推古天皇と裴清の面会を書くのは、歴史的に大きな事象が欠けているのがまずいからであろうが、明日香に来た裴清が大和国王の推古を表敬訪問した可能性はないとは言えない。秦王国のもとで仏教が大きく発展した事実を消し去ることはできなかったので、書紀は推古天皇を仏教本格導入時の倭国王としたのであろう。
写真:法隆寺釈迦三尊像 法隆寺釈迦三尊像は光背の記述により、上宮法皇の等身大の仏像である。
写真:飛鳥寺大仏(丈六仏)頭部しか残っていないが、面長で法隆寺釈迦三尊と似ており、アマタリシヒコがモデルである。
丈六仏はアマタリシヒコが作らせた大仏であるから、裴清は明日香に奉拝に来たのである。丈六仏を収める元興寺は蘇我氏(アマタリシヒコの家臣)の氏寺とされる。推古紀の丈六仏を収めるのに難儀した話は、大和が仏像を作った印象をかもし出すためで、国書紛失と同レベルの発想である。丈六光銘の「巷哥名伊奈米大臣」は秦王国の「大臣」である。
仁徳の宮が堀江の南にあったことから、大王政権の宮は上町台地にあったと推測され、難波は俀国の首都だった。したがって、アマタリシヒコの宮は難波にあったと想定できる。645年に、孝徳が蘇我入鹿暗殺直後、難波に遷都宣言したのは、難波が倭国の都であったからである。
元興寺(飛鳥寺)[注]が最古の寺院とされるが、同時代に上町台地の四天王寺や富田林の新堂廃寺(オガンジ)が存在したので、元興寺が最古であることにそれほどの意味がない。因みに、百済扶余には6世紀末に四天王寺式の烏含寺(オガンジ)が建てられている。仏教公伝は大和を舞台としているが、最古級の寺院の分布から見て、仏教は河内の倭国王が展開した。仏教導入の立役者はやはり蘇我であった。蘇我と物部との戦いが河内の渋河であり、仏像が投げ入れられたのが難波の堀江であるから、仏教公伝の舞台は河内が中心である。聖徳太子以降の仏教寺院の数は大和よりむしろ河内のほうが多いことも注目されるべきである。日本書紀は仏教導入に関する史実を大和国に限定して書いたのである。元興寺伽藍縁起并流記資財帳は日本書紀を裏付ける形で縁起を書いた。609年に書かれた丈六光銘には法興年号が入っていたはずだが、元興寺伽藍縁起并流記資財帳は法興年号を消し、元興寺建立時を基点に年数を勘定しコピーした。その結果、銘文は厳密さを欠いた。丈六光銘の「天皇詔巷哥名伊奈米大臣」は「大王詔巷哥名伊奈米大臣」だったに違いない。上宮聖徳法王帝説などにみられるように、大王政権の歴史を消し去ろうとする政治的な力があった。しかし、元興寺は自分たちと関係の深い蘇我氏について、コピーにおいても巷哥伊奈米大臣、巷哥有明子大臣と記し、蘇我稲目大臣とか蘇我馬子大臣などと貶めた名前に変更することはなかった。
[注]飛鳥寺:東亜日報2008.04.17 飛鳥寺のモデルが、百済の王興寺である可能性。王興寺は百済威徳王が、建てた寺院。出土した舎利容器を分析した結果、577年2月に創建。日本書記に「敏達6年(577)11月、百済王が技術者を日本に送り、崇峻元年(587)に百済が仏舎利を送った」とある。また奈文研ブログ2015年2月に、飛鳥寺に伝わる記録には、593年の仏舎利を心柱に収める式典で、馬子はじめ100人以上が百済風髪型、百済服で列席したとある。
(8)上宮法皇の死
法隆寺釈迦三尊像光背銘は上宮法皇一家の連続死を語っている。蘇我氏にとっては支える王族を失う危機であった。王を失った蘇我氏はおそらく上宮法皇の王子か王弟の山背大兄を擁すべきであろうが、書紀によれば入鹿は山背大兄を廃し、自ら王になろうとし(入鹿は自分の子を王子といった)、それゆえに暗殺されたとする。上宮法皇一家の連続死のあと、皇極紀で、山背大兄は自殺し、蘇我入鹿は暗殺され、蘇我蝦夷も自殺した。百済からみれば、昆支王とその貴族木劦満致系を一掃したことになる。入鹿暗殺の3年前に、百済から翹岐王(義慈王の弟)が佐平と40名余りの高名な人々とともにきている。入鹿暗殺直後、孝徳(=翹岐)は政権を得て難波に移ったのである(「翹岐=孝徳天皇」参照)。河内は新しい百済王の分家に塗り変わったことになる。河内が百済の分国である(「継体天皇」参照)との結論からすれば、アマタリシヒコが百済仏教から隋の仏教治国策に乗り換えようとし、100年ぶりに中国に遣使し、天子を自称したのは、百済からみれば独立宣言である。河内にある百済王の分家が塗り変わった事実は、百済が河内王の人事権を握っていたことを示している。百済は翹岐を投入して倭国を仏教治国から律令制に変更したと見る事が出来る。
孝徳(=翹岐)は645年に大化年号を発した。「大化」を日本の最初の年号とする歴史学は、法興年号を使ったアマタリシヒコ大王系の政権(河内)を征服された政権とする立場である。書紀は日十大王からアマタリシヒコ大王までを除外して歴史を編纂した。上宮聖徳法王帝説は金石文の解釈変更によって、書紀を補強した。
