辰王位

2019年5月5日


長期的に見ると辰国が倭国に移動した。

辰国の跡地は三韓となったが、辰王は存在した。三韓が高句麗の圧迫を受け辰王は河内に逃避した(「倭の五王=辰王」のページ)。多くの王族貴族が倭国の各地に渡り、低湿地干拓を経済基盤としたと仮定できる(「継体天皇」のページ)。

馬韓の伯済は百済となり、辰王朝の後継を自任した。倭の五王が南朝から多くの地域の都督権を得たのは、辰王だったからだが、百済都督を得られなかったのは、百済が辰王朝の後継を自任したからだ。言わば、辰国の分裂状態となった。その後、百済は高句麗の圧迫を受けて南下し、王弟の昆支王は河内に渡って倭の大王位を冒した。それから150年が経ち、唐・新羅が百済を滅ぼした。白村江後、ほとんどの百済貴族が倭国に渡った。およそ300年の時をかけて、辰国は分裂しながら、倭国に流れ着いたのである。

百済と倭国に横たわる事件は唯一無二であるべき辰王を巡っての争いとすると、都督叙綬、人物画像鏡、継体一家崩御、秦王国、上宮法皇夫妻崩御など、多くの出来事を説明できる。半島南部と列島は辰国の残照地帯で、辰王位の座を争っていたと仮定して歴史を追ってみる。


(1)辰王

後漢書「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。・・・皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,尽王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。」 は、三韓はもと辰國の地であり、馬韓から辰王を立て都は月支国で、三韓の小国の王は馬韓種の人であるといっている。中国史書には辰国の統治形態などの記述はないので、滅んだ時期もわからない。後漢書は辰国がなくなっても辰王が存在する状態を特筆した。魏書・魏略「世世相繼。辰王不得自立爲王」は辰王の特徴を「世襲」と「自ら王には成れない」に求めた。三韓の小国の馬韓種人王達は辰王を頂点に戴いていて、血縁で結ばれていることを中国史書は示唆したかったように見える。辰王という王が存在するのに、三韓を国として扱わなかったのは、「辰王」は中国の支配概念から外れたものとみなされていたからだ。

中国王朝では、初代は自ら皇帝に就くが、辰王はそれとは違うと言っている。王朝の交代がなく(仮にあっても)、その王は過去からひとつの系脈が続いているのである。「自ら王になれない」は、辰王になるルールが存在し、周りがそれを認めてきた。辰王は過去から永続している歴史があり、それが権威となっているというような事実を中国史書は端的に表そうとしたのではなかろうか。


(2)扶余隆は辰朝人

百済の扶余隆(615–682)は百済滅亡(660)後、唐の都督に任じられ、洛陽で没した。扶余隆の墓誌に「百済辰朝人」とある。辰国が無くなって300年以上後に「辰朝人」と墓誌に記載されているのである。隆が「辰朝」とは「百済扶余家は辰王の後裔である」と唐が公に認めていることになる。この墓誌を確認しておく。

扶余隆の墓誌を同時代の禰軍の墓誌と比較する 。墓誌は最初に諱 を書き、続いて、隆は「百済辰朝人也」、禰軍は「熊津嵎夷人也」と出自を述べ、次にその近い先祖の重要なポイントを述べ、次に本人の航跡を述べる。墓誌の書き方に決められた形式があった。百済と熊津は地名である。禰軍は百済の熊津の嵎夷県と狭く書かれているのに対し、隆は百済とより広い。嵎夷人は王族でないことを表し、隆は「朝」から王族である。「百済辰朝」は「百済国の辰王朝の」と読める。唐は扶余家の百済王朝を「辰朝」と呼んでいたのである。

上図は扶余隆墓誌

上図は禰軍墓誌

3)辰王位世襲は公開ルール

辰王は自ら王に成れないのであるから、例えば、嫡男と決まっていて、辰王の地位は争われる性質のものではなかった。嫡子が無い場合には、誰を辰王にするかのルールも決まっていたとできる。このようなルールがあると.、逆にルールを利用して、辰王の系脈を変える試みがなされうる。より正統なものを根絶することである。その結果、自分がルールに照らして辰王としてふさわしいと宣言できる。公開ルール、すなわち、客観的に誰が辰王であるべきかが判るルールがあって、辰王は途絶えることなく過去から続いて来たのであろう。また、このルールがある限り、将来にわたって、辰王は存続しうる。


