欽明天皇=脱知爾叱今

2018年9月27日


任那地方は倭の五王が支配権を失ってから、流動化し、百済・新羅に吸収されてゆく。その過程で、新羅に吸収された金官伽耶は王統の存続を担保するために王弟を多くの民とともに倭国にわたらせた。以下これを検証する 。


(1)任那地方

 倭、百濟、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓などのように任那は地名として使われている。半島南部の百濟、新羅以外の地を広義で任那とよぶこともある。狭義では任那は金官伽耶地域を言う。秦韓は辰韓のうち新羅に入らなかった地域をいい、慕韓は馬韓のうち百済に入らなかった地域をいう。また、半島南部を南北に分け、南部を任那加羅、南加羅,または金官加羅 (伽洛) といい、北部を単に加羅、高霊加羅あるいは大加耶、大加羅などと呼ぶ。北部は現慶尚南道高霊付近を中心とした地域である。

 半島の南部は倭人の居住地域で、倭国とは経済的交流があった。倭の五王は中国南朝から任那地方の都督をえていた。これにより、倭の五王は鉄の産地である半島南部との交流を盛んにさせ、経済的発展を遂げた。倭国の官僚や経済人が移り住んだことは、5世紀末から6世紀前半の栄山江流域の前方後円墳でわかる。倭の五王は半島南部に都督府を作ったものと考えられ、雄略紀ではこれを日本府と呼んでおり、軍人が存在している。欽明紀の日本府は安羅である。安羅は任那のなかでは最後に新羅に支配された地域である。


(2)任那地方の都督権喪失

中国南朝斉の時代(~502年)、倭王は「都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍」を叙綬されていた。梁書では「高祖卽位(502),進武號征東將軍」とのみあり、「王並如故」のような記述がないので、倭王武は都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事を失った。倭王は半島南部の支配権を失って、この地域との政治経済関係がスムーズに行かなくなり、半島のこれらの地域と倭国が経済的に翳った。倭国の支配がなくなって、任那地方の国々が流動的になったと同時に、五王の権威が国内で低下したことも容易に推測される。 

河内には大王政権があったが、書紀は継体(在位507-531)に王統を移した。任那は大王の領土であるが、書紀はあたかも継体の所有物として記した。継体6年(512年)、任那4県(上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁)を百済に無条件割譲した。継体7年6月 に百済は伴跛国が己汶という土地を奪ったから取り返してほしいと倭国に求め、伴跛国と倭国はあらそい、倭国は水軍を出して戦い、継体10年9月百済に己汶を渡すという軍事代行を行った。 

新羅は503年に、国号を「新羅」と定めた。普通2年(521年)、新羅は百済に付いて中国にはじめて貢献するなど、国際舞台に登場している。倭国王が都督を失ったことと新羅の隆盛は関係があるだろう。新羅紀に「522年、加耶国王が新羅に使いを遣わし婚姻を頼んできたので伊飡の比助夫の妹を送った」とある。加耶(大加耶、高霊郡)は新羅に接近し、安定を求めた。 


(3)継体の崩御の真相

継体25年に継体は崩御し、摂津三島郡藍野に葬られた。ところが書紀に次のような注釈がある。

 ーある本によると、継体の崩御は28年。25年としたのは、百済本記による。その文にいうのに「25年3月に進軍し安羅に至り、乞屯城を造った。この月高句麗はその王、安を殺した。また聞くところによると、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」と。辛亥の年は25年に当たる。ー

ある本が正しければ、磐井の乱のあと、毛野が安羅に使わされのは継体25年3月(531年、辛亥)で、新羅に4ケ村とられ、継体26年(532年)に毛野の働きの悪さが奏上され、任那王は毛野に手を焼き、新羅と百済に協力を仰ぎ(倭国に離反し)、毛野と戦わせ、継体26年(532年)に毛野は帰国途上対馬で病で死んだことになる。すると、532年に金官伽耶が新羅へ投降した事実が連続してくる。ある本の「継体25年3月に進軍」は正しく、したがって継体28年説はただしく、「天皇・皇太子・皇子皆死んでしまった」が真実となる。高槻市の今城塚古墳は真の継体の古墳と考古学的には考えられている。高槻市のホームページは「今城塚古墳には3基の家形石棺が納められていたと見られる」と述べており、「日本の天皇、皇太子、皇子皆死んでしまった」と合致するのである。継体は534年に崩御し、その皇太子の安閑や皇子の宣化の即位はなかった。

なぜ、書紀が継体を3年早く(531年)崩御したことにしてあるかは、次節以下の疑いの可能性を根本から消すためである。金官伽耶が滅亡する(532年)より前に継体が死亡していれば、継体の死が金官伽耶滅亡と関係なくなるからである。


