扶余勇=天智天皇説

2017年7月25日


百済が唐・新羅連合軍に破れ、暫く百済人による抵抗運動があった。最後の戦いとなった白村江のころ、旧唐書に百済王子扶余勇が敗走し倭国に渡った事実が書かれている。大陸からの攻撃に備え、水城や朝鮮山城を作った書紀の天智天皇は扶余勇であるとせざるをえない。天智称制の理由をあきらかにする。日本国号を定めたのは扶余勇である。扶余勇には元倭国王(=大海人皇子)のサポートがあったことを示す。また壬申の乱の背景も考察する。


(1)扶餘豊と扶餘勇

扶餘豊は百済義慈王の王子である。扶餘豊は顯慶五年(660年)以降に、百済復興を企て唐に反逆する鬼室福信によって王に迎えられた(旧唐書)。扶餘豊は白村江の戦い(663年)で大敗し宝剣を捨てて高句麗に逃れた。他方、日本書紀では扶餘豊璋は扶餘善光とともに倭国に人質として逗留していたが、百済崩壊(660年)を受けて、倭国王から王を授けられ、百済に送り返された。したがって扶餘豊璋=扶餘豊とできる。旧唐書「餘豐在北,餘勇在南,百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦相影響,・・・」は唐が高句麗を倒す段階の状況を記している。餘豐(扶餘豊)は北(高句麗)におり、餘勇(扶餘勇)は南(倭国)におり、百済・高句麗は旧知の間柄で、援助してくる可能性があり、倭国は遠いと雖も影響があると唐は警戒しているのである。

扶餘勇は義慈王の王子である。唐が高句麗を倒すにあたって警戒していた人物である。劉仁軌の条「扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」により扶餘勇は倭国に逃避した。劉仁軌の条「…自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。餘豐脫身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠誌等,率士女及倭眾並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。」は白村江のあと豊が逃走し、王子忠勝・忠詩やその他が投降したこと、城も取り戻し百済残党は壊滅したと言っている。そのあと劉仁軌の上表文の話が挿入され、「・・・扶餘勇者,扶餘隆之弟也,是時走在倭國,以為扶餘豐之應」とつづく。是時とは「白村江後に残党の多くが投降した」事を指している。 扶餘勇は白村江の戦いで負けたが倭国に逃避した。通説では「扶餘勇=扶餘善光」とされるが、続日本紀の天平神護2年6月28日の百済崩壊に関する記事で「禅広は百済に戻らず」とあるので「扶餘勇扶餘善光」である

禰軍墓誌「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」[注1]の「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅」は半島から扶桑に敗走した人物がいることを示している。白村江の戦いの後に、扶桑に逃れた首魁は扶餘勇であるから、日本餘噍とは扶餘勇のことである。扶餘勇は倭国に遁れた多くの百済貴族が戴くべき王族である。 


(2)倭国と扶餘勇

劉仁軌の条「麟德二年(665年),封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,高宗甚悅,擢拜大司憲」は、666年正月に山東省泰山で行われる封禅の儀に、劉仁軌が新羅、百済、耽羅、倭の4国の国王を率い赴會することになって、唐の皇帝は大いに悦ぶと言っている。封禅の儀は中国皇帝が特に偉大な皇帝であることを誇示する目的があり、他国の長の列席は唐に従ったことを示している。この4国は劉仁軌の配下に入ったと思われる。新羅は唐の属国であり、百済は唐によって滅ぼされ王は連行されており、百済下にあった耽羅は662年に新羅に下っている。これら3国はすべて唐の配下であるので、倭国も唐の配下とせざるを得ない。白村江の戦いで倭国は唐に領されたのである封禅の儀に行った倭国王を書紀で探しても、天智称制で存在しないけれども、実際に倭国王(倭国酋長)は存在し、白村江に出陣する指揮をとり、敗北して降伏したのである。この倭国王が誰なのかは後に述べる。