(4)辰王位争奪

(a)百済と倭国に辰王が分裂

扶余隆の墓誌から百済は辰王の後裔であった。倭の五王も辰王を自任していたことは、南朝から叙綬された都督の地域からわかる。倭の五王は百済都督を自称したが、決して認められることはなかった。倭の五王と百済とは百済都督を巡って争っていたのである。倭の五王が倭国に逃避した時から辰王は分裂したと考えられ、唯一無二の辰王位を互いに主張していたものと思われる。これが、百済都督だけは決して倭国王に譲られなかった理由だろう。

ところで、宋書「本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西」の通り、百済(扶余家)は辰国 とは離れた地の出身である。「倭の五王」の稿では辰王は高句麗に圧迫されて河内に逃避したと判断しているが、つぶさに見れば、扶余家は高句麗一派と見られ、高句麗が南進する過程で、扶余家は馬韓の伯済に侵入し、辰王を襲ったと考えられる。扶余家が辰朝人を主張している結果からすれば、伯済と月支国の間で辰王を巡る争いがあり、月支国が逃げたとするのが妥当のように見える。

(b)倭国内の辰王族

辰王である倭の五王は河内に移ったが、それ以外の地にも辰王分脈が移った。

縄文海進の後退で沖積平野は倭国の各地にできていて、辰王族はそこに入り込んだ。古墳は5世紀には山裾から低地に移り、より巨大になった。それは、後から来た勢力が低湿地の開発をしたからである。辰王族は低湿地開発により、広大な耕作地を生み出し、先住の山裾民を経済的に支配する。広大な地形の開拓には組織が必要であろうから、大陸での身分を利用した可能性がある。大陸での身分が維持されていれば、倭の五王の斉・武が、各地に散らばった同族を従えることは容易いことである。古墳形式の統一と規模の秩序や副葬品の画一性から感じられる序列は、身分(辰王の血脈)が、維持されていた証である。奈良朝以降の日本統一の過程と比較すれば、古墳期の統一の見事さは武力ではなく既に身分秩序があったと考えられる。

沖積平野の北陸はその一つであった。北陸の継体王は書紀では応神5世孫とされる。応神は倭の五王であるから辰王であり、応神5世孫は辰王5世孫の意味となる。東海地方の尾張氏なども辰王族だろう。淀川水系の王になった継体の基盤は水運とされているが、低湿地開発ではないか。彼が宮を営んだ淀川・桂川・木津川地域には、広大で浅い巨椋池があった。彼らは地形を利用して、経済基盤を作り上げようとしていたとみえる。継体王と東海地方の連携は低湿地開発による辰王族の連携であろう。継体王が武の後裔の候補に上がったのは、辰王族の中で辰王として正統性があり、経済的にも成功した王だったということであろう。

(c)百済辰朝の倭支配

倭の五王と百済が都督権を争っている中で、昆支王が477年頃に倭国に来た。倭国に派遣された意味は、蓋鹵王 敗死(475年)後の百済南下の一環で、後背地づくりである。これを実現するには、倭の五王を百済の支配下に置かなければならない。昆支王はこれを目的に四半世紀の間、倭国で行動したと考えられる。

倭の五王は武で嫡流は絶えた(502年の記述が最後)。百済にとって倭国の辰王を廃する絶好の機会である。昆支王系日十王と継体王が武の跡を争った(「継体天皇」のページ)。継体王が大王位に就くと、倭の五王の辰王の正統性が引き継がれ、百済は自分の辰王を確かなものにする機会を失うのである。武寧王が大王位選考に介入し、日十王を大王に推したのは、継体王を格下げし、彼の辰王をあいまいにする意味があった。武寧王の目的どおり、日十王が大王となって(503年)、継体王の辰王はかすみ、武寧王が辰王の正統性を主張できるようになった。継体の辰王をあいまいにした状況は、百済が日十大王を介して倭国を属国にしたといえる。その傍証として、任那4県の百済への無条件割譲(書紀)があり、600年までの約百年間、倭国は中国に朝貢していない事実がある。継体王は河内をでて、威信財の配布行為をし、(辰王として)王権を誇示し続けた。この行為は、属国の中での独立の意思表示とみられる。継体王の王権誇示がまかり通ったのは、辰王として、辰王族の支持があったからだろう。

