エピローグ

百済の南下

百済は常に北から圧迫を受け南下を余儀なくされていた。倭国を利用して百済を支える戦略であった。王弟を倭国に派遣し、倭国から百済を支援させた。蓋鹵王が敗死した後の文周王の時には昆支王が倭国に派遣された。義慈王の時には翹岐王が派遣された。太子隆が王位に就くときのために前もって豊が倭国に派遣されていた。また、豊が白村江から高句麗に行ったとき、勇は倭国に逃避し、劉仁軌倭国が高句麗を応援すると懸念した。このように百済は王弟を使って、倭国から本国を支援させる戦略を取り続けていたが、本国が倒れ、最終的には王弟の派遣先の倭国に雪崩れ込まざるを得なかった。

日本書紀

倭国に南遷せざるを得なかった百済王子扶余勇は国号を日本とし東に勢力を広めていった。扶余勇に従わされた倭国王の大海人は扶余勇の近江政府(=日本)を倒したが、驚くことに倭国を改め日本を号した。天武となった大海人はこの新生日本の最初の皇として君臨するための歴史を必要とした。これが日本書紀である。書紀と古事記はスメラミコトの順が一致しているので出所は同じである。古事記の序には「『諸家のもたる帝紀および本辞すでに正実にたがい、多く虚偽をくわう』・・・帝紀を撰録し、旧辞を討覈し・・・」とあり、複数の帝紀本辞が諸家にあったことがわかり、それを撰録したのである。

書紀のまとめ方には、ある情念が存在する。天武扶余家だが、嫡流ではない。それで、この島に古くから居る政権に祖先を求めた。半島で敗北した百済の過去を捨てるために、倭国は半島に対して優位であるという捻転した姿勢が生じた。特に百済に対しては、絶対的優位を印象付けた。もし、ありのままに百済との関係を書けば、半島で敗北した政権の流れを汲むことにつながるから、そこにたどり着かないように、すべてを否定しなければならなかったのである。

昆支王系大王を天皇の歴史に入れなかった。百済の支配下にある昆支王系政権を歴史に入れると、倭国が百済の支配下であったという不都合な真実が滲み出る。そして、アマタリシヒコ大王をも皇太子として書紀に組み込み、百済系大王を消したのである。代わりに倭の五王系の後を継体王が継いだようにしたのであった。書紀完成後、丈六光銘などあらゆる金石文をコピーしなおし、大王政権にたどり着かないようにした。

国家編纂の歴史書は対外的に考慮されている。特に、中国に朝貢する際には、日本と倭国の関係が求められる。中国は扶余勇が倭国に渡ったことを知っているので、日本と百済との関係も求める。真正直に歴史を書けば、唐が認めた勇の政府(日本)を壬申の乱で倒したという追及をまぬかれない恐れがある。唐に付け入る隙を与えないためにも、フィクションでなければならなかった。フィクションを事実化するために、金石文を隠滅し異論が出ないようにしたのであろう。後世に王年代記を宋に提出したのも、来歴を事実化したかったのである。しかし、事実との違いはどうしても起こる。タリシヒコを用明とする誤りを世界に露呈した。

天智を祖とする桓武にとって、書紀は自身の正統性を示すものではなかったが、書紀は民族統一の要であり、このフィクションをわざわざ改めることはしなかった。書紀を歴史として信ずる人々は常に一定数存在し、不変の書として絶対視されてきた。百済はじめ半島に対する作られた優位性や不敗神話が国家の歴史とされ、近現代においては、政治家・国民に誤った国際感覚が浸透し、大失敗に至らしめた。中国史書や金石文との矛盾を無視し、歴史の科学的解明をタブーとする力は現在も残っており、その意味では宗教的経典ともいえる。