入鹿暗殺の直後、蘇我蝦夷は自殺し、蝦夷は天皇記・国記を焼いた。が、船史恵尺によって国記は取り出され、中大兄に渡されたという。船史は文字を操る河内の渡来人である。河内の大王の歴史を記載した船史家が自身の作品を救出した事を書紀は記したのである。
聖徳太子信仰は上宮法皇への御霊信仰ということだろう。上宮法皇の御霊を鎮めるために、聖徳太子が創作され、業績を顕彰し太子信仰を起こし、人々に崇敬の念を起こさせた。聖徳太子を作り上げた者は、上宮法皇一家3人が連続死した事、上宮法皇の存在を消したことに責任を感じ、御霊を恐れたということであろう。
このようにして、河内の大王系列は絶えた。河内の多くは渡来系である。渡来系豪族達は河内の大王を支え、河内を中心に栄えた。渡来人は職を専業とする集団である。それに比し、大和の豪族は専業がなく、土地に根ざした者である。歴史学上は大和の土地に根ざす豪族を「臣」と呼び、職を中心とした渡来系は「連」と分類したが、日本書紀では「連」の多くを皇室以外の神々を祖とするとして扱った。すなわち「連」を、身分制度として他人扱いしたのである。
(9)その他
新唐書の多利思比孤
新唐書の東夷伝「其王姓阿每氏,自言初主號天御中主,至彥瀲,凡三十二世,皆以「尊」爲號,居築紫城。彥瀲子神武立,更以「天皇」爲號,徙治大和州。次曰綏靖,次安寧,次懿德,次孝昭,次天安,次孝靈,次孝元,次開化,次崇神,次垂仁,次景行,次成務,次仲哀。仲哀死,以開化曾孫女神功爲王。次應神,次仁德,次履中,次反正,次允恭,次安康,次雄略,次清寧,次顯宗,次仁賢,次武烈,次繼體,次安閒,次宣化,次欽明。欽明之十一年,直梁承聖元年。次海達。次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。崇峻死,欽明之孫女雄古立。次舒明,次皇極。」に多利思比孤は用明の事と出る。これを事実だとする説もあれば、用明は587年死亡であるから多利思比孤でありえず、したがって中国の史書は信用できないとする論もある。新唐書は「自言」をつけている。中国が事実確認をしたわけでなく、伝聞であると述べているのである。「用明,亦曰目多利思比孤」も倭国の自己申告をもとにすればという意味である。したがって、アマタリシヒコ=用明は日本側の伝達ミスである。
十二階
書紀推古紀の冠位12階は、大徳、小德,大仁,小仁,大禮,小禮,大信,小信,大義,小義,大智,小智である。隋書には「內官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。」とある。この違いの説明をする。新唐書がミコトに「次」を用いているのは、伝聞を間違いなく書いた事を示している。隋書の12階の順序は「次」を用いてアマタリシヒコ政権が申告したものを確認して記したのである。逆に、推古の12階の順序が隋書と違うのは、推古政権が隋と交渉していないことを示している。つまり、推古政権は倭国の代表ではなかったことを、書紀は迂闊にも12階の順序をいじることによって露呈してしまったといえる。
(10)おわりに
法隆寺釈迦三尊光背銘は歴史の不動点である。この不動点を史実とすることによって、書紀とは異なる歴史が得られた。金石文のコピーには変更があることがわかった。法隆寺釈迦三尊光背はまだ残っているが、上宮聖徳法王帝説にあるコピーは変更されている。丈六光銘はすでになくなり、747年作の元興寺伽藍縁起并流記資財にコピーされたものが最も古い資料となってしまった。元興寺伽藍縁起并流記資財の本文の内容は、日本書紀の仏教伝来の記述となんら変わるところがなく、日本書紀の仏教公伝は文献上裏打ちされた。けれども、考古学上証明されたわけではない。いくら古くても、改竄された資料を正しい史料とするわけにはいかない。
書紀は昆支系日十大王からアマタリシヒコ大王までの政権を歴史上葬った。アマタリシヒコ大王の業績については、推古天皇の皇太子のものとして挿入して残した。書紀に出る大王(オオキミ)は尊称に変じた。太子(ワカミタホリ)は若い者(ワカンドホリ)という意味に変わった。日本書記は大王称号や太子称号をも認めなかったのである。元興寺資財帳が推古天皇を大大王と呼んだのは河内王朝の大王位を凌ぐ意味であった。アマタリシヒコ大王政権を否定する意向は元興寺資財帳はじめ多くの金石文を書き換えさせた。そんな中で法隆寺は本尊(アマタリシヒコ大王)を光背銘とともに今も守っているのである。
「天皇記は焼かれた」と記述された。大王系の称号や姻戚名称や治天下やその年号を否定する政権だから、存在したのが「大王記」であっても、「天皇記」と言い直したのである。それが焼失したというのも作られた事実かもしれない。