武寧王崩御(523年)後、継体は動き、淀川水系から大和入りした(526年)。書紀はある本によるとして「継体王が子供まで含めて殺された(534年)」事実を記した。この論考シリーズではこの殺害説をとっている(「欽明天皇=脱知爾叱今」のページ)。子供まで含めた殺害は、倭国の辰王の根絶を意味し、百済辰朝の絶対優位を確実にした意味がある。したがって、殺害の指示は百済から出ていたと考えられる。殺害を実行したと見られる脱知爾叱今は金官伽耶の王族で、彼もまた辰王と血脈があるだろう。新参者が、他国に割って入れたのは血縁からではないか。脱知爾叱今は欽明になったが、金官伽耶出身では血筋は薄く、辰王には成りえない。欽明が継体殺害により昆支王系大王から信任を得て、大和の支配を託されたと考えれば、欽明が河内の大王と紛争なく共存できた理由にはなる。こうして辰王位は百済が確保した。

(d)倭国に辰王出現

昆支王系大王のなかから、アマタリシヒコが出て、607年に「天子」を自称した(「聖徳太子」のページ)。503年を最後に朝貢が絶えたのは、倭国の百済による属国化とみられ、アマタリシヒコの遣隋使は百済からすればいわば独立宣言である。隋書は彼の国を秦王国(=辰王国)と書いた。彼が辰王を自任し、国名を辰王国としていた可能性を考えさせる。彼の「天子」宣言は、辰王位仮説からは「辰王位」宣言である。後背地作成のために送り込んだ昆支王系も100年経つと百済からの独立を考えるようになる。アマタリシヒコ(=上宮法皇)が王后・王妃とともに連続して崩御したのは、百済による暗殺と考えるのが妥当となる。義慈王は王弟の翹岐を送り込み、アマタリシヒコをささえた貴族(蘇我)を根絶し、昆支系を一掃した(「翹岐=孝徳天皇」のページ)。義慈王は倭国の独立の動きを潰し(辰王宣言潰し)、血脈を更新し、百済後背地を確実なものにしたと読める。

(e)辰王の移動

660年に百済義慈王は唐に連行された。嫡男扶余隆も連行された。隆は辰王であったが、連行されれば、辰王位の資格は扶余家の中で問題となる。百済再興を目指す扶余豊・勇兄弟は当然自分たちが辰王であることを自任しただろう。しかし、彼らもまた白村江の敗戦で唐に敗れ、豊は単身高句麗へ、勇は大勢の貴族たちとともに倭国に渡った。扶余豊は後に高句麗で唐に捕縛された。その頃に扶余勇は倭国で称制を脱して王(天智)に就位した。扶余家の王位に就いたが、辰王と見てもよい。扶余家の王位を継げる人物がもう一人いる。それは、倭国に渡り、倭国を百済のバックアップ国とした翹岐王の王子天武である。百済崩壊を受けて、天武は自分が百済再興の最右翼だと自認しただろう。

(f)天武は辰王でないので天皇を創出

天智(扶余勇)の次に天武が王に就いた。しかし、天武は天智死後その皇子大友を殺し、自ら王になっており、封禅の儀に列席する同意もその前に交わしている。天武は辰王として瑕疵があるのだ。「『諸家のもたる帝紀および本辞すでに正実にたがい、多く虚偽をくわう』・・・帝紀を撰録し、旧辞を討覈し・・・」(古事記の序)は王統を調整したことを告白している。天武は、ありのままの出自を書くと、扶余家であるが、辰王として正統でない。しかし、天智系が絶えた今、百済を再興する王として自分が最もふさわしい。それで、辰王にかわる天皇称号(「天」は朝鮮半島指す符丁と考えられ、朝鮮半島統一王の意味になる)を編み出したとおもわれる。倭国の辰王を先祖に選んだ。そのためには継体王で断絶したはずの王統を断絶していないとし、一系の創作を行ったのである。書紀の天孫降臨や万世一系のストーリーは大陸の世襲王辰王にヒントを得たものであろう。