辰国が倭国に移動

百済が倭国に渡る以前から王達はどの道をたどっても、辰王に到達するようである。辰王の「世襲」と「自らは王に立つことができない」というルールは辰王家を永久に存続させる公開ルールになりえ、王達の間で正統性争いが起きると思える。扶余隆墓誌「百済辰朝人」は扶余家(伯済国)が辰王を継いでいる唐公認の証拠で、倭の五王が辰王(月支国)であることとの関係を考えると、正統性による争いが起る。倭の五王が百済都督を除外された事、継体が日十大王がいるにもかかわらず王権行為をした事、継体の一家死亡事件、上宮法皇一家連続死は辰王の正統性争いからうまく説明できる。文明や勢力の強さだけでなく、極東アジアにおいては血筋の視点も必要のようである。辰王は分裂をして、一方が倭国に流れ、残る一派も時を経て倭国にわたり、日本という国に落ち着いた軌跡は、百済が分化しながら倭国に落ち着いた過程と酷似している。王族の移動や民族移動とはこのようなものかとその詳細を覗いた感がある。

歴史と王朝

史記にある夏王朝は、かつて神話とされていたが、実在が証明された。帝堯の「洪水滔天」はあり得ないことと思われたが、近年、奥地の山に巨大な自然ダムの痕跡が発見され、それが決壊するとありうるという結論がでており、やはり事実が記されていた。中国史書に事実が記載されている可能性が高いのは、もともと史記がそれまでの歴史書をもとに、王朝毎に編纂され、史書を作る客観的史観が出来上がっていたとみられるからだ。のちの史書の各東夷伝でみられるように、過去の王朝の史書の記述をまずコピーしてから、その王朝での出来事を採録するという、史記の姿勢が踏襲されている。これにより、過去の史書は原典化してゆくのである。また、中国史書は確認ができない事実については伝聞だと明記するように、やはり記述姿勢が客観的である事をうかがわせている。誇張はあっても、捏造はないだろうと思わせる。旧唐書とは別に新唐書を作るなど、いったん出来上がった史書には後に手を加えない姿勢もうかがえる。そもそも、中国史書は王朝が終わってから、記録をもとに編纂されるので、対象王朝の主観が入り込む余地がない。過去の王朝は未来のことは書かないので、現王朝は過去の王朝の歴史を変える必要がない。したがって、中国史書は比較上客観的であるとできる。これは易姓革命思想がもたらす王朝交代制が大きく影響している。

他方、日本の記紀はそれ以前の歴史書をもとに編纂したというものの、もとになった帝紀・本辞は残されていない。天皇記や国記はあったそうであるが見られたことがない。これでは、歴史書が過去から受け継がれてきたものかどうか検証することができない。また単一王朝志向は、現王朝と歴史書との整合性が求められ、ある種の自縄自縛作用が生じる。歴史を守ることが現在の政治を縛り、逆に、現在の意思決定が過去を改竄する動機となる。例えば、「外国の支配を受けたことがない」は単一王朝志向ならではの発言だが、過去にさかのぼってそのような事実はなかったことにしなければならなくなる。また、作られた記紀をいつまでも原点にしなければならないので、後に作られる歴史書は、記紀を肯定しなくては矛盾が生じる。単一王朝志向は過去を水に流すことができないうらみがある。

この論考で結論したように、遡れば単一王朝ではない。現代の歴史家の「大化が最初の年号で、それ以前は私年号である」発言は、大王政権を否定する日本書紀の意向を引き継いでのことだろうが、同時に、認められない政権が存在した事実を認めている。実際、その墳墓は存在する。古市・百舌鳥古墳群や聖徳太子廟である。ここを発掘調査されると、どういう事実が現れるかわからない。それで封鎖をしているのだろう。しかし、明治時代に伝仁徳天皇も聖徳太子廟も調査されている。現在の封鎖行為は、明治時代よりも歴史の神秘化を図っていると考えられ、時代が逆行している。単一王朝志向を守るためであろうと考えられる。実際、里内裏にうつり、政権を担当していないのであるから、単一王朝でも何でもなく、大過去に存立根拠を求めているに過ぎないのだが・・・。