(4)金官伽耶の滅亡

継体崩御(534年)より前の532年の金官伽耶の新羅への投降の模様を三国史記に求めると、「532年、金官伽耶(本伽耶)国王の金仇亥が妃および長男の奴宗、次男の武徳、三男の武力らとともに国庫の宝物を携えて新羅に来降した。新羅は彼らを礼をもって待遇し、上等の位を与え、彼らの本国を食邑(その地の租税で取食させる)にさだめ、武力は朝廷に仕え角干(17階級の第一位)にまで登った」とある。三国遺事の駕洛国記(金官伽耶、駕洛国の最後は532年と解釈されている)では次のように書かれている「最後の国王の名は金仇衡王(即位521年)。562年(532年のこと)に新羅真興王に攻められ、軍勢が少なく対戦できなかった。王は兄弟である脱知爾叱今をつかわして国元にとどまらせ、王子と長孫の卒支公らと降伏し新羅に入った。王妃は今知水爾叱の娘桂花で3人の息子を産んだが、長男は世宗角干、次男は茂刀角干、三男は茂得角干である」。「開皇録には『532年に降伏した』とある」と駕洛国記は注釈をつけている。

金仇衡王が弟の脱知爾叱今を国許にとどまらせたとの記述は真実だろうか。自分たちが新羅に吸収されどういう運命を辿るかわからない中で、王統を何らかの形で残そうとするのは王家の自然な考え方である。新羅にとっては、王弟が国許に留まるのは、反乱の芽であり、好ましいことではない。脱知爾叱今が国許にとどまった事実はないのではないか。王は一族の重要な者に追放を命じることもある(百済では王弟(昆支、翹岐、勇)に分脈を作らせている)。脱知爾叱今は、金仇衡王に追放され、532年に倭国に来たとするのは、一般的なことなのである。追放先としての倭国は百済の属国と判断されるので、「新羅に不服従」を述べれば、確実に受け入れられると判断されたのではないか。

 

(5)欽明天皇=脱知爾叱今

 継体紀と欽明紀では任那の領有権についての立場が変化している。継体紀では、任那の百済への割譲に領土としての執着感がない。継体天皇のページで述べたように、河内は百済勢力下であり、百済に領土を割譲することに奪われる意識はなかったのである。一方、欽明紀では任那を新羅に取られる喪失感にあふれている。書紀は反新羅を印象付けている。欽明紀は、任那を失った任那支配者の視点である。欽明は任那の人であることがここでも推理される。欽明の就位は539年で、金官伽耶を失った532年の後のことでもあり、欽明が金官伽耶の支配者の一人である可能性は十分ある。

 継体28年(534年)崩御説は、金官伽耶が新羅に投降(532年)した後のことになるので、「日本の天皇、皇太子、皇子皆死んでしまった」は脱知爾叱今が起こしたとする事は可能である。 脱知爾叱今が着いたときの倭国の状況をみると、6世紀はじめ、河内は倭の五王系が日十大王(昆支系)に交代し、大王争いに敗れた継体が河内から出て淀川水系から大和にかけて支配していた。敗れたとはいえ威信財を配るなど王権行為をしてきた継体には反乱の可能性もあり、継体を取り除くことは河内にとって安心材料であっただろう。脱知爾叱今が倭国で地位を得て金官伽耶の王統を保全するためには、河内の大王に取り入る必要があり、両者の利害が一致するのである。

また、書紀は欽明元年「都を倭国の磯城郡の磯城島に置いた。秦人・漢人ら近くの国から帰化してくる人々を集めて、各地の国郡に配置して戸籍に入れた。秦人の戸数は7053戸あった」と、即位年に、近隣国から渡来した多くの外国人を国内で分配している。当時は部族社会であるから、渡来人には統率者がいた。専業集団であれば、固めて置いておくが、分散したので専業集団ではなく、農業を主体とする人民と考えられる。近くの国からきたのであるから、金官伽耶の新羅への投降に起因する可能性がきわめて高い。人民が郡に分散されれば、統率者は手足をもぎ取られたのと同じであるが、統率者について書かれていない。脱知爾叱今が倭国に乗り込む場合、大勢の人間を引き連れてこそインパクトがある。そうした大集団を動かす力は国王の弟なら持っている。あるいは、金官伽耶王が脱知爾叱今に力を与えるため、追放命令のなかに随行する人民を含んでいた可能性もある。これらの人民の統率者は時期的に脱知爾叱今しかいないのである。人民を引き連れて倭国に移動した統率者は王となり、連れてきた人民を国郡に配置した(分け与えた) と考えられるのである。

殺害された継体王は大王位を争った過去があり、対百済という意味では、倭の五王(辰王)とともに来た人々の象徴的存在であったと考えられる。脱知爾叱今にとって、継体という象徴的人物を倒したあと、継体支持派の国々をまとめるのに、人民贈与は非常に有効な手段であっただろう。当時、未開拓の地は豊富にあったが、人口が増えなかったと想像される。人口は100万人もあっただろうか?、そのような状況で7000戸は相当な労働力である。人口の分配は国郡の主たちにとって大変貴重だったに違いない。

継体殺害(534年)から脱知爾叱今が欽明として即位(539年)するまで、5年のブランクがあるが、倭国が混乱したわけではない。河内には大王が控えていたのである。