百済残党が半島を去ったのが663年9月24日、劉仁願が郭務悰をつかわしたのが664年5月である。この時から、白村江での倭国の罪が責められ、665年には封禅の儀に倭国王が参列することが決まった。ところが、書紀の664年3月、善光を難波に住まわせている不思議がある。不思議とは、倭国政権がこれから唐に裁かれる局面で、孝徳の首都であった難波に百済勢力を置くのは、唐への敵対心を強調していることになるからである。扶餘勇=善光説では、倭国王が扶余勇を難波に据えて自ら罪を重くする行為をしたことになり、理解できない。扶餘勇≠善光であるから、善光を難波に住まわせたのは、扶餘勇でありえ、扶余勇が倭国を支配したのではないかという新しい解釈がえられるのである。扶餘勇の倭国での行動は改めて考究されなければならない。


(3)大宰府防衛施設

書紀では、天智天皇は百済の遺臣たちをつかって、大宰府の水城(664築城)、大野城(665年8月築城)、基肄城(665年8月築城)を造らしめたとある。

左:大宰府水城の位置

全長1.2km  高さ13m 幅75mの壇の上に幅15mの堤を築く(岩波書店:「大宰府と多賀城」より)



下:現在の水城

これらをつなぐ土塁(51kmの羅城とみられる)の一部が発掘されている(上図、筑紫野市のホームページ)。百済の首都泗沘を守る羅城と比較されている。規模の上で古代東アジア最大の可能性があるという。隋書では倭国は無城郭と記されているので、これらの遺構は、扶餘勇が白村江敗戦で倭国に渡ってきて百済貴族達に作らせた朝鮮半島式の防衛設備と考えざるを得ない。したがって、天智天皇の行動として書かれるものは扶余勇のものである可能性が至極濃厚である。あわせて、百済勢力が善光を難波に住まわせたと考えると、百済勢力が倭国を取り仕切ったともできるのである。以降、天智天皇を扶餘勇として考察する。


(4) 扶餘勇=天智天皇説

天智紀の白村江以降に記される天智天皇(中大兄皇子)の行動を扶餘勇の行動として検証してみる。

①白村江の敗戦で百済の再興は不可能になった。扶桑の地に逃れた扶餘勇は多くの百済遺臣たちと共に、百済王家の維持と政権づくりを目指す。倭国王は白村江の敗戦で威信が低下している状態である。倭国を手中に収めるために善光を元首都の難波に居住させる。唐の攻撃に備え、対馬・壱岐・筑紫の国に防人と烽火台を置き、いち早く連絡が来るようにする。同時に大宰府の防衛施設を手がけ、665年には築城が終わり、そこを居城とする。首都としての品格を備えなければならないから水城のような威厳のある建造物が必要となる。百済人が造るので百済の首都泗沘に似た物になるのは当然である。

②郭務悰は664年5月の来訪で、倭国の戦後処理を行ったと思われる。扶餘勇の動静の把握も目的であった筈である。郭務悰は饗応されたと書かれる(天智=扶余勇によって)。郭務悰は664年12月に帰国した。665年9月、劉徳高・禰軍・郭務悰が来訪した。禰軍は百済の佐平で義慈王とともに唐に連行され、寝返って唐の将軍になった人物である。扶餘勇政府は倭国政府のコントロール下ではないので、禰軍が来訪して扶餘勇の問題を解決した。禰軍墓誌から、日本餘噍の問題は禰軍の重要な事項であったことが伺える。後に唐が倭国を攻めていないところをみると、 扶餘勇政府は唐に承認されたのである。菟道で閲兵したのは倭国を制御下に置いている扶餘勇の示威である。唐にとっても敗戦国倭国を安定させる必要があった。誰を支配者にするかについて元倭国王と扶余勇の選択肢があり、扶余勇を選んだ。その決定に禰軍が係わった。もと敵の支配者を唐の支配の手先に使う例は、扶餘隆の熊津都督、高句麗宝蔵王の遼東州都督・朝鮮王にあり、扶餘勇を倭国統治に利用することは異例ではない。扶餘勇は唐の承認のもとで倭国経営に乗り出したのである。