日本にミッシングリンクは存在しない

中国で木簡が使用されたのは4世紀頃までである。日本で使用され始めるのは640年代である。間隔があきすぎ、日本木簡は独自とされてきたが、1990年代以降、韓国において木簡出土が続き、それが荷札の木簡であり、書式や形態が、日本木簡の原初形態であることから、日本木簡の源流が新羅や百済にあったことが認められた。百済の6~7世紀の木簡に「三四十二」などの九九がある。百済木簡に「太公西美前部 赤米二石」があり、日本でも藤原宮・飛鳥京・石神遺跡などの木簡に地方から献上された「赤米」につけられた荷札が多い。日本の「出挙木簡」の出挙は、種稲を民衆に貸し付け収穫時に5割の利息とともに返納させる稲の貸付制度で、これを「貸稲」という。扶余の遺跡からは官人に「食」を貸し付けた記録「佐官貸食記」(618年)木簡が出土しており、貸付額の5割を利息とする慣行が百済7世紀前半の段階で成立していた。百済の「佐官貸食記」が借りた穀物を返納することを「上」、未納分を「未」と表現し、穀物の単位として「半」・「甲」などを用いていることも日本の「出挙木簡」と共通している。

法隆寺釈迦三尊像の台座墨書銘に「椋費」とある。「椋」は物を収納するクラを意味する文字で、半島で独自に作り出された文字であった。上宮法皇=アマタリシヒコが百済系であるとの推論を裏付ける。国字とされてきた「蚫」、「畠」も韓国出土の木簡に既に記されていた。国字は「大漢和辞典」だけでも141字あり、そのうち真の国字はどれほど残るのか興味深い。

640年代に百済から来た王族は翹岐王(=孝徳)で、律令制を施行するには記録や計算で木簡を必要としたことだろう。掛け算割り算が必要だから九九を知らないと大変だっただろう。日本の地方の行政単位「五十戸」を記した木簡は孝徳の646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」を裏付けるものである。

中国と日本のミッシングリンクは存在しない。半島を介せばいいのである。律令制を唐に求めるために高向玄理を持ち出す必要はなかった。明日香人も目を見張った前期難波宮は王宮里が手本なのである。木簡も百済からもたらされた。なにも不思議なことはない。

古墳の被葬者

古墳の被葬者を日本書紀に求める傾向がある。書紀が古代の人物を漏らさず記載しているならよいが、アマタリシヒコのように記載されていない人物がいるので、書紀によって古墳の被葬者を特定することは難しい。アマタリシヒコ大王の父母、祖父母の古墳があるはずであるが、歴史書が不十分ゆえ、第一級の重要な古墳であっても、人物が特定されえない。例えば、藤ノ木古墳は6世紀第四期のものらしいが、外形は半島の円墳に通じ、副葬品の冠や歩揺沓は武寧王陵(523年頃)のものに近い。遠く1世紀のアフガニスタンのティリヤ・テペ遺跡の冠を持ち出し「似ている」というのは話題そらしである。また骨が残っているのにDNA鑑定もせず男子二人か男女二人かの決定をしないのは人物の特定を回避し、また他の人物との遺伝的関係の特定を忌避しているのである。

一般に古墳の被葬者のDNA鑑定をすれば、各地の王クラスの血縁がどの程度のものであったか、すなわち、民族的に違ったのか近縁であったのかはっきりする。DNA視点から結論を出せば、日本史は日本書紀とは異なることが明らかになるであろう。にもかかわらず、DNA鑑定を行わないのは、日本史が崩れるのを恐れているのである。歴史は国民をまとめるためにある。まとめるためにあるものを敢えて古墳研究者に自由に研究させて崩されてはもともこもない。そのところは研究者も心得させられているのだろう。かくして、研究者は科学者でなく文学者となるのである。