天武は壬申の乱の前後から新羅に傾斜したと指摘した(「扶余勇=天智天皇」のページ)が、親の孝徳も遣唐使再開ですでに新羅に依存している。天武は遣使の回数から明白に新羅に依存している。大いに新羅から政治・文化・宗教について影響を受け、奈良に仏教文化が栄えた。多くの人々が新羅と日本を往来し、経済的にも大層進展したことであろう。続日本紀の粒度の細かさは他の日本の歴史書に類を見ない。これは記録がしっかりしていたということで、新羅文化が入った証である。

天智と天武は従兄である。天智の皇子大友は辰王であろうが、その系脈が絶えたと考えると、次に最も辰王に近いのは善光となる。善光系が「百済王氏」という特別な名前を持統から与えられたのは、辰王(百済本家筋)を終焉させた(奪った)ことに対する償いとするのは考えすぎだろうか。

(g)辰王の日本定着

新羅文化が栄える中で、桓武は政権奪取し、奈良を捨て都を作った。無実であろうが幽閉され自殺した弟の早良親王には僧籍があったとされている。この説は早良親王が仏教に籍をおいていたので桓武は排除したというのである。桓武は中国に学んだ空海や最澄は登用したので、仏教を嫌ったわけではなかった。桓武が仏教勢力を排除した説は、正しくは新羅を嫌ったのである。遷都後を見れば、桓武に寄り添った百済王明信の存在や交野での複数回の封禅の儀からわかるように、桓武は百済回帰、中国古代への志向を鮮明にした。倭国に渡ってきた百済人の本願は百済再起にあり、宿敵であるべき新羅に偏った天武系の政策では、百済人の大願を失う危機感が桓武にあったと想像される。

政権奪取のために、桓武は自身が瑕疵のない辰王であることを拠り所にしたと仮定するとうまく説明できる。扶余勇(=天智)は正統な辰王であるが、天武系は武力を用いたので辰王でないとして除去できる。桓武は天智から自分までの真の皇統の接続を編み出した。それによって、自分が傷のない辰王として周りの賛意を得ることができる。こうすれば、失われつつあった百済再起の本願を取り戻せ、新羅排除を実現できるのである。

新羅臭を抜き去るためには新たな都の造営は必須であった。しかし、新都の朱雀大路は遷都20年もたてば管理されない状態になり、通る外交使節は渤海のみであり、のちには、牛馬の放牧地や夜盗のねぐらと変じ、平安京が日本国を統治できていたか疑問とせざるを得ない。奈良は平家に焼き討ちされるまで、寺社仏閣が林立しており、平安京とは別の統治者であった可能性がのこる。平安京の内裏は度重なる火災で里内裏になり、場所を移動していたのであるから、天皇は年月を経て徐々に支配者ではなく、血筋として(辰王の血筋)続いていた。

村上天皇以降900年間光格天皇まで天皇号も使われなかった(安徳、後醍醐は天皇号を使った)のである。徳川時代には、一万石程度の経済基盤しか許されず、言動も幕府から抑制されていた。中国史書が半島における国王でない辰王を記述したごとく、天皇は為政者でない状態でも続いていたのである。

御寺といわれる泉涌寺が保有する天皇の位牌は天智天皇から始まっている。しかし、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙(称徳)が抜け落ちている 。その理由は、辰王が日本に渡った以降の、正統な辰王のみを祖として扱っているとみれば、よく理解できるはずである。


(5)明治維新以降の辰王

明治以降において、扶余隆墓誌の「百済辰朝人」が隆の自称であるという説を出している。近代において古代の墓誌の内容に異議を唱えているのである。密かに明治政府の歴史は辰国の後裔を自任しているのだろうか。この稿で述べた辰王位は現代にも案外存在し、的外れでもないかもしれない。ジャレット・ダイアモンドの『銃、病原菌、鉄』の訳されなかった部分に「日本が朝鮮に軍を送って1910 年に併合したとき、日本の軍司令部はそれを「古来の正当な秩序の回復 (the restoration of the legitimate arrangement of antiquity)」として祝した。」がある。千年以上の時を超えて明治政府は半島支配の正当性を主張していたことになる。正統性主張の裏付けのためには扶余隆の墓誌に百済辰朝人が刻まれていることはさわりであったようにも受け取れる。