③天智天皇が造った朝鮮山城の範囲は北九州から滋賀県であるから、これが、扶餘勇の版図である。書紀にある天智が造った城は、水城、長門の国にある城、大野城、椽城(キ、大宰府南西)、高安城(近畿)、屋島城(四国)、金田城(対馬)である。防衛のためとされている。書紀には記されていない岡山の鬼ノ城も朝鮮式山城である。瀬戸内海を進撃する敵を迎え撃つにしては内陸であり、大廻・小廻山城とともに吉備を治めるための城と見ると絶好の立地である。近畿の高安城(669年築城)も内陸であり、河内・大和を治めるには好位置にある。半島の支配手段は朝鮮山城を用いる文化があり、それを扶餘勇は受け継いだ。朝鮮半島では山城は人民を確保しておくためであって攻撃用ではない。日本の朝鮮山城に標高が高いものがあるが、人民確保のためと考えれば理解できる。九州の水城と朝鮮山城は防衛と威厳のためのものである。隋書時点では倭国は無城郭であったので、書紀に記されない朝鮮山城も含め、すべての日本の朝鮮山城は663年頃に倭国に流入した百済人により人民を統治するための手段として造られたと見るのが妥当である。

朝鮮山城の例 岡山鬼ノ城  

④扶餘勇は、大宰府から近江に遷都した。倭国制覇に向けてである(日本書紀の文脈では畿内から遷都したように見えるだけである)。筑紫都督府が日本書紀に登場する。旧唐書百済の条に「熊津、馬韓、東明等五都督府」とある。名称を略しても都督府はカウントはするのである。倭国の条に都督府の記載がないので、(倭の五王武が開府儀同三司 を自称したように)筑紫都督府は勇の自称の可能性がある。けれども、郭務悰の管理下のもと、扶余勇が最高権力者であったのは確実である。扶餘勇は近江遷都後に飛鳥を訪れた。難波はすでに善光によって治められ手中にあり、残る旧倭国の中心地飛鳥を支配下に置いたのである。

⑤扶餘勇は近江遷都後に即位する。日本書紀では668年1月(667年3月説もある)である。高句麗は668年に倒れ、扶餘豊は668年12月には流刑(「扶餘豐流嶺南」(資治通鑑))となっており、この間に豊は唐に捕縛された。近江政権は扶餘豊を見限り、扶餘勇を即位させたと推測される。百済王家はもともと中国東北部の夫余の出で、遼東、遼西、馬韓を経て半島南部に進出してきており、必ずしも百済の地に執着するものではない。したがって扶餘勇の即位は扶餘家の正統な王という意味と捉えるべきである。既に倭国が扶餘勇の支配下に有るので、即位すれば、自動的に倭国王である。天智称制は、扶余家の王は扶餘豐であるが、大陸にいて不在であるから扶餘勇が執政していたという意味である。

⑥書紀によれば、藤原鎌足(中臣鎌足)[注2]は死の間際に扶餘勇(天智天皇)に「軍国の役に立てず…」と申し上げた。鎌足は中大兄皇子と大変古い付き合いであるから、大化改新など多くの出来事があるはずだが、白村江で失敗して百済復興がならなかった事を持ち出したのは、天智天皇が扶餘勇であるならば、当然、それが最大の話題である。

⑦669年、皇子の大友をはじめての太政大臣にした。百済の遺臣たちに倭国の位を与えた。佐平の餘自信と沙宅紹明に大錦下を授けた。沙宅は法官大輔(法官は人事院相当)。達率の鬼室集斯には小錦下を授けた。鬼室集斯は学頭職(学頭は大学寮すなわち官僚養成機関)。官僚の育成から人事までを百済人が握った。この外、50名余りの達率に大山下・小山上・小山下を授けている。周書には左平5人、達率30人と記されており、百済の殆どの達率が渡来したとみられる。達率は官位16品中の第2品であるから、渡来した貴族総数は生易しいものではなかっただろう 。事前 (664年) に大海人皇子に命じて倭国の官位を増加させていたのは、いずれ行う百済人への人事のためであった。大海人皇子は倭国の制度に通暁していたことを物語る。

⑧百済遺民たちを神崎郡や蒲生郡に移住させた。近江蒲生の石塔寺は彼らが造った三重の石塔である。

このように、天智天皇を扶餘勇とみなすとすべてが氷解する[注3]。

近江蒲生の石塔寺

百済の風情が今も漂っている

(5)壬申の乱

扶餘勇が天智天皇なら、壬申の乱も見直さなければならない。日本書紀では、大海人皇子は天智天皇が亡くなるとき、見舞わねばならない立場にあった。この時、自身が暗殺されることを警戒している。大海人皇子は近江政権にとって、都合の悪い人物であったのである。近江政府は吉備が大海人皇子に近しいと疑っていた。壬申の乱では吉備守は近江政府に付かなかったので使者に殺された。吉備国は近江政府に面従腹背していたのであった。大海人皇子は反近江政府の象徴的人物として描かれており、元倭国王でしかありえない。大海人皇子=倭国王ならば扶餘勇の死亡を機に実権を取り戻すことを近江政府が警戒するのは当然である。

大海人皇子は壬申の乱で倭国の人々を掌握し、まだ近江政府の版図となっていない東国に脱出して態勢を立て直し、近江政府と戦って勝った。そのようなことが短期間で出来る人物といえば、一人しかいない。白村江で唐に敗れ、唐の意向により扶餘勇に政権を譲渡させられた倭国王である。壬申の乱は近江朝と近江朝に従えられた倭国との戦いである。勝者は倭国であるから、倭国王が勝者で、大海人皇子=倭国王であることがはっきりする。また、大海人は倭国王であったので、官位の増加など倭国統治に通暁する最高位の者として扶餘勇を補佐させられていたのである。白村江に軍を送り敗戦し劉仁軌に従わされた倭国王は大海人という事になる。

壬申の乱を遡る668年9月に平壌が陥落する(高句麗宝蔵王が白旗を揚げる)。すると書紀によると同年同月、新羅は倭国に金東厳を遣わし調を奉った。これに対し、扶餘勇政府は過大な返礼を行っている。中臣鎌足が新羅の将軍大角干金庾信 に船一艘を与え、また、新羅王にも(調物を運ぶ)船一艘を送ることを東厳に言付ける。国王でない将軍に、国王でない鎌足が贈り物をしているのである。東厳が帰国する11月には、新羅王に絹50匹、綿500斤、なめし皮100枚を送り、東厳にも物を賜った。この新羅の訪問は高句麗での勝利を誇る圧力外交である。これで、倭国の内部分裂が進んだことは十分ありうる。扶余勇側と旧倭国側の対立がすすみ、旧倭国側は当然新羅に傾いた。大海人皇子は支配権を回復するために、新羅と通好し、機を窺ったのであろう。壬申の乱の背景に新羅の圧力がある。671年大友が太政大臣になった1月には、高麗(=高句麗)が調を奉じている。高句麗は668年に滅んだが、新羅紀によれば、高句麗の一部は安勝をたてて670年に新羅に合流し、新羅は安勝を高句麗王とした。高麗の来訪は新羅が高句麗を従えた誇示の意味合いがあり、これも圧力外交だった。

壬申の乱に勝った大海人皇子は倭国の首都を飛鳥に戻した。難波は善光の管理下にあるので、飛鳥にした。勝利を愛でるために一番に駆けつけたのは新羅の金押実であった。壬申の乱の時(672年)の半島情勢は高句麗崩壊後に変化しているのである。新羅の文武王は鶏林州大都督となったが、670年に高句麗遺民たちの高句麗復興運動を支援し、唐と戦争をはじめた(唐・新羅戦争670-676)。また、新羅は百済地域の唐軍を攻撃し、百済地域を占領した(671)。新羅の反唐活動と大海人皇子の唐管理下近江政府討伐活動とは方向が同じである。壬申の乱は元倭国王が、新羅に呼応して、親唐政権の近江政府を討伐する戦争でもあったと捉えることができる。大海人皇子が体制を整えた東国と新羅との間に地勢的に越国を経由するルートがあったと考えられる。唐・新羅戦争が終わり、統一新羅の時代となる。天武政権では遣新羅使が多くなったのである。

高安城倉庫跡

(壬申の乱で焼けたものかその後の再建のものか)

 (6)日本国号

旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地」から、「日本」は倭国を従えた近江朝のことである。新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」も、近江朝は倭国を併せその国号を冒したので、近江朝は「日本」を称していたことになる。近江政府は「日本」を国号として670年~672年の間に使ったと読める(新羅紀670年12月に「倭国更号日本」)。中国は 朝鮮半島あたりを日の出の場所として「日本」と呼んだ。半島国家を受け継ぐ国名として、扶餘勇政権は「日本」が相応しいと考えたのだろう。 壬申の乱で倭国が勝利したが、驚くべきことに、倭国は正式に近江政府の「日本」を称したのであった。天武は親唐近江政権を滅ぼしたのであるから唐に対して反乱を起こした形である。近江政権が称した日本を引き継げば、単なる政権交代であり、唐からの追討を回避することができたと穿った見方もできる。

倭国が日本に改号したのが670年頃。宋史に咸亨中(671-673)に日本の朝貢はあったが記載されていないとある[注4]。したがって禰軍墓誌が作られた678年には唐は日本国号を正式に通告されている。寝返って唐将軍となった百済元佐平禰軍は唐の側に立って、これまで支えてきた百済・扶余家を何とか存続させようとしたのだろう。墓誌には「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅」の文言があ。禰軍は倭国扶余勇と折衝し、唐からの罪を逃れる方法を模索したに違いない。扶余勇新たに倭国を支配させることで、扶余家の存続に寄与したのであろう。「日本舊小國」と「日本乃小國」からは次のように解釈できる。白村江の戦で唐に敗れ大宰府を中心とした51㎞の羅城の小国を作った扶余勇は国号「南扶余(百済)」を「日本」に改号した。この政権が倭国を併合するにしたがって「日本」国号を広めていった。禰軍はじめ唐はこの「日本」を知っていて禰軍墓誌に「日本餘噍」と刻んだ。日本餘噍」は東野治之氏がいう婉曲表現ではなく、王連龍氏がいう国号だった。


(7)おわりに

「餘豐在北,餘勇在南」は、百済勢力が、高句麗を直接援助する者と、遠隔地から高句麗を援助する者に二分されたと表現しているようである。二人一組とみなしているようである。二人の真意は高句麗の混乱を機に、領土獲得を窺うことではなかったか。

・扶餘勇の大宰府防衛システムの位置、構築時期

・扶餘勇の即位のタイミングが扶餘豊の捕縛に関係していること

・壬申の乱が起きたタイミングが新羅勢力が優勢になった時であること

・日本国号を倭国が引き継いだこと

などからいえることは、扶餘豊・勇は極東の大きな変化の中で、百済(扶余家)の生きる道を画策した。扶餘勇は倭国の支配権を得たが、大陸への支援百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦相影響)は唐から警戒された。郭務悰が筑紫に駐在したのはその意味もあっただろう。高句麗が敗れ、彼らは目的を果たせなくなった。郭務悰が扶餘勇死亡直後に帰国したのは、扶餘勇の監視を終えたということだろう。扶餘勇は扶余家の王位を継いだ。倭国に逃亡してそこで王位に就く事などは目的ではなかった。世界情勢の変化で倭国王になったに過ぎない。扶餘勇の後裔は壬申の乱に敗れ去った。激動の時代に憂き目に会った扶余家は、可能性を求めたが、極東の情勢の流れの中で、血筋と国号を倭国に残した。書紀を書いた政権は、扶餘勇を「天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケノスメラミコト)」と認定したのである。

追記

この稿は「国際的視点からの古代史考」の最初の論考で、扶余勇が倭国に渡った事実と天智称制時に倭国酋長が存在したという矛盾と朝鮮山城遺跡の存在という三つの不動の真実から得られたものである。その後、考察がひろがり、孝徳が百済から送り込まれた王弟翹岐あることがわかった。さらに、孝徳の考察の中で倭国酋長が翹岐(=孝徳天皇)の皇子であることが結論された。扶余豊・勇兄弟と大海人は従兄弟であり、血統的に豊・勇が大海人より上位であることになる。この上下関係は王制では絶対的なものである。倭国に下向していた豊は百済崩壊を受けて半島に戻ったが、その際、大海人に要請し、多数の兵を準備させた。大海人が兵を海上輸送した時、白村江において唐軍に発見され、海戦となった。

「封泰山,仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會,高宗甚悅」は大海人政権が唐の配下に入った状態であることを示している。唐は倭国に新たな政権を立てる余地が生まれた。「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅」禰軍が倭国に渡った扶余勇を罪にせず、倭国を支配させた状況を端的に述べている。扶余勇は禰軍が来訪するまでに烽火台・水城・大野城・椽城を完成している。羅城や大宰府も同時期であろう。迅速に巨大な防衛施設を作ったのは政権担当能力を示した。扶余勇が近江まで進出できたのは、元倭国王大海人を従えたからである。

難波は孝徳政権の首都であるから、皇子の大海人の都でもあり、白村江当時、倭国の首都であったはずだ。善光は倭国首都に着任したのであろう。大海人は格上の勇に従い、善光に首都を譲ったのである。

渡って来た大量の貴族(一国の支配層の大多数が動いた?)を倭国の官位に順当に当てはめるのは大仕事だったので、元倭国王の大海人に任せる以外になかった。

近江政府の定めた日本国号を壬申の乱の勝者が受け継いだのも驚くべきことではなかった。壬申の乱は扶余家内部の争いでもあったからだ。日本国号は扶余家がつけたと考えれば天武系も受け入れることができた。倭国号を百済人が変更した事実は、百済人は倭国に同化したのでなく、先に送り込まれた翹岐の皇子を自分たちの新たな国王とし、国を南遷したのである。

旧唐書「・・・或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。」、新唐書「使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。」と、中国は歴史書に「疑」と記した。中国の事実認識(百済が倭国に南遷して日本を称した)と使者の言が異なるからである。「実」は「まこと」、「情」は「もとのありさま」の意味である。使者は唐に攻められる口実を与える事を恐れたので事実を認めなかったのであろう。

[1]「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」(東野治之氏訳: 白村江の百済残党は扶桑に籠って罪を逃れんとし、高句麗は百済滅亡を受けて唐への守りに備えた。)

[2]鎌足:大阪府三島の阿武山は標高210mで生駒山系、葛城金剛山系、六甲山系そして大阪平野を見渡すことができる。鎌足の墓は阿武山古墳である。ほぼ山頂に直径82mの区域を墓域とし、墓室は切石と塼で組まれて内側を漆喰で塗り固められている。棺台の上に、漆で布を何層にも固めて作られた夾紵棺があった。棺の中には、60歳前後の男性のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられた。X線写真の分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると、被葬者は最上位クラスの人物であったとされる。これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり、それを授けられた人物は、史上では百済王子の余豊璋を除けば鎌足しかいないことから、被葬者は藤原鎌足である。

百済益山弥勒寺心柱(639年作)からでた布に金条があり、鎌足の織冠の素材と似ている。ほかに佐平の冠も出ており、前立ちがある。その意味で下の写真の復元織冠は不正確である。X線透視写真をさらに調べれば、前立ちの素材らしきものがあり、今後の研究に期待される。百済の織冠は地位を表すので二人の冠は同じデザインではなく、扶余豊が王族の大織冠、彼をサポートする貴族の藤原鎌足は佐平の冠であったということだろう。(2023年4月10日)


[3]天智を倭人とすると、最も大きな疑問は、百済支援の失敗程度で、より巨額な倭国初の複数の山城を自国防衛のために造るだろうかということ、また、このような防衛施設を作っておきながら近江に移動したことの理由は何だったのかということ。

[4]宋史列伝日本国:「咸亨中及開元二十三年、大曆十二年、建中元年,皆來朝貢,其記不載

阿武山古墳の織冠と玉枕複製(今城塚古墳博物館)